田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

2016開幕!コンサドーレトークショー

2016-04-20 15:55:37 | スポーツ & スポーツ観戦
 スタジアムからすっかり遠ざかってしまったけれど、私の中でコンサドーレが気になる存在であることには変わりはない。コンサの首脳陣、選手の今年にかける意気込みに耳を傾けた。

                 
                ※ トークショーの告知ポスターです。

 4月18日(月)夜、道新ぶんぶんクラブ主催の「2016開幕!コンサドーレトークショー」が道新ホールで開催され、参加した。
 トークショーは、前半が三上大勝ゼネラルマネージャーと四方田修平監督が、後半は稲本潤一選手、宮澤裕樹選手、荒野拓馬選手が登場し、前後半共にフリーアナの野宮範子さんの司会で和気あいあいとトークショーは進められた。
 野宮アナはコンサドーレの熱烈ファンとしても知られた人である。

            
            ※ 第一部に登場した三上GM(左側スーツ姿)と四方田監督(右側)です。

 今回は、メモは取らず、各人のトークを楽しんだので、それぞれの印象を綴ってみることにする。

 まず三上GMである。彼はサッカー選手出身で、まだ45歳と若いが、なかなかのやり手ではないかと思いながら彼の話を拝聴した。
 人柄に謙虚さをうかがわせながらも、チーム強化に対して積極的に動き、チームや選手の信頼を勝ち得ているようだ。野々宮社長との若々しいコンビで「北海道コンサドーレ札幌」を良い方向に導いてくれる人材ではないかと私は感じた。「J1昇格を目ざしてチーム一丸となって頑張る」と力強く語ってくれた。

              

 四方田監督も43歳と若い監督である。長年、コンサのユースチームを指導し、昨年半ばトップチームの監督に抜擢された方である。
 非常に真面目な性格の方と私には映った。プロの選手経験はないようだが、早くから(筑波大大学院)コーチング学を学び、その指導力には定評があるようだ。チームの出足について四方田監督は「良くもなく、悪くもなく」と語ったが、何ごとにも慎重な四方田監督らしいと思った。
 昇格云々は別にして、きっとしっかりしたチームづくりをしてくれる方だと信じたい。

                 



          
          ※ 第二部に登場した三選手。左から稲本、宮澤、荒野の三選手です。

 続いて後半は、3人の選手のトークショーだった。選手の場合は、グランドでの結果が全てという特性がそうさせるのか、終始リラックスしたトークが会場を沸かせた。

 まずは何といっても世界の稲本選手(と野宮アナが紹介していた)である。
 ベテランらしく、絶えず会場の笑いを誘い、これまたベテランの野宮アナの突っ込みにも臆することなく、見事に切り返していた。
 意外な一面を披露してくれたのは、稲本選手がコンサの若手選手から友だち扱いされているという話だった。トークの中でもそうした一面を見ることができたが、これは稲本選手がそのキャリアを自慢することなく、若手選手の中へ入っていこうとする姿勢を垣間見ることのできるエピソードだった。
 何より彼のようなベテランが、こうしたトークショーに出演することだけでも、彼の人柄をうかがうことができる。

                 

 今シーズン主将を務める宮澤選手は、今シーズンで9年目ということで、サッカー選手としてはベテランの部類に入ってきた。コンサ入団以来、ずっとレギュラー選手であり続けた宮澤選手だが、いま一つブレイクしないまま今日に至った印象が強い。
 どちらかというと控えめな宮澤選手だが、主将という立場になって一皮むけた宮澤選手を期待したいものである。

                 

 最後は荒野選手である。彼はリオ五輪の有力選手の一人として期待されていたが、怪我のためにリオでの活躍は夢と消えてしまい残念である。
 しかし、それだけポテンシャルの高い選手であることは間違いない。その荒野選手は、若いだけでなく性格も現代青年の典型のようだ。稲本選手に対しても臆することなく、ため口を叩くところは、こちらが心配するほどだ。
 しかし、そうしたことを許すベテラン、そしてチームは、きっと誰もが自由で伸び伸びと振る舞える雰囲気に満ちているのだと思いたい。

                 

 すっかりスタジアムから遠ざかってしまった私だが、今シーズンはここ数年とは違う期待の持てるシーズンのような予感がある。
 あれもこれもと気の多い私であるが、節目の試合にはスタジアムに駆け付けて声援を送りたいと考えている。

          
          ※ トークショー最後のお楽しみ抽選会には全員が登場しました。ちなみに私は何も当たらず…。

そこからつながる音楽ライブ

2016-04-19 16:55:37 | ステージ & エンターテイメント
 なんだかよく分からないまま、我が家から近かったこと、低料金だったこと、しかも「音楽ライブ」ということで、出かけてみることにした。私にとっては初見のミュージシャンばかりだったけど、それぞれジャンルが違っていて興味深く聴いた。 

