白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(17)大坂 飛田遊郭

2016-03-30 13:31:41 | 思い出
中川雅夫のどんちょう会で長谷川幸延作「飛田大門通り」という芝居をやった時に出演者全員で飛田見物をした。

やりて婆さんが店の前に立ち綺麗な女郎さん(?)が照明で光っていた。
飛田飲食協会の会長さんの案内で地元選出の柳本という国会議員の紹介でであった。
「百番」という昔の女郎屋の部屋をそのまま残した店で宴会をした。
話を聞くと飛田は奈良(それも桜井、吉野)の大金持ちが客としては一番良く、女郎さんは九州、特に佐賀の女が一番ということであった。
それを聞いて桜井の客と佐賀の女を原作に追加した。
部屋はステンドグラスの窓が綺麗だった。
あとクレゾールの匂いがする洗浄場もちゃんとあった。

この芝居には三枚目の女郎役で久保田真希を使った。
この後上京してスターになった。

この芝居を中座で上演した時(昭和40年)に長谷川幸延の演出助手としてついたのが西垣正樹という男で後のもず唱平である。
同じく台本募集に応募して入選した有望作家の卵の西村一文がいた。
のちのはな寛太である。二人とも文芸部員であった。
その時代の新喜劇には文芸部というものがあったのである。

出演者に売れない役者今川正、後のいま寛大もいた。
同じ仕出し仲間の中川雅夫が、藤代由紀子が新喜劇に入ったばかりの時である。
皆若く夢だけがあった・・・


もずは近鉄劇場でこの芝居を見ておおいに感動して中川にどんちょう会一〇周年記念曲として「よいしょ節」という曲をプレゼントしてくれた。












白鷺だより(16) 名古屋 中村遊郭(その2)

2016-03-30 13:21:14 | 思い出
名鉄ホールといえばその昔電話帳といわれた「夫婦善哉」の脚本(昭和42年)以来
藤田まこと、野川由美子コンビの夫婦シリーズ(演出は竹内伸光)を書いてきた逢坂勉さんが一本立ちの兆し。
のちのロマン舎の核が出来つつあった。

昭和54年4月逢坂 勉作・演出「お天道さん、見ててや!」の公演に付いた時の話

野川由美子、大木実が主役で後は桜木健一、大橋壮多、小林芳宏 島米八 大竹修三らボクと同年齢の関西の若手役者ばかりが絶えず喧嘩を繰り返すといった芝居に当時超人気者の笑福亭仁鶴がゲストに出たことがある。

その中日近くに仁鶴の嫁(たかこ姫としてこれまた人気があった)がやってきて役者、スタッフを慰労会を催してくれたした。ちなみに当時の仁鶴のマネージャーは後の常務になった木村政雄さんであった。
いわく素人風情が人気者ゆえいい役を戴きご迷惑をおかけした、またスケジュールを無理させて申し訳がなかった(一回公演が多かった)と男性は仁鶴やんが、看板と女優は嫁が接待したことがある。
女性陣はどうしたか知らないが男性陣は中村の近くの焼肉屋で宴会をして精を点けてから全員でソープに繰り込んだ。
全員で番号札を持った記念写真が残っている。
ベテランのNという関西の役者はそういう遊びをしたことがなく、「天国じゃ、天国じゃあ」と喜んだ。
大人数で繰り出したから 少なくとも何人かは「何とか兄弟」になったはずである。

このあとの芝居が俄然良くなったのはいうまでもない。

こういう女郎屋遊びは実に劇団を統一するには一番の方法であると実感した。
ただし金がかかるが・・

白鷺だより(15) 名古屋 中村遊郭(その1)

2016-03-30 12:41:26 | 思い出
 名鉄ホールに出演している役者の松田明さんにお願いして彼が引雑用で泊まっている中村にあった
元遊郭の部屋に泊めて貰ったことがある。

仕事で行ってはいないから、たぶん藤田さんに呼ばれて野球の助っ人で行ったついでであろう。(ナゴヤ球場でよく試合をした)
松田さんは関西の新劇の俳優さんで藤田公演のレギュラーの役者であった。
彼は終戦の年の3月、軍需工場への学徒動員をさぼって同級生を爆撃で全員亡くした異色の経験を持った人である。
その彼におもろいから一泊千円で遊びにおいでと言われて中村遊郭の「ひふみ」という古い遊郭の風情がそのまま残っている店に泊まったことがある。
素泊まりが条件でお風呂に入るためには現在営業している「トルコ風呂」に入らねばならない。高いお風呂代になるので松田さんは毎日楽屋風呂に入ってから帰っていた。

入り口を入ると、昭和32年当時のお女郎さんの顔写真が並んでいる。
その横には当時のそうそうたる有名人(芸人、相撲取り、野球選手)のサイン色紙が並んでいた。

コの字型に部屋が並んだ真ん中に中庭があり これがこの中村遊郭の特色だといわれた。
中村は江戸の様に(浜松以東)廻しのシステムがなく皆自分の部屋で客を取った。

さて案内された部屋は女郎さんの本部屋で丁度品もそのままおいてあり小さな水屋には市松人形が一つおいてありあんまり気持ちがいいものではなかった。
ふとんの上の天井には何人かの歌舞伎役者の隈取の絵が張ってあり 女郎さんはそれを見あげながらお仕事に精を出したのであろう、
ひのきの廊下はいかにも高草履で女郎さんが歩き回ったと思われるツヤで光っており、その向こうには大きな座敷蔵があった。
そこは足抜けに失敗した女郎が折檻されている声が今にも聞こえてきそうな蔵であった。

