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旅人ひとりー大阪大学探検部一期生のたわごとー

とこしえの精神(こころ)を求めて、さまよ(彷徨)う旅人ひとり。やすらぎを追い続け、やがてかなわぬ果てしなき夢と知るのみ。

ボルネオ・キナバル山周辺の生物

2007-11-07 | 探検
先にも述べたように、キナバル山周辺は多種多様な生物の宝庫で、世界最大の花ラフレシア(花の直径は1m近くあった)が分布している。稀な上に花の咲く期間が短く、薄暗い熱帯雨林の林床に腐臭で虫をおびき寄せるこの巨大な幻の寄生植物に出会えた時には、思わず胸が高鳴った。

画像、左下はラフレシアの蕾で、赤っぽいキャベツのようなものが地面に転がっているような感じであった。

右側はミドリゼミ属のセミ(Dundubia vaginata)で、少し濁ったけたたましく、甲高い声を薄暗いジャングル中に響かせて鳴いていた。高木の幹にとまって鳴いている本種を発見、望遠レンズを一杯に伸ばしてストロボを使って撮影することが出来た。

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ニューギニア高地人

2007-11-07 | 探検
チョウ採集を目的に、飛行機を乗り継いでニューギニア高地(インドネシア・イリアン州)へ行った。

コテカ(ペニスケース)をつけた夫と白い泥土でお化粧した妻と子供連れの家族に出会って仲良く記念撮影。

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ゼロ戦?の残骸

2007-11-07 | 探検

ン十年前、新婚旅行で訪れたミクロネシア・ヤップ島。

島唯一のホテルの白人の女主人に、日本人の新婚旅行客は初めてだと言われた。

やって来る日本人はマレだった時代。島内には太平洋戦争の跡がまだ幾つも残っていた。

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大阪大学探検部 創設 (1963年、昭和38年)

2007-11-07 | 探検

昭和38年、阪大探検部創設。翌39年4月1日、阪大学生部より公認団体として正式に認められた。1年生の新入部員が加わり、部員数は43名になった。

僕は探検部一期生として、多くの仲間と共に創設当時より関わり、初の海外遠征隊を送り出すことを目指していた。

上記のエンブレムは遊子会(OB会)の紋章で、遊子とは旅人。探検部員はもちろん旅好きで、世界各地に出かけているし、人生は行けども行けども到達することのない漂泊の旅の如きものなので、我がOB会にふさわしい名称だと思っている。

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阪大探検部、第一回合宿・屋久島縦走

2007-11-07 | 探検
大阪大学探検部創設後初めての合宿が、1964年(昭和39年)3月屋久島で始まった。

雨にたたられ、安房で1日沈殿後、トロッコの軌道上を歩いて小杉谷に向かう。軌道の上は歩きにくいのに加えて、当時、屋久杉の伐採が盛んに行われていて、上段の画像に見られるように太い屋久杉を積んだトロッコが時々下ってきて、軌道脇に避難している我々の側を通り過ぎる様はなかなか迫力があった。

黒味岳の山頂からの眺めは、屋久島の山岳地帯が「海のアルプス」と形容されている言葉通り、すばらしいものであった。

花之江河でのテント泊は南国の3月下旬とはいえ、標高が高いので、夜は猛烈に冷えてよく眠れなかったのを昨日の出来事のように思い出す。

宮之浦岳(1935m)、永田岳(1886m)を縦走、鹿の沢小屋泊後、海岸部の永田に着き、屋久島縦走を無事終えた。

山中での正味、三泊四日の縦走合宿は、参加者全員の団結力を強めるのに絶好の機会であったし、四月に新入部員を迎えて、探検部の組織を強固にしてゆける自信を我々につけさせた。

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大阪大学探検部・初の海外遠征、ボルネオへ

2007-11-07 | 探検
昭和39年(1964年、東京オリンピックの年)、国内では当時秘境とされた西表島、南アルプス大井川源流、北海道日高山脈の踏査に乗り出すと共に、毎日新聞社の後援のもとに自然環境と土地利用の調査を目的として人文地理学の海野一隆助教授(当時)を隊長とする「大阪大学探検部 ボルネオ(サラワク)学術調査隊」を派遣。僕も隊員の一人として参加した。

海外に出かけること自体が困難だった時代に、多額の費用を必要とする、学生の夢のような計画の実現に向けて、隊長として陣頭に立っていただいた海野先生を初め、顧問を引き受けてくださった経済学部・高田馨教授、面倒な書類作成に労を惜しまれなかった学内関係部局の方々、そして、もちろん探検部一、二期生の親友たちの献身的な協力、への感謝の気持ちは終生忘れることは出来ない。

かくて探検部初の海外遠征の第一報は、毎日新聞紙上に大きく掲載された。

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陸ダヤ(ビダユ)族の村(大阪大学探検部 ボルネオ遠征、1964年)