               
          ※ 「そこからつながる音楽ライブ」開催を告知するポスターです。

 4月9日(土)午後、我が家からほど近くの札幌市社会福祉総合センターで「そこからつながる音楽ライブ」があり、参加した。「そこからつながる」とは、何を意味するのか判然としないまま、私は参加することにした。この無鉄砲さが私が私である所以なのだが…。

 しかし、リーフレットをよく読んでみたら、そこにはその趣旨が書かれていた。曰く
「障がいのある方もない方も、老若男女みんなで楽しもう!というイベントです。普段なかなか行くことのできないライブハウス等での音楽ライブをバリアフリーな会場で集いやすい時間帯に行います。また、このイベントを通して、人と人、音楽など様々なもの(こと)とつながっていくきっかけの場になるよう心と心を通わせていきましょう♪」
となっていた。
 後から分かったことだが、このライブは障がい児の親である二人のお母さんとその仲間たちが主催し、今回で3年目となるライブということだった。

 会場の福祉センターの大会議室は、なるほど老若男女、障がいのある人もない人もたくさんの人が詰めかけていた。
 ステージに登場したミュージシャンは3組だった。
 最初は「浅井美歩」という、最近のJポップを歌う若い女性ミュージシャンで、伸びやかな高音が魅力の歌い手だった。

         
     ※ 浅井美歩さんです。左が当日私がバカチョンで撮ったもの、右がウェブ上から拝借したもの。以下同じです。   

 二組目は、「神山みさ」というゴスペルフォークシンガーという触れ込みだった。37歳を迎えたと言っていたが、ギター一本で落ち着いた歌声を披露した。

        
     ※ 神山美佐さんです。

 三組目は、この日のメインミュージャン「サルーキ=(SALUKI=)」という三人組(実際はボーカルとギターの二人組らしいが、この日はカホンの一人が応援に駆け付けた?)のロックグループだった。彼らは全国をライブ活動で巡っているとのことで、今夏には日比谷の野音で3,000人ワンマンライブを行うと張り切っていた。
 彼らが登場すると、会場の雰囲気が一変した。ノリノリの音に乗って、ステージ下に多くの人たちが繰り出し、身体を揺すりはじめたのだ。それもそのはず、彼らはこのライブに毎年来札していて、すでに顔馴染みになっていたようだ。

        
     ※ サルーキ=の二人+1です。

 訳も分からず駆け付けたおじさんとしては、イマイチ乗りきれなかったことは事実なのだが、先のような趣旨で頑張る人たちがいて、そしてそれに賛同するミュージシャンがおそらくボランティア的に出演することによって実現できた音楽ライブだと思われる。
 次回(来年)は、まだ会場が確保できていないということだったが、もし開催が分かれば、また駆け付けたいと思ったライブだった。

           
           ※ サルーキ=のステージは写真のように会場総立ち状態でした

映画 160 積木の箱

2016-04-18 21:09:28 | 映画観賞・感想

 原作が三浦綾子さんのものだとは信じられないくらい、家族の間のドロドロとした救いようのないようなストーリーだった。原作は読んでいないので何とも言えないのだが、三浦さんは「家族とはいっても、中には不条理な形もある」ということを言いたかったのだろうか? 

               

 「めだかの学校」4月11日開催の「映画の中の北海道」は、今回、三浦綾子原作・増村保造監督で、1968(昭和43)年、大映が制作した「積木の箱」が取り上げられた。
 映画は三浦綾子さんが住まわれていた旭川が舞台となっている。しかし、映画で旭川の情景が映されるものの、そこに俳優たちの姿はなく、ロケが旭川では行われなかったそうだ。
 当時、大映はかなりの苦境に立たされていたということなので、ロケもままならなかったということが真相のようだ。

               

 映画は、北海道の観光王として羽振りを効かせる佐々林豪一が嫁妾を同居させ、さらには会社の秘書にも手を出すなど、無茶苦茶な家庭生活を強いている様子を克明に描いてゆく。
原作者であるクリスチャンの三浦綾子は自作の映画化を見て嘆いたのではないだろうか?映画は成人指定ではなかったかと思えるくらい、危ういシーンが多い。もっとも、ウェブ上で見ると、監督の増村保造はそうした映画づくりが得意な監督でもあったらしい。

               