わずか千円で博物館に宿泊しているようで貴重な体験だった。


  


白鷺だより(14) 花紀 京さんのこと

2016-03-29 22:11:31 | 人物
花紀 京さんのこと
 
 花紀京さんがなくなった。 
12年間もの間植物人間として生きてこられて それをささえるご家族のご苦労を思うと「長い間ご苦労様でした」と声をかけずにはいられない。
 
花紀さんと初めて仕事をしたのは 昭和55年年末の芦屋雁之助主演の「むちゃくちゃでござります物語」、
雁ちゃんのアチャコで彼が父親であるエンタツ役を演った時である。
それ以前は岡八郎とのコンビを吉本新喜劇で見ていた だがそんなところでくすぶっている役者じゃなかった

その後何本かの作品で御一緒したが 中でも良く喋ったのが北島公演の時である。
淀川曠平さんと共に北島三郎公演のなくてはならない脇役となり 公演中は舞台事務所に入りびたりでショウ担当の僕に「吉村、ひどい芝居や なんとかしてくれ」といい「昔のアチャコの芝居 あれお前が書いたんやて あれはええ芝居やった」と何故かボクがゴーストで書いた幕内の秘密まで知っていて 一緒に芝居の北島を愛するが故の悪口大会で盛り上がったものだ。

2002年 脳腫瘍の摘出手術を無事終了して 年末の「紅白」にも元気な姿を見せて若手漫才師たちと「明日があるさ」を歌っていた.
 
2003年名鉄ホールでボクが演出した芦屋雁之助の舞台を主役の鴈之助が残りあと三日で病気休演した時 代役を快く引き受けてくれて
一緒に新幹線で名古屋に向かった。 
同じ車両に代役候補だったが皆が猛反対した大村崑が乗っており
「雁ちゃんが頑張っていると聞いて 応援にいくねん」と言われ返事に困った。

無事千秋楽を迎えて お礼を述べると
「実は舞台に上がる自信がなかったんや、これで演っていける自信がついたわ こっちゃこそおおきに」と礼を言われた。
だが次の5月「低酸素脳症」を患い自宅風呂場で倒れそのまま 意識が回復することなく「寝たきり」となっていた。
そして2015年8月 肺炎により大阪市内の病院で死亡 享年79歳

そう、花紀お最後の舞台は名鉄ホールの「とんてんかん、とんちんかん」のイジワル婆さんの役だった。

決してうまい役者ではなかったが「味で魅せる」役者ではあった。 

なんばのうどん屋「千とせ」に二日酔いの花紀が入って来て「肉ウドン、ウドン抜き」と注文した。
店主がそれに答えて出した. この店の名物「肉吹」の始まりである。


白鷺だより(13) 忠治?と呼ばれた男

2016-03-29 21:53:05 | 思い出
  平成13年3月名鉄ホール
作演出「主演で予定していた芦屋雁之助が病気のため休演が決定した。.
予定していた演目のうち 一本目の「炎の大輪」はまったく未完であったので 題名はそのままにして鴈之助主演で既に公演していた藤本義一作「どっちやねん」を吉村が脚色して小雁主演でタイトルはそのままで上演。 
もう一本の「忠治と?言われた男」は装置の打ち合わせだけ済んでいたが中身は皆目判らない. 
雁之助と打ち合わせした吉村の記憶を辿って台本を作って急遽渋谷天外にお願いして 主役の忠治の代役として上演した。

その舞台稽古の日 通し稽古が終わって客席の明かりが点いた時 舞台上の役者が悲鳴のように叫んだ。
「師匠―」見ると客席の一番奥で車椅子に乗った師匠がいた。
何人かの役者が「師匠!」と叫んで駆け上がろうとした。
まずいことになった。 ここで師匠を呼んで「ダメ出し」を貰ってもいいが今日の稽古がひっくり返される恐れもあった。 そのことを察してプロデューサーのNさんは皆を制して走っていってお引取り願った。
あとで「吉村におおきにいっといてくれ」との伝言を聞いた。

この「忠治?と言われた男」は怪我の功名と言おうか 面白く出来上がった。
その大きな要因は天外がコメデイアンということを証明した名演技にあった。
(僕が見た中では紙風船団の「そないへこむなハムレット」も名演技であった)

芦屋雁之助は2年後復活して平成15年4月「とんてんかん、とんちんかん」「春爛漫、夢燦々」を同じく名鉄ホールにて上演していたが千秋楽何日か前に倒れ 急遽花紀京が代役として上演した(病気で長期入院していた花紀はこの公演の代役を買って出てくれた 「僕に舞台に出られて嬉しかった」と言ってくれたが すぐあと再び倒れ 入院生活が今もなお続いている 彼が再び舞台に立つことはないだろう)*1

一年後 平成16年4月7日 名鉄ホール芦屋小雁公演は鴈之助原作吉村脚色演出「どんこな子」だった 
その舞台稽古中に雁之助は京都の病院で死亡した。
カーテンコールに雁之助の遺影をおろした。

*1  この文章を書いた2年後2015年8月5日 花紀 京は肺炎により死亡 享年79