白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(153)母の死

2016-11-01 10:07:34 | 人物
  今日ママンが死んだ(アルベール・カミュ 異邦人)

その頃学生演劇で取り上げる作品はカミュやサルトルばかりであった 
我々の世代の人間はみんな「母の死」でこのカミュの「異邦人」のこの書き出しの文章を思い出す 
そしてどこかで早くその日が来るのを待っていた 「走る」にしても「飛び越える」にしても「母親」は邪魔であった 
そして「とめてくれるな おっかさん 背で銀杏が泣いている 男東大どこへ行く」などとうそぶいていた

それから45年以上過ぎた
⒑月17日母が死んだ 先月の4日96歳の誕生日を迎えたばかりであった
入所8年目を迎えた老人ホームで子供たちが囲む中 老衰で静かに消えて行くような死であった
文字通り天寿を全うしたのであり いわゆる大往生だったと言っていい

お盆の時帰省して母親を見舞ったとき あまり永くないような気がして娘にリオのパラリンピックの取材に行く前に会っておくように言ったがスケジュールが合わず会えなかった
幸い娘が帰ってくるまで持ったので帰って来てすぐの先月末一緒に見舞ったがその時はよく喋って皆で写真も撮った 
その時は妹夫婦は長期のスイス旅行にいっていたがこれも戻って来るまで生き延びた 
それから3週間軽い肺炎にかかった時病院に送られたが母の「病院で死にたくない」との希望で退院して次に発症しても治療しないとの契約で施設での最後をお願いした 
そして17日いよいよその日臨終という連絡を受け大阪から田舎に向かっている間に死んだ 他の周りの子供たちに見送られながら

亡き母 吉村三枝は三重女子師範学校を卒業後 同じ教師だった亡父吉村一巳と結婚した
 父は市内の蔵持小学校というところの教師であった
結婚式場は近くの通称「お春日さん」と呼ばれている宇流富志祢神社である 戦争中であり質素なものであったという 昭和19年3月の末慌ただしく行われた 新学期から近くの薦原小学校に赴任するためであった
しかし新婚生活は長くは続かなかった その6月1日一巳に召集令状が届く 吉村一家全員が集まって慌ただしく出征前に家族写真を撮った それから一巳は北支での捕虜生活を経て昭和22年ようやく帰国 それまで教員生活の傍ら義祖母、義父 義母 妹たちや弟の世話を一手にやらざるを得なかった そして待望の長男正人、すなわち僕を始め妹啓子弟和仁を生み育て上げた 羽仁もと子の教育論を信奉して幼児生活団名張支部を主宰した
 孫である僕の娘のもと(羽仁もと子からとった)が後年自由学園に入ったのもその影響だ 学生運動での逮捕、学校中退騒ぎ、せっかく大学まで出てもまともな仕事に付かず演劇のみちに進んだこと(多くの演劇人は多かれ少なかれ親不孝者である)など不孝の多くは長男である僕ばかりで あとの二人は恙なく育った そんな親不孝ばかりだったけれど死後ホームの机の上にボロボロになった何冊かの僕の演出公演のパンフレットが置いてあり「ホームの仲間に自慢げ見せてましたよ」と言われ救われた気がした そしてお棺の中にも最近の中日劇場のパンフレットを入れさせて貰った

8年前 地元で教師をしていた弟夫婦に母親の面倒を見てもらっていたが気の強い母のせいで折り合いが旨くいかず困っていた時 田舎にも老人ホームが出来ることになり そこのモニター員として格安の値段(月6万)で入居することになった 幸いそこが母に合ったらしくご機嫌で生活を始めた 我々は年二回お正月とお盆に帰省して顔を見るだけで済んだ 教師の恩給は思ったより良いらしく6万の生活費は十分賄えた そればかりか正月の新年会 孫たちへのお年玉 お盆の帰省代 すべて母親からのお小遣いで賄われた
そればかりか自分の葬儀代も十分に残してあって無事終えることが出来た

戒名 教廣院壽光枝友大姉
この戒名代も実は父親の時に一緒に払っていたことが判明 
子供たちは感心することしきりであった 合掌
 
喪中はがき原稿

 喪中につき年末年始のご挨拶をご辞退申し上げます

10月17日母吉村三枝が97歳で永眠致しました
故人の遺志により葬儀は家族のみで執り行いました
服喪中につき 新年のご挨拶は欠礼させていただきますが
皆様には良い年が訪れますようお祈りいたします