 そうした映画だったが、今回の映画のナビゲーターのS氏は三浦綾子さんが原作について説明した次の文章を提示してくれ、救われた思いがした。その文章とは…

《原作「積木の箱」より》
 犯人だと知られて、この一郎は自分を憎んでいるにちがいない。帽子まで証拠に握られては、殺したいほど憎いかも知れないのだ。それが秘密を握られた者の心理かもしれない。
 悠二(一郎の担任)は、今夜佐々林家を訪ねてみようかと思った。だが、おそらく徒労であろう。悠二は二度訪ねた佐々林家を思った。豪壮な邸宅に反比例して、何と寒々とした空虚な家であろう。人の心や愛情よりも、世間体や、名誉や、地位や、そして金が何よりも大事な人種なのだ。そこに育った一郎は、豪一やトキ(豪一の妻)の生き方に反発しながらも、次第にスポイルされていくのだろう。
(あの親たちは、子どもを毒するだけなのだ)
 悠二は心からそう思った。いくら教師が、全員まじめに生徒を導こうとしたところで、家庭が動揺していてはどうにもしょうがない。積み木細工のように、がらがらと、すぐに崩れてしまうのだ。小さな崩れなら、ある程度教育で防ぐこともできるだろう。
 しかし、人間の心の奥底から、なだれるように崩れ落ちてくるものを、果たして教育だけでくいとめることができるだろうか。できるわけはないと悠二は思った。
「佐々林、先生は放火犯人が立ちなおるように祈るよ。君も一緒に祈ってくれないか」
促されて一郎はのろのろと立ち上がった。
 


また地球が揺れた!熊本地震

2016-04-17 22:37:03 | 環境 & 自然 & 観察会
 自然の猛威を前にした時、無常観に襲われてしまうのは私だけではないだろう。熊本地震の報に接し、なす術を知らない自分がいた。私たちは改めて自然(地球)に生かされていることを再認識しなければならないということだろうか?

                  
                  ※ 熊本の象徴「熊本城」の屋根瓦が剥がれ落ちてしまいました。
 
 今回の熊本の惨事は目を覆うばかりである。それは、日本人の誰もがあの東日本大震災を、神戸・淡路大震災を思い起こさせるものだったに違いない。

 私たちは非常に文明が発達した社会に生活していると思っていた。しかし、私たちが住んでいる地球について、解明されていないことが多すぎることを改めて認識させられた思いだ。何せ数十人もの命を奪う事象に対して何の予防法も、対処法も持ち合わせていないのだから…。
 今日はまた、地球の裏側のエクアドルでも大きな地震が発生したことをニュースは伝えていた。

                  

 私たちはこうした事態に遭遇したとき、どう考え、どう対処すべきなのだろうか?
 今回の事態でも、被害に遭った熊本の人たちの対処の仕方に大きな特徴があると私は見ていた。それはある種の諦観と冷静さである。
 諸外国であれば、よく我を忘れるかのごとく泣き叫ぶ姿がテレビの画面に写されるが、私がテレビの報道を見るかぎり、そうした光景は皆無であった。我が家が崩壊した現状を目にして、涙を浮かべる人が中にはいるものの、ほとんどの人は呆然とし、諦め顔だった。
 また、避難所に退避した人たち、食料や飲料水などの供給を受ける場では、我先にとなりがちだが、整然と行動していたのが印象的だった。

 こうした日本人の特性を、私は非常に誇らしく思う。こうしたことはどこから来るのだろうか?
 私が考えるに、一つは日本の教育の成果なのでは、と思っている。いろいろと批判も多い日本の教育であるが、つねに他人のこと、集団のことを考えて行動するという規範意識が身に付いているからではないか?
 もう一つは、古来から日本人は地震や火山の噴火、台風など自然の猛威に晒されることが多い日本列島で暮らしてきたため、自然に対するある種の畏れや諦観が、日本人のDNAとして刻み込まれているのではないか、と私は思ったりしている。

            

 しかし、こうしたことに対して「なす術を知らない」で済まされることだろうか?
 文明は、地球上の困難を次々と克服し、人間を救ってきた。地球のメカニズムについても、以前に比べると相当に解明されてきている。ただ、対象が我々の手の届かないところにあるために、まだまだ未知のことも多いようだ。
 英知を結集して、少なくとも地震の危険が迫ったことを予知する確実な方法の開発が一日も早く実現することを願いたいと思う。
 「なす術を知らない」では、あまりにも悲しい…。

日本の世界遺産 富岡製糸場

2016-04-16 19:53:17 | 「めだかの学校」関連

 日本にとって18番目の世界遺産に一昨年指定された「富岡製糸場と絹産業遺産群」についてのDVDを視聴し、学ぶ機会を得た。視聴前の会員によるレクチャーが観る者の理解をより深める働きがあった。 

