白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(162)新宿ムーランルージュの幽霊

2016-11-19 07:14:18 | 思い出
   新宿ムーランルージュの幽霊

赤いルージュにひかされて 今日もくるくる風車
私のあなた あなたの私 ラムウ ラムウ ムーラン・ルージュ
          (サトウ・ハチロー作詞)


新宿ムーランルージュは1931年(昭和6年)新宿駅の東側にオープンした元玉木座支配人佐々木千里が個人で開いた劇場で舞台は間口4間奥行2間半 定員は430人 一日三回公演休みなしで10日ごと出し物が変わった 佐々木はダンサーの石井獏の紹介で「かにや」大道具の社長から一万円借金して資金を作って妻の実家「浅草広養軒」からも金を引っ張り出してのオープンした オープン時は文芸部顧問に当時新興芸術派として脚光を浴びていた龍胆寺雄 吉行エイスケ(淳之助の父) 楢崎勤を迎え カジノフォーリーの元文芸部長島村竜三を文芸部長とした 出演者は中村竜太郎 石田清 藤尾純 三島謙(後の曾我廼家五郎八)武智豊子 沢文子 南部雪枝(藤尾純の子供を産む中原早苗の母)ら
開場第一回目の公演は次のようなメニューであった

1 清水閨抽作「猿の顔は何故赤い」
2 中村正常作 吉行エイスケ演出「ウルトラ女学生読本」
3 ヴァラエテイ(A) 舞踊 石井獏振付 6曲
        (B)歌唱 
4 高田稔作「恋愛禁止分配案」
5 レヴュー 当馬 吉作「水兵さんはエロが好き」10景
       (当馬は佐々木のペンネーム)


 レヴュー・軽演劇など浅草で演じていたものの再演でしかなく経営も思わしく「屋上で回るは赤い風車 内部で軋むは火の車」「ああ今日もまた看護婦さんの団体だ」とか揶揄される閑散ぶり 踊り子のズロースが落ちるという噂や球場で「誰誰さんムーランルージュで待っています」との呼び出し放送をしたりと色々策を打ったが何をやってもダメ 佐々木は競馬で稼いでは皆の給料にしたこともあった

ところが思わぬところからムーランルージュは一躍有名になる 翌昭和7年12月 一座の看板歌手高輪芳子(18歳)が新宿のアパートの一室で「新青年」などにファッション記事を書いていた26歳の作家中村進治郎とガス心中を図り結局高輪は死去 中村は息を吹き返した 中村は懲役二年執行猶予三年の刑を受けるがこの事件が「歌姫情死事件」として大々的に報道され「ムーランルージュ」の名は一躍知れ渡ることになった
この「歌姫情死事件」をきっかけに翌8年正月公演からムーランルージュは熱狂的な観客が押し寄せた 当時の踊り子だった望月優子(当時は美恵子)は「一日三回公演だったが正月は朝からぶっ続けで9回もやって足が棒になるほど踊り続けたものです」

事件からしばらくたって楽屋番をしている爺さんが毎晩のように高輪秀子の幽霊が出るので楽屋番を辞めたいと言いだした 聞くと真夜中 女性楽屋がある二階から衣裳部屋に降りてきて着替えをしている音がする 覗いてみるとと誰もいない 部屋に戻るとまた足音がする その二階から降りてくる足音は聞きなれていた高輪秀子の癖のある足音だという
老人の口調があまりにも真剣なので支配人らは相談して秀子の追悼公演をやることにした 
そして昭和8年12月それを追悼公演だとは役者に隠してそれを上演した
 
脚本は生き残った中村進治郎が書いた「新宿スウべニア」(思い出の新宿とでもいおうか)
中村は脚本だけではなく自ら主演を演じた そして相手役女優とたちまち同棲したり別れたり 挙句の果てに二人はアパートで服毒自殺 今度は中村だけが死んで女は生き残るといういかにも因縁めいた怪事件が起こる

丁度この頃からムーラン独特の作風が生まれ 爆笑スター(ロッパ エノケン・曾我廼家)で売る他の劇団とは異なる脚本の感覚の若さ 垢抜けした演出の魅力が主に学生の間で評判になり「ムーラン調」と呼ばれる新喜劇を生み出した 社会が戦争へと次第に追い詰められていく状況の中 若い踊り子たちのあどけないダンスと若い作者たちが描く都会的で軽妙な風刺喜劇は正面から抵抗するすべを持たない当時のインテリたちにとってせめてもの憂さ晴らしの場として受け入れられた その後もムーランルージュは戦後ストリップショウの攻勢に敗れ閉鎖を余儀なくされるまで(昭和26年)多くの役者 作者を世に送り出し続けた