2007-11-07 | 探検
ボルネオでは、陸ダヤ族(現在はビダユと呼ばれている)、イバン族、カヤン族の村に滞在したが、この画像は当時の陸ダヤ族の村である。緑の木々に包まれ、大小12の高床長屋(ロングハウス)から成り立ち、家の近くにはココナツヤシが亭々と聳えていた。

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ボルネオ・陸ダヤ(ビダユ)族の村(1998年)

2007-11-07 | 探検
同じ村の1998年(平成10年)の風景である。34年後、背景の山の姿は変わっていないが、村の変わりようには驚かされた。

これがあの村! ? 最初は信じられなかったが、見覚えのある山の形と当時の村長さんの息子さん
(もう70代になっていた)に会ってようやく納得した。

もはや村にはロングハウスは存在せず、一戸建てばかりである。学生時代、僕が住み込んでいた時から、村長さんは「若い者はプライバシーの無いロングハウスには住みたがらない」とこぼしていたが、「ああ、やっぱり!」と感慨無量であった。

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毎日新聞紙上の「大阪大学探検部」、ボルネオ遠征記事、第二弾

2007-11-07 | 探検
さらに奥地の原住民の村に入り、彼らと生活を共にした。

これは海ダヤ(イバン)族とカヤン族の村で生活したときの模様である。各民族ごとに生活様式が異なり、若い僕たちに新鮮な驚きと楽しさをもたらしてくれた。

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世界探検裏ばなし(1965年1月)

2007-11-07 | 探検
1964年、東京オリンピックの開催された年には探検部のある大学はまだ少数であった。

1965年1月5日の朝日新聞に「世界探検裏ばなし」なるタイトルで座談会の記事が掲載され、京大、神戸大、関学大、同志社大の海外学術調査隊と並んで、我が阪大探検部顧問で、阪大ボルネオ学術調査隊を率いた海野助教授(当時)が参加され、ボルネオでの体験を話された。

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「ボルネオの人と風土」1968年10月古今書院発行

2007-11-07 | 探検
1964~65年(昭和39年~40年)といえば、太平洋戦争が終わって二十年になるが、戦前には移民、商売人が居住し、さらに戦争中は戦場の一部になっていたにもかかわらず、ボルネオのことが我が国ではあまりにも知られていず(山崎 朋子著、1972年刊「サンダカン八番娼館」はまだ出版されていなかった)、あるいは誤った先入観のもとで正しい情報が伝わっていなくて、ボルネオに四ヶ月滞在していた我々が、一人でも多くの人たちにボルネオの現状を正しく伝えることが使命ではないかと思い、海野先生と共著で「ボルネオの人と風土(古今書院発行)」を書いた。

幸い大変好評で、1980年(昭和55年)7月の第7刷まで12年間のロングセラーになった。

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「ボルネオの人と風土」朝日新聞書評、1969年1月

2007-11-07 | 探検
「ボルネオの人と風土」は古今書院から1968年10月に発行され、朝日新聞の書評欄に取り上げられた。

蝶好きの僕が、原住民の村に滞在中、暇を見つけては、捕虫網を振って蝶を追いかけていたので、蝶の話を少し書いていたのを、好意的に言及してあってとてもうれしかった。

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「ボルネオの人と風土」週間朝日書評1968年12月

2007-11-07 | 探検
「ボルネオの人と風土」の書評は朝日新聞のほかに週刊朝日、サンデー毎日、週間読売などに掲載された。ソ連共産党の機関紙「プラウダ」にも書評が出ていたと阪大のロシア語の先生からお聞きした時には本当にビックリした。

幸い本書の評判は良かったようで、1968年から80年に絶版になるまでの12年間で発行は7刷に及んだ。

また、後年、海外の蝶を採集、研究している仲間数人に、本書の蝶の記述に刺激されて、海外の蝶採集に熱を上げだしたのですよ、と聞かされて、とてもうれしかった。

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「探検と冒険」朝日新聞社,1972(昭和47)年発行

2007-11-07 | 探検
1972年、朝日新聞社より、これまでの日本人による探検の成果を整理し、次の時代の人たちに確実に手渡すことが必要であるとの使命と趣旨に基づき、「探検と冒険」なる書物が出版された。

これには、僕が加わった「ボルネオ(サラワク)学術調査隊」のみならず、阪大探検部の数々の活躍が紹介されていて、探検部創設に関わった一期生として無上の喜びを味わった。

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東京書籍発行、小六社会教科書

2007-11-07 | 探検
昭和46年(1971年)度より小学六年生用社会の教科書の「熱帯の生活」の部分に、阪大探検部のボルネオ(サラワク)学術調査隊が撮影した写真と隊の行動記録を著した書物「ボルネオの人と風土」の内容を参考にした記述が採用された。

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