            
            ※ フランスの技術を導入した日本初の本格的製糸工場の外観です。

 私が学ぶ「めだかの学校」では、私が学ぶ以前に「日本の世界遺産」をシリーズ化して学んでいたという。3月28日(月)午後、単発であったが「富岡製糸場と絹産業遺産群」についてのDVDを視聴した。
 「めだかの学校」の場合は、映画鑑賞の場合もそうだが、単にDVDを視聴するだけではなく、会員が視聴前に視聴内容に関わって、参加者に対してレクチャーすることを恒例としている。
 この日は、「めだかの学校」の代表であるS氏がレクチャーした。

            
            ※ 富岡製糸場の内部の様子。代表的な写真ですね。
            
 それによると、注目は富岡製糸場に集まりがちだが、蚕の飼育法で「清涼育」を開発した「田島弥平旧宅」や、反対に「清温育」を開発した「高山社跡」などの存在を知ることができた。
 その中でも「荒船風穴」の存在が、富岡製糸場を絹生産地として適地に押し上げたことを知った。荒船風穴は、岩の隙間から噴き出す冷風(夏でも2℃の冷風だという)によって年1回だった養蚕を、複数回の養蚕が可能となって生産量が飛躍的に伸びたそうだ。

            
            ※ 田島弥平旧宅 瓦屋根に換気設備を取り付けた近代養蚕農家の原型です。

 また、これは良く知られたことでもあるが、富岡製糸場は官営の工場ということで、そこで生産に従事する女性たちは、生産の行程を学び、やがては地元に帰って指導的役割を担う人たちだった。そうしたこともあり、各地に存在した織物工場では「女工」と称して酷使され女工哀史が語り継がれているが、富岡製糸場は事情が違っていたようだ。
 S氏の説明によると、そこでの女性たちは「工女」と呼ばれ、待遇も明治時代としては破格の待遇だったようだ。例えば、週は6日勤務で日曜日は定休日。勤務時間も7時間45分が厳守され、年間の休日(祝日、年末年始休暇、夏季休暇など)も26日も与えられていという。

            
            ※ 高山社跡 日本の近代養蚕法の標準「清温育」を開発した場所として有名です。

 このように単にDVDを視聴するだけでなく、関連することの解説を伺うことによって、より深く理解できることが有り難い。
 実は私も5月に視聴する映画の解説を担当することになっていて、今その資料集めに大わらわといったところである。

            
            ※ 荒船風穴 自然の冷気を利用した日本最大規模の蚕種貯蔵施設

 日本には、今や「富岡製糸場と絹産業遺産群」も含め19ヶ所もの世界遺産が指定されている。少し希少価値が薄れてきた感もあるが、この文章を綴っているうちに「日本の世界遺産巡り」も面白いかも、と思えてきた。
 そう思って、私が体験してたことのある日本の世界遺産を数えたところ、たった8ヵ所程度しかないことが分かった。う~ん、考えてみようかな??


オリンピックレガシーを考える

2016-04-15 17:15:19 | 講演・講義・フォーラム等
 最近はどこへ行っても「レガシー、レガシー」の大合唱である。特に東京オリンピックが決まったことで、その声は一段と高くなってきたように感ずる。ある日、突然降って湧いたように市民権を得たオリンピックレガシーに関したシンポジウムに耳を傾けたのだが…。 

 今回のシンポジウムも旅に出る前に参加したイベントである。
 3月27日(日)午後、笹川スポーツ財団が主催するスポーツが創る!地域の理想の未来像~東京2020と地域のレガシーを考える~」というシンポジウムに参加した。

 最初に度肝を抜かれた!(ちょっとオーバーかな?)
 入場者に対するセキュリティチェックが航空機の搭乗者チェック並みに行われていたのだ。(搭乗者ゲートをくぐるような装置を持ち込んで)これには驚いた。その上、会場に入ると目つきの鋭いスタッフが会場の要所に立って、入場者の不審な動きをチェックするという物々しさなのだ。
 「これは、いったい何?」、「何故、そこまで警戒するの?」…。そう思ってしまった私からはシンポジウムを真摯に聴こうとする気持ちがすっかり失せてしまった。

            
            ※ 開会挨拶をした小野清子笹川スポーツ財団の理事長です。

 確かに、講師やパネラーに、現職大臣や道知事といった要人が出席するシンポジウムであったのだが、あまりにも露骨な参加者への警戒ぶりにはすっかり嫌気だけが私を支配した。
 こう書くと、「時節柄、警戒の上にも警戒を重ねることが、主催者として当然の措置である」と反論する向きもあるのかもしれないが、例えそうだとしても、入場者に違和感を持たれないようなスマートな警備方法はないものだろうか?

