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田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

札幌の食の歴史を知り、そして売れ!

2025-06-21 20:29:17 | 講演・講義・フォーラム等
 札幌の食の特色というと ‟ビール” ‟ラーメン” そして ‟ジンギスカン” となると講師は云う。その特色ある食の歴史、特徴を知り、大いに売り込むべきと講師は強調された。札幌の‟ビール” ‟ラーメン” そして ‟ジンギスカン” の歴史とは?

 昨日午後、北海道生涯学習協会が主催する「ほっかいどう学 かでる講座」の第2回講座が開講され受講しました。
 今回の講師は、まち歩き団体Discover EZOの代表・伴野卓磨氏、テーマは「北海道のおいしい歴史物語~ビール・ラーメン・ジンギスカンはどう生まれたか?~」でした。
 伴野氏は三つの食品について、実によく調べられて私たちに分かりやすく伝えてくれました。

    
    ※ 講演をする伴野卓磨氏です。

 まずビールについてです。
 札幌のビールを製造することになったそもそものキッカケは、明治初期(明治4年)にお雇い外国人の一人として来道したトーマス・アンチセルが鉱山調査をしていた際に岩内町で野生のホップが自生していたことを発見したのが始まりだと言われているそうです。
 それからも札幌におけるビール製造が始まるまでには幾多の物語があり、伴野氏は詳しく、つまびらかに説明していただきました。その全てを記すことは私には荷が勝ち過ぎますので割愛させてもらいます。
 結局、野生ホップの発見から5年後の明治9年、プロデューサー村橋久成、ビール製造責任者はドイツでラガービールの製造を学んだ中川清兵衛によって「開拓使麦酒醸造所」が開業しました。
 その後も、札幌のビールは官製から民製に移るなどの歴史を経る中で、何度もの危機を迎えながらもその都度克服して現在に至っているとのことです。

 続いてラーメンです。
 札幌におけるラーメンの始まりは、大正11年に北大正門前に出店していた中華料理店「竹家食堂」で出していた「肉絲麺(ロゥスーミェン)」といわれています。この料理を奥さんが日本人に分かりよいように「拉麺(ラーメン)」と呼んでいたとも伝えられています。
 札幌でラーメンが本格的に普及したのは戦後だと言われています。戦後、満州などから引揚者が薄野に屋台をつくって、豚骨から煮だした濃いスープが現在のラーメンの源流と言われているそうです。
 その後、味噌ラーメンの開発、さらには札幌のラーメンを月刊誌「暮らしの手帳」が紹介することによって、札幌のラーメンは全国に知られることになったということです。

 最後はジンギスカンです。
 もともと日本には羊の肉を食する習慣はなかったと言われています。
 それが何故、北海道で食されるようになったかというと、戦前に軍服用に羊毛生産として羊の飼育が北海道で盛んになったそうです。特に、滝川、札幌、月寒などに種羊場ができ、それらの地域で羊肉が食べられるようになったと言われています。
 ところでジンギスカンの食しかたには大きく二つの食し方がありますが、札幌や月寒、あるいは沿岸部では生の羊肉と野菜を一緒に焼いて、別皿のタレに付けて食べる「後付けジンギスカン」が主流でした。
 一方、滝川など内陸部では、あらかじめ羊肉をタレで味付けをして野菜と一緒に煮込むにようにして焼く「味付けジンギスカン」が主流となり、現在に至っています。
 現在の札幌ではどちらも食することができるようですが…。

    
    ※ 伴野氏が提示してくれた「後付け」地域と、「味付き」地域の分布図です。
 
 さて、タイトルの「そして売れ!」ということですが、講師の伴野氏はまち歩き団体Discover EZOの代表をされています。伴野氏は札幌の食ばかりではなく、札幌のさまざまな特色を取り上げ、それを深堀りすることで、札幌の魅力を発信できるのではないかと強調されました。
 そして得た知識をもとに観光客などのガイドツアーとして自立できるガイドを育てたいと考えられていて、実際にその活動を実践に移されているとのことでした。
 実際に実践されているパンフレットを拝見することができましたが、これまでボランティアさんたちが行っていたガイドツアーと比較すると割高に見えますが、内容が充実しているとしたら、私たち札幌人にとっても興味あるテーマのガイドツアーであれば参加してみたいなぁ、と思いました。 
 まち歩き団体Discover EZOの今後に注目したいと思います。



白石再発見シンポジウム オプショナルウォーキングツアー

2025-06-16 20:21:59 | 講演・講義・フォーラム等
 前日のシンポジウムに続いて、関連イベントとして白石の歴史の跡地を巡るウォーキングツアーに参加した。短い時間(2時間強)だったが、 効率よく、興味ある箇所を案内していただき、収穫大のツアーだった。

   
  ※ 地下鉄「南郷通7丁目」駅の地上での開会式です。右端が案内人の杉浦氏です。
                                                    
 昨日(6月15日)午前、前日の「2025年 白石再発見 鈴木煉瓦製造場シンポジウム」の関連イベントとして表記ウォーキングツアーが開催され、定員20名と限られていた参加者の一人に幸運にも選ばれて参加することができました。
 ツアーの企画・案内者は、前日のシンポジウムにも登壇された札幌建築観賞会代表の杉浦正人さんでした。

