旅人ひとりー大阪大学探検部一期生のたわごとー

とこしえの精神(こころ)を求めて、さまよ(彷徨)う旅人ひとり。やすらぎを追い続け、やがてかなわぬ果てしなき夢と知るのみ。

昭和8年と昭和45年のヤップ島の人々

2014-02-01 | 探検
ヤップ島、聞いたことはあるがどのあたりにあるのか、すぐに思い浮かぶ人は少ないと思う。地図で見ればおわかりのように、グアム島から南西に700kmあまり、緯度でみるとフィリピン群島南部のミンダナオ島の東方に位置する。浅くて狭い水路(海水)で分かれた四つの小島の総称である。

第一次大戦まではドイツ領、その後太平洋戦争終了まで日本の委任統治領となっていた。現在はミクロネシア連邦の一州になっている。戦前はヤップを含むパラオ、サイパンの島々は日本にとって北方の満州国が「陸の生命線」と呼ばれていたのに対し、「海の生命線」として多くの日本人民間人や軍人が現地の人々と共に暮らしていた。

当時を映した記録映画の存在は知られていたが、無声映画の一部分が残されているだけで、その全貌は不明のままであった。ところが平成8年(1996年)トーキー付きの全フィルムが発見された。傷んでいたフィルムは補修専門家の努力によってよみがえってテレビで公開された。下の画像の「海の生命線・我が南洋群島」(昭和8年・1933年製作)がそれである。
第一級の記録映画と称せられ、当時の現地島民の暮らしぶりが克明に描かれている。上掲の映画のタイトルの下の2枚の画像に注目していただきたい。もちろん時は昭和8年ごろである。「腰みの」のみで上半身裸の女性、そして石貨が写っている。
 
石貨についてはご存知の方も多いと思う。石を円形に加工し、中央に穴を開けている。大きさは肩に担げるサイズから真ん中の画像のようにとても大きなものまである。ヤップでは材料になる石は産出しないのでパラオからカヌーで運ん来たといわれているが、手間暇がかかっているので石貨とよばれるのは当然であろう。

この映画を見ていて、昭和45年新婚旅行でヤップ島に滞在した時と人々の生活様式があまり変わっていないのに深い感慨を覚えた。もちろん昭和45年にはグアムからプロペラ機が就航していたが、3~4日に一便しか飛んでいなかったのでとても不便であった。当時新婚さんはグアムには溢れていたが、ヤップまで来るモノ好きはいなくて、ヤップ唯一のホテルの白人女性オーナーに日本人初のハネムーナーだと言われた。

下に掲げる2枚の画像はその時のもので、腰みのに上半身裸の少女と石貨が昭和8年の映画の場面を彷彿させる。妻が手にしているものは 小さくて観ずらいので恐縮ですが、新婚旅行先でもネットを振って蝶を追いかけていた亭主の収穫物を収めた三角紙を入れてある「三角缶」(チョウ屋にしかわからないかも知れません。ごめんなさいm(__)m)なのです

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