            
            ※ 基調講演とパネリストを務めた遠藤利明オリンピック・パラリンピック担当大臣です。

 シンポジウムのプログラムは次のようになっていた。
 ◇開会挨拶 小野清子(笹川スポーツ財団理事長)
 ◇基調講演 遠藤利明(東京オリンピック・パラリンピック大臣)
 ◇パネルディスカッション登壇者
      ・遠藤敏明
      ・高橋はるみ(北海道知事)
      ・原田雅彦(雪印メグミルクスキー部監督)
      ・青島健太(スポーツライター)
 ◇挨  拶 秋元克広(札幌市長)

            
            ※ パネリストを務めた高橋はるみ北海道知事です。

 本シンポジウムの要はパネルディスカッションではないか、と思っていたのだが、登壇者の思惑がそれぞれだったこともあり、いったい何が言いたかったのか?何がシンポジウムのねらいだったのかがいま一つはっきりと伝わってこなかった。
 もっともそれは、先述したように私自身が若干白けた気持ちで臨んでいたことも大いに関係があるのだが…。
 そうした中、当年80歳になる小野清子さんのかくしゃくとした挨拶が印象的だった。
 また、遠藤大臣の人の良さそうな飾らない話し方、大会エンブレムや新国立競技場の聖火台の問題などについて率直に裏事情について話されたことが印象に残った。

            
            ※ 同じくパネリストを務めた原田雅彦雪印メグミルクスキー部監督です。

 オリンピックレガシーについては、開催費用が莫大なるにつれて、開催国が国民の理解を得るために、開催することによる物的・人的・文化的etc.な成果が遺っていくことを積極的にアピールする必要があることから、近年叫ばれるようになってきたと私は理解している。
 特に前回大会のロンドンオリンピックで、そのことが声高に主張されたように記憶している。

            
            ※ 全体進行、パネルディスカッションのコーディネーターを務めた青島健太氏です。

 1964年に開催された東京オリンピックは、確かに東京、ひいては日本全体が飛躍するキッカケになった大会だった。その意味では、大きなレガシーを遺した大会だった。
 2020年の次期東京オリンピックがはたして1965年大会のように大きなレガシーを遺す大会となるかどうか?そうした意味からも2020東京オリンピック・パラリンピック大会を見守っていきたいと思う。

映画 159 クロスロード Crossroads

2016-04-14 23:15:47 | 映画観賞・感想

 青年海外協力隊創立50周年事業として制作された映画である。記念の映画というと青年海外協力隊を礼賛するような内容かと思っていた。しかし、そうではなく協力隊に参加することによって青年自身が逞しく成長していく過程が描かれ、好感をもって観ることができた映画だった。

                   

 しばらく「熊野古道」にこだわっていたが、今日からはまた日常に戻り、日々体験したあれこれを綴っていきたいと思う。まずは、熊野古道に出発する前の体験について…。

 3月26日(土)午後、北海道JICA本部に隣接する「リフレサッッポロ」で、JICA北海道20周年記念イベントとして、水泳五輪メダリストの田中雅美さんのトークと、映画「クロスロード」の上映会があり、参加した。

 映画「クロスロード」は昨年末に完成・封切られたものであるが、題名としてはこれまでにもあったのではと名前に思い、調べたところ1986年にアメリカ映画として制作されていた。
それでも敢えてこの題名を付けたところに、意味がありそうである。

        
        ※ 舞台挨拶をする左から羽村役の渡辺大、沢田役の黒木啓司、アンジェラ役のアローディアの三人です。

 映画の粗筋としては、次のように紹介されている。
 カメラマン助手になったものの、目標の見えない日々を過ごしていた沢田(黒木啓司)は、自分を変えようと青年海外協力隊に飛び込む。だが、訓練所でもボランティア精神を地で行く羽村(渡辺大)と対立したり、規則を破ったりと、何かと問題を起こしてしまう。
 彼らの仲を取り持つ助産師隊員の志穂と共に、フィリピンに派遣される二人。沢田は観光省での仕事に不満を抱くが、羽村は失敗しながらも田舎の村でドジョウの養殖を順調に進めていく。そんな優等生タイプの羽村を沢田が好きになれないのは、反発していた亡き父の面影を見るからだった。ある日、野心的な写真を撮ろうとパギオの街を訪れた沢田は、少年ノエルと姉のアンジェラと出会い、この国の現状に胸を痛めるが、無力感のうちに帰国する。それから8年、協力隊での体験は二人をどう変えたのか?震災後の東北で二人は久しぶりに再会した…。

            
            ※ パギオの街で沢田が出会ったノエルとアンジェラ

 つまり、性格も、志もまったく違った二人が、青年海外協力隊という場でクロスし、互いがその後の生き方に影響しあいつつ生きることになる、そのことを「ク
ロスロード」という名に込めたと思われる。
 沢田役の主演の黒木啓司は、今が旬(?)のEXILEの一人だということで話題になったようだが、私はまったく知らない人だった。また、沢田に対した羽村役の渡辺大は、父親が俳優の渡辺謙ということでも話題のようだ。
 二人ともそれなりに演じ、映画も危惧したようなクサさは感じさせず、若者に「あゝ、青年海外協力隊って選択肢の一つにしてもいいかも」と思わせるような佳作に仕上がっているといえるように思えた。


