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私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

道南旅物語③ 北海道遺産「函館山と砲台跡」

2022-08-08 18:35:07 | 北海道遺産関連

 函館山は函館市を代表する観光名所の一つである。しかし、その函館山一帯は、明治期から太平洋戦争時にかけて長らく軍事要塞として使われてきたという。山頂付近にはその当時の遺物があちらこちらに遺されていた。

 この日(8月3日)函館市は夜半からの雨が続き、午前7時過ぎになってようやく雨が上がるといった天気だった。

          

         ※ この「まちあるきマップ」が「北海道遺産」巡りの指南書になりました。     

 私はこの「函館山と砲台跡」を巡るために、「函館まちあるきマップ」の№19「もう一つの函館山 ~閉ざされた要塞の秘密~」を参考にすることにした。このマップではロープウェイで函館山々頂に上って、山頂から下山しながら砲台跡を巡るコースとなっていた。ところがロープウェイの運行は午前10時からと遅いため、私は反対に登山をしながら砲台跡を巡り、下山にロープウェイを使用することにした。

   

※ そのマップの内部です。私は凡そ赤い点線のコースをゴール地点からスタートし、函館山々頂まで上り、ロープウェイで下山しました。

 午前8時、函館山管理事務所の駐車場に車を停め、登山を開始した。函館山の登山はルートがたくさん存在するが、メインの登山道は「旧登山道コース」のようだ。しかし、私は2年前にこのコースを登ったことがあった。同じコースを登るのは芸がないと考え、今回は「旧登山道コース」と併行するように造られている「汐見山コース」を登ることにした。しかし、これは失敗の選択だった。というのも「汐見山コース」は路幅が極端に狭かったために、前夜来の雨で木の葉が濡れていた。登山道を覆う木の葉に残った雨の滴が容赦なく私の下半身を濡らした。私の下半身はずぶ濡れとなってしまった。

   

   ※ メインの旧登山道コースと分かれ、汐見山コースに入りました。

   

   ※  コースの大半はこのような細い山道です。葉に付いた雨露のため下半身はズブズブに濡れました。

   

   ※ 山の花の時期は終わっていて、わずかに山アジサイが咲いていました。(下の写真も)

   

 コースは「汐見山コース」から、砲台跡が残る「千畳敷コース」に導かれた。私はまずこのコースの突端「千畳敷広場」に向った。「千畳敷広場」は函館山の5合目程度の高さなのだが、周りは霧に包まれていた。ここからいよいよ各所に点在する「函館要塞」に向かった。

   

   ※ 「千畳敷広場」はご覧のように霧に包まれていました。

 函館山々中に遺る「函館要塞」について、現地に次のような説明があったので転写する。

「函館要塞は、明治28(1895)年の日清戦争終結後に、日露戦争を想定し、津軽海峡の防衛強化を目的に明治31(1898)年から、約4年間を費やして函館山に大小4ヵ所に砲台が建設されました。

 日露戦争開戦後、津軽海峡でロシア艦隊が日本の漁船に損害を与えましたが、射程外であったため要塞からは一発の砲撃もされませんでした。

 その後、大砲は撤去されましたが、大正に入り、米国を仮想敵国とし、海空の攻撃から函館と青森の両港を守り、津軽海峡における敵艦隊の通航を阻止するため、津軽要塞として再整備されましたが、戦闘機を相手とした実戦では役に立たず、函館は空襲に遭い甚大な被害を受けました。

 函館要塞建設直後の明治32(1899)年に要塞地帯法が制定され、昭和21(1946)年に開放されるまでの約47年間、函館山への一般市民の立ち入りは禁止されていました。」

◇千畳敷戦闘指令所跡

 「千畳敷広場」から細い路を辿ると、間もなく異様な形をしたコンクリート建造物が根に入った。「千畳敷戦闘指令所跡」である。屋根の部分は崩壊していたが、建造物の奥へ進むと、何やら小部屋がたくさんあって、そこからいろいろな指令を発していたのだろうか、と思わせられた。

   

   

   

   

◇千畳敷砲台跡

 「千畳敷戦闘指令所跡」からやや離れたところに、やはり大きなコンクリート建造物が現れた。「千畳敷砲台跡」だという。ここには28cm榴弾砲、15cm臼砲の砲座跡や弾薬庫跡などが遺されていた。

   

      

   

   

   

◇御殿山第2砲台跡

 「千畳敷砲台跡」からはやや離れたところ、函館山々頂のすぐ近く「御殿山第2砲台跡」はあった。「第2砲台」というのだから、あるいは「第1砲台」もあったのかもしれないが、マップなどにはそのことは一切記載されていなかった。

 こちらの砲台には28cm榴弾砲が6門据え付けられていたというが、その跡が2門ずつ円形になって遺されていた。砲台は、航行する艦船から隠すために海から見えないところに設置されていたが、砲撃の際には砲座を目標に向けて方位や仰角を合わせて砲撃するようになっていたという。

   

   ※ こちらは砲座の位置がはっきりと残っていました。(緑の円形)

   

   

   

   ※ 砲座の位置に載っていた榴弾砲(?)の写真です。

   

   

   ※ 御殿山砲台跡からは函館湾が見えるはずですが、ご覧のように霧に隠れていました。

◇函館山

 マップ上ではもう一つ「薬師山砲台跡」があったが、こちらはパスすることにした。そして私は函館山(御殿山)山頂に立った。函館山々頂は「旅日記」でもレポしたが、霧の中でまったく眺望は効かなかった。そして私はこの日のスケジュールをこなすため、ロープウェイで函館山を下った。ロープウェイで函館山を下っている途中、ゴンドラが霧の中から抜けてたった一枚だったが函館市の西部地区をカメラに収めることができた。

   

   

            

 函館山は先述したように太平洋戦争が終わるまでの約47年間、一般市民の立ち入りが禁止されたというが、そのことも影響して貴重な植物が現存していて植物愛好家たちにとっては草花を愛でながら登山の楽しむ山になっているそうだ。



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