インディオ通信

古代アメリカの共感した者の備忘録8年。

何のために生きるのか?

2008-06-22 04:06:10 | 考えるインディオ
 最近、電話で母親とも話をしていない(親不孝が!)。かつて、インディオが幼かった頃、母に「一体何のために生きているのか」よく尋ねたものだ。母親はしばらく考え、インディオのために(子供のために)生きているのだと答えた。
 幼いながら、インディオは何か釈然としなかった。小さい頃から自我が強く哲学的だったからかもしれない。

「子供のために生きるのだ」と親が生きる目的を見出すのは勝手だが、それなら子供は一体何のために生きるのだ? 親のためか? それなら子供もいない、親もいない人々は一体何のために生きるのだ?

 大人になった今、生きる目的は人それぞれであることを知った。「お金持ちになって贅沢な暮らしをしたい!」「有名人になりたい」「南の島でのん気に暮らしたい」…アルファポリスに集う人たちは、「作家になりたい」「本を出版したい」って感じだろう。ただ、インディオのは、ちょっと外れているかも。

 多分、その根っこに宗教的なものがあるからかもしれない。読まれた方はご存知の通り、単なるエンターテイメントではない。登場人物は、踊ったり、精霊崇拝したり、奇怪な思想を語ったりするわけだ。これらの観念が、最初からインディオの頭にあったわけではない。ほとんど書きながら編み出されたわけで、「へ~、彼(登場人物)はこう語るのか」と妙な感覚に陥っていたりした。もっとも全部インディオ自身が語っているわけだが。

 小説を書くのが面白いのは、眠るアイデアがぼんぼこ出てくることで、登場人物が混乱していくのがなんともいえぬ。現実は複雑で、ひとつの世界観で生きていけるほど単純ではない。だから別の人間、世界観と対峙した時、葛藤が起こる。

 スペイン人が、マヤ・アステカ人のいるアメリカ大陸に上陸したときほどではないが…
(スペイン人の心も、キリスト教を布教するのと、黄金をGETするので葛藤していたが)


インディオ自身の中でも、「なぜ生きるのか」で葛藤が起こっている。

「生きているから生きているのだ」「体がここにあるから、呼吸をしているのだ」という観念と、
「太陽や雨、作物などを神々が授けてくれているから生きているのだ」「周囲に生かされているのだ」的な観念が交錯している。

 無常?
 いろいろ葛藤があるから現実は変わるのだが、現実はなかなか崩れない。

 だから現実は壁が多くてなかなか前に進まないが、小説の中ではどんどん進んでいく。それは単細胞な自分が分解されていくようで愉快だ。

 何を書いているのかわからなくなったが、
 
  …やっぱしインディオも作家(名のある)作家になりたいのだわい



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