まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

1リットルの男

2010-05-26 12:50:33 | 生老病死の倫理学
先日、48歳になって初めて満腹感を感じられるようになった、という話を書きました。
その記事をミクシィのほうにも転載したところ、
マイミクさんのひとり (小中高とずっと一緒の同窓生) がコメントをくれて、
そこから数回のやりとりが始まりました。
今日はそのやりとりをご紹介いたします。
ミクシィ上では私は 「ボス」、マイミクさんは 「むさっち」 を名乗っています。


【むさっちさんよりコメント】

をいつまでも飲み続けないボスさんなんて・・・

魅力半減だなぁ
これからの美味しい季節なのに



【私からのコメントバック】

一昨日、500mlの缶ビールが飲みきれなくて、
ひどく衝撃を受けました。
むさっちさんはこのあいだも美味しそうにを飲み続けていましたよね。
若くていいなあ。



【むさっちさんからさらにコメント】

お互い毎日を飲むけれど
どれくらい飲むか?と話したのを覚えていますか?

その時ボスさんが
「まずは1リットル飲んで、それから・・・」
と言ったのを聞いて
1リットルとびっくりしたのです。

でもよ~く考えたら500mlが2本でもう1リットル
それ以来、私の中では燦然と輝く

1リットルの男 

だったのに・・・。500も飲めないなんて・・・



【私からのコメントバック】

たしかにそんな話、昔したような記憶が (かすかに) あります。
1リットルの男
なんかむちゃくちゃカッコいいですね。
それももはや遠い過去の栄光…



以上です。
たしかに昔は1リットルは当たり前だったなあ。
そのあと何を飲むかが問題で、
バーボンに移行するか、そのままを飲み続けるかで悩んだりしていたような。
でも 「1リットルの男」 なんていう称号を頂戴していたとは知りませんでした。
ちなみにむさっちさんは未だに
オーバー1リットルの女」 であり続けていらっしゃるようです。
1リットルというとなんかものすごい感じがしますが、
むさっちさんも書いていらっしゃるように、
500ml缶2本でもう1リットルなんですよね。
飲みにとってはどうということのない量です。
ところが、そのどうということのない量が飲めなくなってしまったばかりか、
500mlも飲みきれなくなってしまったのです。

最近 「老い」 について考察を進めていて、
「私はもうできない、にもかかわらず私は存在する」
なんていう定式を披露したりしましたが、
そういう考察は、が飲めなくなってしまった経験などに基づいているわけです。
このブログの 「老いるとは?」 の記事に対して、
同じく同窓生である 「ねこまた」 さんから下記のようなコメントを頂戴しました。


「だからこそ
高齢者の支援には
“できないこと”ではなく
“今できること”や“残っている能力”
に目を向け
それらを維持、または少しでも向上
していくことが
重要である」
と、習いました。

あーそうだなぁと
何の疑いもなく思ってたんだけど
ブログを読んだら
あれ、そういう方向性って
ほんとにいいのかな、幸せなのかなと
なぜか思ってしまいました。

なんでかな???(笑


ねこまたさんが懐いた疑問がどんなものか定かではないし、
今から述べることは老い全般に当てはまることではないとも思いますが、
少なくともの飲酒量に関してのみ言うならば、
1リットルの男」 であることは別に自慢でもなんでもないような気がするんです。
昔はビール瓶イッキなんてよくしたものですが (よい子は絶対にマネしないでください)、
そんな命がけのアホな飲み方ができる必要はまったくないでしょう。
つまり、「できる」 ことが正常なんではなく、
「もうできなくなった」 ことのほうが喜ぶべきという場合もあるんではないでしょうか。
そう考えると、「若さ」 というのは 「過剰」 であって、
過剰部分を失っていくのは、人として正しい成長と見ることはできるのではないかと思うのです。

最近、ファミレスなどのメニューを時間内に全部食べ尽くすとか、
人気ベスト10のメニューを全部当てるまで帰れまテンなんていう、
飽食時代にふさわしいどうでもいい企画の番組が氾濫していますが、
バラエティ好きの私が、あの手の番組には怒りを覚えるのです。
そう思えるようになったのは、
満腹感を感じてしまった後にさらに食べ続けることのアホらしさに気づけたからだと思います。
「老い」 による 「喪失」 は、「過剰」 の 「排除」 であって、
それは 「人としての正しい成長」 である、という線で解釈を進めていけないか、
もうちょっと考えてみようと思います。
というわけで 「1リットルの男」 の称号は謹んで返上させていただくことにいたします。

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2 コメント

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Unknown (ねこまた)
2010-05-27 11:10:41
自分でもよくわかってないのですが
できなくなったことを
きちんと自分なりの意味づけを
することが大事なのかな、と…

例えば
1リットル飲めるのは自慢じゃなくて
「過剰」なんだ、という、そういうとこ。

例えば
ヒップホップのダンサーが
年を取って踊れなくなったとき
じゃぁ、民謡ならまだ踊れるって言われても、
それは、きっと楽しくない。
絵が上手でスケッチ旅行が大好きな人が
足腰が弱って手もふるえて
でも塗り絵なら綺麗にできますね、ってデイサービスでほめられても、ね。

やっぱり、できなくなった部分を
自分なりに決着をつけていかないと
ただできる部分だけを強調しても
身体的なリハビリにはなるかもしれないけど
それだけの気がする、のかな。

失っていくことを、受け止める。
正しい成長として、か、
じたばたしながらも、仕方ないって思うか、
どういうかたちにせよ、
ちゃんと目をむけないと
その先にすすめない気がします。

うーん。
でもこれも
若い頃より衰えた部分はあっても
まだまだ、人の手を借りるより
人のために動ける年齢の自分だから
思うことかもしれませんが。
返信する
なるほど (まさおさま)
2010-05-28 14:19:03
「できなくなった部分を自分なりに決着つけていく」
「失っていくことを受け止める」
まさにその通りですね。
そして、おっしゃるとおり私たちはまだ、
その喪失を根源的な部分で経験していないので、
この問題に関しては大部分、想像に頼るしかありません。
本当に自分がそれに見舞われたとき、実際のところ自分はちゃんと受け止められるのか、
難しい問題だと思います。
返信する

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