白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(123)はな寛太のこと

2016-08-11 16:31:32 | 人物
 


僕がトップホットにいた頃は草野球が盛んで梅コマだけでも何チームかあって リーグ戦が出来るほどであった 
トップホットチームの不動の4番はキャッチャーのはな寛太だ
それもそのはず 彼はむかしノンプロの雄「神戸製鋼」のレギュラーだった 
高校は兵庫県の野球の名門校でキャッチャーをやっていて 東映フライヤーズの入団テストを受けるが落ちて
 結局神戸製鋼の野球部に潜り込む
しかし腎臓結石のため退部 入院生活を余儀なくされる

その頃松竹新喜劇が台本募集をしていることを知り病床で綴った三篇を送ると 
中の一編が何と入選し 昭和39年当時5万円という大金を手にする
 
それが縁で松竹新喜劇の文芸部に潜り込む もず唄平こと西垣正樹と同期の入部だった
昭和39年といえば昭和23年に誕生した松竹新喜劇が十六年目に株式会社になった年で台本募集もその一環であったかもしれぬ 
株式会社松竹新喜劇は新しい劇団歌も作り俳優養成所も作り(喜劇俳優をめざして入所した人がいてるはず、どうしたのか?)
文芸部も確立しょうと若い作家を集めたのである 
これに応じたのが西村一文であり 西垣正樹であった 
二人は何本かの習作を書いて天外に手をいれてもらいながら作劇を勉強する 
西村は同時に趣味のボディビルにも力を入れる

松竹新喜劇劇団歌2番

君に告げん 七色の夢 人の世の
喜びも悲しみも
芸の世界で 共に笑おう 共に泣こう
新し喜劇 生きてる舞台
愛される庶民の劇団
ああ その名ぞ われら「松竹新喜劇」
希望の劇団 松竹新喜劇

そんな折昭和41年南座公演「はるかなり道頓堀」で天外が倒れる事件が起きる
 
株式会社も文芸部は解散 そのうえ寛美が借金問題でクビになり蝶々・五郎八時代となる

しかし彼らには寛美の穴埋めはおいそれとは出来ず 
すぐ戻った寛美に西村は「役者顔してるから役者になったらどうや」と言われ役者に転向する 
その頃潰れた松竹家庭劇から移ってきた十吾の弟子の今川正と気が合ってコンビで使われることが多くなる 
その矢先寛美が肝硬変で倒れたので重要な役が回って来ると思いきやそんな役は小島慶四郎や秀哉にいってしまい
西村一文の夢はしぼんでいく一方だった 

やむなく相棒の今川に語り掛け漫才の世界で挑戦してみようということになった 
その旨を寛美に告げると喜んでくれ芸名を考えてくれた 
その時寛美は風邪をひいていて鼻をクスクスやっていたので
「鼻かんだ」~「いつかんだ」~「今かんだ」の試行経路で「はな寛太・いま寛大」の名前が決まった 
勿論「寛」は「寛美」の「寛」である (西村がはな寛太 今川がいま寛大)

東京木馬館からのスタートであったが名古屋の劇場で「いとしこいし」と知り合い漫才の師匠と呼ばせてもらうようになる 
そしてその引きでお二人が所属する大宝芸能に入り(そのあとすぐボクも大宝芸能に入った)
「ちょっと待ってね」のギャグで人気者になる
 
この「ちょっとまってね」
はストリップの前座で漫才をしていたらダンサーが支度に間に合わず客席に聞こえるような大声で
「ちょっとまってね」と叫んだのがヒントになっている

トップホットがなくなってからは松竹芸能に所属して活躍
正統派しゃべくり漫才を確立して二人で「いとし・こいし」の二代目を継ぐ話もあった
平成15年 上方お笑い大賞 特別賞を受賞
平成16年には文化庁芸術大賞(演芸部門)を受賞
平成17年最愛の「かあちゃん」に死なれ(お店によく行ってご馳走して貰った)
あとを追うようにして平成19年食道がんのため死去 
61歳だった  
  

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