 
 ※ 昔、職場を共にしたことがあるN氏が退職と共に、私同様札幌に移住してきた。昨晩は転居を祝って二人で一献傾けた。話の中で故郷の過疎化は私が想像していた以上に加速していることを知り、暗澹たる思いになった…。


古の道を往く旅を振り返る 終章

2016-04-13 18:25:47 | ロングトレイルフットパス
今回の旅は、ただ自分の記憶に刻みこまれただけではなく、自らの肉体にも強烈な思い出を刻みこんだ「熊野古道トレッキング」だった。これまでも印象的な旅を経験してきた私であるが、それに優るとも劣らない今回の旅だった。そのような旅を今一度振り返ってみたい。 

 今回の旅でこれまで触れてこなかったことで、印象的なことが一つある。
 それは熊野古道沿いの住民たちが、旅人に対して非常にフレンドリーであったということだ。
 道ですれ違った人の誰もが、先方から「コンニチハ!ご苦労さま」と声をかけてくれたのだ。それに気づいた私は、今度は私から積極的にあいさつをするようにしたのだが、誰一人無視するような人はなく、誰もが気持ちの良いあいさつを返してくれた。
 東京オリンピック招致の際に日本人の「お・も・て・な・し」が話題になったが、まさに私はこの地域の方々から、心のこもった「おもてなし」をいただいた気持になった。
 このような体験は沖縄の先島諸島を旅していたときに、地元の中学生から受けた挨拶以来だった。私にとって、沖縄の波照間島が忘れられないように、熊野古道も忘れられないところとして、私の中の記憶に長く残ることだろう。

 私はいつも「旅のスタイル」にこだわって旅してきた。
 私の旅は、全てを自分でプロデュースするところにある。いわゆる旅行社というところには一切お世話にならない旅なのだ。
 そのことをくだんの岡崎市のお二人と話をしたのだが、T氏は「計画の段階から旅を楽しんでいるんですね」とズバリ私の思いを言い当ててくれた。
 そうすることで、旅の印象が一段と色濃く私の中に沈殿し、残っていくことを私は知ってしまったのだ。
 さすがに妻と旅行するときは、そうはいかないのでツアーなど準備されたものを利用するのだが、そうするとその印象はまるで陽炎のように淡くしか残らないことに私は気付いてしまったのだ。
 これからも私の一人旅は、自らプロデュースする旅を選択していくことだろう。

 リード文にも記したが、今回の旅は、自らの肉体を駆使した旅という点でも印象深かった。そうした旅の体験を思い出すと、2010年の屋久島・縄文杉トレッキング、2011年の木曽路11宿トレッキング、昨年の北根室ランチウェイトレッキングなどがそれにあたるだろう。
 それらに比べ、今回の熊野古道トレッキングは最も身体に負荷のかかるトレッキングだった。それはもちろん加齢による影響も大きいのだが…。
 正直なことを吐露すると、帰宅してから疲れがどっとでたようだ。帰宅して一週間くらい、疲労感に包まれていた。
 このような旅のスタイルの魅力を再発見した今、私はまたいつかこのような旅を、と妄想するのだが、はたして身体がついていけるかどうか、そんなことが心配な年齢となってきた。
 まだまだ今回のような旅のスタイルにこだわりたいのだが…。

 旅の思い出になる品を購入することは頑としてしない主義の私である。
 しかし、今回はその掟を破り、「八咫烏」のお守りが旅の記念として私の手に残った。

                  

古の道を往く旅を振り返る 7

2016-04-12 16:59:23 | ロングトレイルフットパス
出会いが旅を豊かにする

 ライブレポ19で「旅の醍醐味は出会いである」と記したが、今回の旅でも思わぬ出会いを経験することができた。そうした出会いの中から三つのエピソードをレポすることにする。(このテーマでの写真は撮っていない。そこで直接関係はないが、今まで掲載できなかった旅の写真を挿入することにしたい) 

            
            ※ 今回の旅では「桜」ばかりを話題にしてきたが、所々に「梅」の花も愛でることができた。

 一つは「ライブレポ19」でもレポした新宮市の小口集落の食料品店での女主人と客の男性との出会いだった。
 店の前で缶ビールを片手に所在無げの男性が佇んでいた。地元の人だと見た私は、翌日の「大雲取越」の登り口のことなどに問い掛けた。そこから話が弾み、私が「北海道から来た」というと、男性は女主人に「北海道から来たんだって」と話したところ、女主人も興味を抱き、私が購入したビールを「ここで飲んでいけ」と椅子を勧めてくれた。
 まさか、店先で購入したアルコールを口にするなど、体験したことがなかったが、「これは地元の人と話ができるチャンス!」と思い、勧めに従った。

