明治6年(1873)黒田清隆が屯田兵創設の建議を行った翌明治7年には「屯田兵条例」が制定され、屯田兵の募集が開始され、さらにその翌年には第1回の屯田兵が入植している。凄いスピード感である。その「屯田兵条例」とはどのようなものだったのか、そしてその屯田兵が西南戦争に駆り出された際の「戦闘日記」を古文書で追ってみる。
(※ 本日の投稿は昨日の続編ですので、昨日の投稿も参照ください。)
「屯田兵条例」は明治7年10月30日付で制定されている。
その条例では「緒言」に続く「編制」の第1条に次のように記されている。
「一、屯田兵ハ徒歩憲兵ニ編成シ有事ニ際シテ速ニ戦列兵ニ轉スルヲ要ス」
ここに屯田兵の性格が端的に示されている。(通常は開拓に励み)有事の際に兵に転ずるとある。
そして「編制」の中で屯田兵の総員を1,672名と想定している。その項は次のように記されている。
「一、屯田兵ノ一伍ヨリ組テ終ニ聯隊ニ至ル即チ左ノ如シ (中略)
一聯隊 三大隊、準中佐聯隊長一名、準少佐三名、準大尉六名、準中尉十二名、準少尉四十八名、会計方準少尉三名、医官三名、下副官準曹長三名、準曹長六名、準軍曹九十六名、準伍長二百八十八名、喇叭準伍長三名、兵卒千百五十二名、喇叭卒四十八名、合計千六百七十二名」
この記述で面白いのは、全ての肩書に「準」が付いていることである。講師の合田氏はこの点については触れなかったが、私の想像では正式の軍隊に準ずる意味から一歩引いて全ての肩書に「準」を付けたのではないと思われるのだが…。
また編制としては聯隊まで想定しているが、私が調べたかぎりでは当初は大隊(第一大隊)までの編成で、年を追うごとに隊員は増えていき第五大隊まで編成されたが、聯隊の編成にまでは至らなかったのではないかと思われる。
「屯田兵条例」で興味深かったのは「供与品」である。そこには次のようにあった。
「農具 鍬大小二挺、砥荒中二個、山刀一挺、鐇一挺、鋸一挺、鎌芝刈草刈二柄、莚一枚
家具 鍋大小二個、釜一個、椀三ツ組三人前、手桶一荷、小桶一具、担桶一荷、夜具十五歳以上四布一枚三布一枚、十四歳ヨリ七歳マデ四布一枚、六歳以下給セズ
銭糧米 七合五勺一日分
塩菜料 金五拾銭一日分
但シ十四歳以下ハ一日米五合金三十七銭五厘、六歳以下ハ一日米三合二十銭(後略)」
いやいや、実に細かい。この他にも、移住のための支度金とか旅費、病気をした場合の郷里への旅費とか、埋葬料に至るまで記されている。こうしたことは、施行規則とか、実施要項などで定めればとも思われるのだが、それは現代の考え方なのかもしれない。
さてロシアの脅威に備えて編制された「屯田兵」だったが、出役したのは皮肉にも西南戦争だった。西南戦争が没発した明治20年、屯田兵第一大隊に出征の命が下ったが、それは当時の屯田兵全部隊に対する出征命令だった。
資料にはないのだが、講師の合田氏はここで豊富な知識を披歴してくれる。出征命令の下った屯田兵の中で、戊辰戦争の際に逆賊とされ屈辱と貧窮の中にいた旧会津藩士は「名誉回復の機会を与えられた」と涙を流して喜び、獅子奮迅の戦いをしたという。
合田氏の講義の面白さは、この例のように取り上げた事象の背景とか、裏面史を数多く語ってくれるところにある。
※ 屯田兵第一大隊の九州における進軍経路を説明する講師の合田一道氏です。
その屯田兵の戦闘日誌であるが、明治20年4月28日から屯田兵の終戦となる8月3日からほぼ毎日詳しく綴られている。
その中から、最後の激戦となった8月2日の日記を書き出してみる。
「屯田兵第一大隊先鋒を受持ち、第二中隊の家村大尉、安田中尉、前島、栃内両少尉等、左翼より一瀬川上流を渡渉せんとし中流に到るを、対岸に待期の敵一斉射撃し来る。止むなく前衛を引上げ、川を挟で交戦す。ついに永山少佐渡河の命を下す。兵先を争つて渡河、接戦敵を末永村に圧縮す。
右翼は砲隊をともなう第一中隊は、本道の左側にあって、黎明を待ち一斎に砲撃を開始す。
左翼の上流渡河せんとし時、堀大佐より第一中隊に対し渡河の命令あり、歩兵の前面の敵塁を見るや、砲兵に対しても渡渉の命令あり、一中隊と共に川を渡る。千早中尉、篠崎、久木田、建部の三少尉等先陣を争って渡河、末永村に踏入り第二中隊と合して、大いに奮戦して敵を壊滅せしむ、敵は死体を収拾し得ず退却、直ちに高鍋に突入、残敵を追撃して、銃器弾薬、兵糧等の戦利品をあぐ。この激戦に第一中隊兵卒櫻井清春戦死。伍長大関雄孟、兵卒工藤彦三郎、真柳六蔵負傷、第二中隊兵卒石川滝吉も負傷す。」
さすがに記録するのが専門(?)の書記官が綴った戦闘の様子は描写が細やかで、激戦の様子が良く描かれている。また、この日記は現代仮名遣いにかなり近い表記のため、古文書とはいえかなり読み易くなっている。
さらに気付くのは、兵隊の肩書から「準」が消えていることだ。条例で記されていることとは異なるが、このことは単に書記官が省略しただけなのか、それとも本格的戦いに参戦したことで「準」を取る措置がなされたのか?(前者のような気もするのだが、現時点では分からない)
屯田兵が参戦したのは、後にも先にもこの「西南戦争」が唯一の戦いである。
屯田兵はその後も続々と北海道各地に入植し、北海道開拓に重要な役割を果たしたことは私が言うまでもない。
今回は紹介できなかったが、「屯田兵条例」の中では、「屯田兵勤務の日課」という欄があり、夏期間の就業時間は昼食時間の一時間を挟み、午前6時就業開始、午後6時終業と、実に11時間労働という過酷なものだったようだ。こうした屯田兵の過酷な労働の上に現在の北海道があることに我々子孫は思いをいたさねばならないということだろう。