            
            ※ 田辺駅前に立っていた弁慶像である。弁慶はこの地方の出身という伝説があるようだ。

 店がある小口集落は谷間にある小さな集落だが、お話によると昔(江戸時代?)はもっと栄えていたということだった。熊野本宮大社詣での人たちにとっての中継地と栄えたのだろう。また、熊野の山中に住むイノシシやツキノワグマなどの生態についても話を聞いた。
 店の一隅を見ると、一枚の賞状が掲示されており、それを見ると店の名が「南方商店」とあった。私は「あの南方熊楠と関係があるのか」と問うと、遠戚筋とのことだった。そして女主人は、いかに南方熊楠が立派な人だったかを滔々と語ったのだった。

            
          ※ 熊野古道沿いには、古道を歩く人を慰めようとしてだろうか、このようにデコレーションしてある所があった。


 二つ目の出会いは、愛知県岡崎市から来た二人のトレッカーだった。彼らの一人と小口自然の家のお風呂で出会った。二人きりの風呂だったので、話しかけるとけっして能弁ではなかったが、リタイア後に山登りを主としてあちこちに出かけていると語った。
 夕食時には、相方も含めて話が弾み、彼らがこの日歩いた「大雲取越」がけっこう困難なルートだった話し、互いの翌日の健闘を誓ったのだった。

                    
                   ※ 熊野那智大社の境内に立っていた伝説の鳥「八咫烏」の像です。

 私は「大雲取越」を越えて「熊野那智大社」へ、彼らは反対に「小雲取越」を越えて「熊野本宮大社」へ向かった。
 私は「熊野那智大社」に到着後、バスで新宮市に向かったのだが、那智町というところで乗り換える必要があった。その時である!
 思いもしなかった彼らと再会したのである!
 経緯はこうだった。彼らは岡崎市からマイカーで那智町で来て、そこから「熊野那智大社」に向かい、「大雲取越」、「小雲取越」を歩き、「熊野本宮大社」まで到達した後、バスで那智町まで折り返したところで、私と再会することになったのである。
 オーバーにいえば奇跡の再会である。車のオーナーT氏は、私が隣町の新宮市まで行くことを知ると「これは奇遇だから、ぜひ乗っていけ」と同乗を勧めてくれた。
 私は遠慮なく同乗させてもらい、奇遇に因縁を感じ、名刺を渡した。そのことでT氏はその後拙ブログにコメントをくれたり、メルアドを交換したりと、今後のお付き合いを約束したのだった。

            
            ※ 那智の大滝を遠くに望み、この時期ならではの満開の桜を前景とした滝の様子も素晴らしかった。


 三つ目は、新宮市から伊勢市に向かう列車(特急南紀4号)の中だった。私が乗った新宮市の次の停車駅の熊野市から乗った男性が私の隣りの席に座った。
 男性は熱心に新聞を読んでいた。私は鉄路のトンネルの多さに内心驚いていた。鉄路は海岸線を走っているというのに、トンネルの連続でトンネル以外の区間がほとんどないような路線だった。
 あまりにも多いトンネルに私は思わず隣の男性に「地元の方ですか?」と問いかけると「そうだ」という答えだったので「この辺りはずいぶんトンネルが多いですねぇ」と話しかけた。すると男性は「この辺りは昔、それぞれの集落が孤立していたんです」と答えた。
 無理もないと思った。これだけ山が多く、海岸線まで迫っていると、集落同士が行き来するのは相当に困難だったはずだ。
 それをきっかけに男性は積極的に話しかけてきた。それは、この辺りの集落が「限界集落」化していることについて、その深刻さを語るものだった。
 彼があまりに熱心に限界集落のことを語るものだから、「もしかして公のお仕事をされている方ですか?」と問うた。すると彼は「いや、新聞社の者です」と答えた。彼は地元・中日新聞の熊野通信局長だと言って名刺を渡してくれた。
 彼は名古屋本社に向かう途中で、私が「多気」という駅に降り立つまで2時間近くあれこれと話し込んだ。

            
            ※ 大雲取越の最高点「舟見峠(883m)」の表示はあまりにも簡素で拍子抜けの感だった。

 この他にも出会いはあったが、特に印象的だった三つの出会いについて記した。
 二件目の岡崎市のT氏との出会いは今後の発展も望めそうな出会いとなった。
 他の二つは、地元のことをよく知る方との出会いで、旅した地域を理解し、旅を豊かにするうえでかけがえのない出会いとなった。
 今回の旅で私はあまり出会いを期待してはいなかった。そのことより、熊野古道を予定していとおり完歩することが最大の目標だったからだ。
 しかし、思わぬ出会いは今回の旅をより豊かにしてくれた素晴らしい出会いだった

            
            ※ 写真の最後は「熊野本宮大社」の近くの「大斎原(おおゆのはら)」の満開の桜で〆たい。

古の道を往く旅を振り返る 6

2016-04-11 19:23:16 | ロングトレイルフットパス
熊野古道の宿 

 熊野古道トレッキングはかなり人気が出てきたとはいえ、私の体験からも言えるようにまだまだ一般の観光客が好んで歩くルートではない。したがって、宿泊施設も必ずしも充実しているとはいえないのが実態のようだった。 

 今回の私の旅は全体で7泊8日の旅だった。
 そのうち、熊野古道外の4泊は都市での宿泊だったためビジネスホテルを利用した。
 熊野古道トレッキングはかなり人気が出てきたとはいえ、私の体験からも言えるように一般的な観光ルートではない。したがって、宿泊施設も必ずしも充実しているとはいえないのが実態のようだった。
 古道トレッキングをした3泊を熊野古道内の宿泊施設を利用したがその宿泊事情についてレポしてみる。。

 難関だったのは、一日目の宿泊だった。当初は二日目の負担を少しでも軽くするため「継咲王子」の近くにある野中という集落に宿泊を予定した。そこには確か3軒ほどの宿があった。2ヶ月前に予約を入れたが、どこも満室だった。一つの宿のキャパがかなり小さいようだった。
 しかたなく、約4キロ手前の「近露王子」の集落の「民宿ちかつゆ」に宿泊を予約した。         

 「民宿ちかつゆ」は民宿らしい民宿と云えようか?夕食の時に主人が私たちに親しく話しかけてくれて、翌日の歩くルートについても詳しく情報を伝えてくれた。
 主人によると、最近の宿泊客の3/4は外国人だということだ。事実、この日も私を含めて日本人は3人、外国人が8人という状況だった。
 このことはライブレポでも触れたが、西欧諸国の人たちの健康志向と、東洋の神秘的な雰囲気に憧れる人たちが増加していることをうかがわせてくれた。
 「民宿ちかつゆ」は小さいながらも温泉を併設していたこと、一人宿泊だったこともあり、一泊二食付で9,870円とそれなりの宿泊料だった。

            

 二日目は「熊野本宮大社」のある本宮町という集落だった。ここも私の情報では宿泊施設は2ヵ所しかなく、その一軒「蒼空げすとはうす」というB&B形式のビジネス風の宿泊施設にその日の宿をとった。
 熊野本宮大社を参詣する人たち(観光客)は、近くにある温泉場(3ヵ所くらいあるようだ)のホテルに宿泊するらしい。
 この宿は、前日の民宿とは違い、バス・トイレ付のいわばビジネスホテル形式の宿だったが、一泊朝食付きで7,000円だった。
 夕食が付かないので、本宮町の町中で摂らなくてはならないのだが、ここの集落全体の店の閉店時間が早く、私が着いたときにはたった一店しか開いていなく、ちょっと不便を感じた。

           
          
           
            
 三日目の小口集落も宿泊施設は一軒の民宿と、私が宿泊した「小口自然の家」しかなかった。「小口自然の家」は旧中学校を改造した宿舎ということだったが、部屋は一般の日本旅館のようだった。
 熊野古道を歩く人のほとんどは、この「小口自然の家」を利用しているようだ。事実、夕食に集まった人たちは全て熊野古道トレッキングの人たちばかりだった。
 ここの宿泊料は一泊二食付で8,000円だった。

           
            
 以上のように、熊野古道の中辺路ルートをトレッキングしようとする者にとって宿泊先の選択肢は、今のところほとんどないに等しいかもしれない。
 それでも熊野古道における宿は、唯一トレッカー同士が触れ合うところである。
 事実、「民宿ちかつゆ」では、大分から来た夫婦のトレッカーと、「小口自然の家」では私とは反対方向から進んできた岡崎市の二人組の人と親しく情報交換をすることができた。

 旅は、出会いと別れの連続である。「一期一会」とは、良く言ったものである。「民宿ちかつゆ」で出会った大分の夫婦は、翌日バスを利用しながら熊野本宮大社を目ざすと云っていた。
 「小口自然の家」で出会った二人は、私とは反対方向に向かっていたのに、その後奇跡的な再会を果たすことになる。(そのことについて詳しくは明日の投稿で)
 その他にも出会った人はたくさんいたが、まさに「一期一会」…、一瞬の出合が私の旅を豊かにしてくれた…。