 朝9時30分、地下鉄「南郷7丁目」駅に集合し、ツアーが開始されました。
 その行程は次のとおりでした。
 ① 本郷通商店街・「長濱万蔵翁」の胸像
 ② 恵佑会札幌病院(元NTT東日本野球場跡)
 ③ 鈴木煉瓦場跡・白石老人クラブ連合会設置の看板・大泉安定入植の地
 ④ 長濱牧場跡(現プレイランドハッピー白石店)
 ⑤ あかね公園
 ⑥ 白石本通墓地
以上でしたが、私は以前に「白石歴しるべ」で白石区を巡った際に、①と⑥は体験済みでしたが、それらを含めて、改めて説明を伺いより深く理解することができ、参加できたことを感謝しています。 
 私の記憶にとどめるために、以下私が理解できたことのみをレポしていきたいと思います。

 まず、①の「本郷通商店街」ですが、これは鈴木煉瓦製造場の初代工場長だった長濱久松の長男の長濱万蔵がその商店街造りに大きく寄与しています。
 私の得た資料でははっきりしないのですが、初代久松は工場長を辞した後、白石85番地(現在のプレイランドハッピー)において牧場を手広く経営したようです。その後を継いだ万蔵も牧場を経営する傍ら、白石村において公職に次々と就き、地域の発展に尽くされた方でした。

   
 ※ 「長濱万蔵翁」の胸像の前で説明する久蔵の末裔の長濱好博氏です。その横は好博氏の息子さんです。

 その万蔵が都市化する白石地区の更なる発展を願い、自らの土地は無論のこと、周りの地主たちを説得して土地を譲渡することで白石地区の中心に商店街を築くことを提案し、中心的役割を果たしたということです。
 「本郷通商店街」は昭和31年に開通しますが、当時は「白石地区の狸小路」を創ろうと周りに呼びかけたとも伝えられています。
 長濱万蔵の功績を讃えて、関係者たちの手によって昭和40年に商店街の一角に「長濱万蔵翁」の胸像が建てられてということです。
 商店街は、両側の歩道が車道(片側一車線)より広く取ってあり、その車道も車のスビートを抑えるため緩く屈曲した通りとなっており、歩道には並木が植えられ、市民が買い物を楽しめる造りとなっていました。

    
    ※ 本郷通商店街の様子です。道路が僅かに屈曲しているのが分かります。

 続いて恵佑会札幌病院のところですが、ここは案内のとおり元は電々北海道(NTTの前身)の野球場があったところです。ツアーに参加した年配の方々は、元スワローズで大活躍した若松勉選手が通って練習していたと誇らしげに話をしていました。

    
   ※ 元電々北海道の野球場跡に建つ恵佑会病院です。私たちが立っているところが周りより低くなっているのがお分かりだと思います。

 ここで案内の杉浦氏が、周りを眺めながらしきりに土地が僅かに傾斜していることを何度も指摘しました。というのも傾斜していることによって原料となる粘土層が露出していたのではないか、と杉浦氏は指摘されました。また土地が傾斜していることによって、煉瓦を焼成するさいに好都合な登り窯を造るのに適した土地だったということもあったようです。
 前日のシンポジウムで、長濱久松の曾孫である長好博氏は、この土地は最初は札幌で最初に煉瓦製造を行った遠藤清五郎が取得し、その後に鈴木佐兵衛(鈴木煉瓦製造場の初代経営者)に譲渡したのではないか、との研究成果を述べられました。(どうやらその説が有力のようです)

 続いて③の鈴木煉瓦製造場跡です。鈴木佐兵衛は製造場の拡充のために最初の製造場の隣接地である白石村87番地の地主だった大泉安定氏から土地の譲渡を受け、本工場として整備したということです。
  この地には「白石老人クラブ連合会」が設置した鈴木煉瓦製造場跡を知らせる看板が建っていますが、経年劣化により文字が読めなくなっていたのが残念でした。

    
    ※ 残念ながら文字が読めなくなってしまった看板です。 

 ④の長濱牧場跡は跡形もなく、今はパチンコ店となっていました。
 また、⑤の「あかね公園」はなぜか杉浦氏は素通りしてしまったようです。 

 そして最後に「白石本通墓地」を訪れました。
 ここには鈴木煉瓦製造場を興した鈴木佐兵衛をはじめ鈴木家の墓など、関係者のお墓が祀られています。

    

 興味深いのは、従業員の一員だった野田荒吉氏が建てた土管型の墓です。野田氏自身だけではなく、一族の方々が一様に土管型のお墓になっているのは、ご自身が煉瓦製造に関わったことを誇りとしている証かもしれません。

    
    ※ ユニークな土管製のお墓です。

 最後に私たちは、鈴木家の末裔の方々が用意してくれたお線香を手に鈴木家のお墓にお参りをしてツアーを打ち上げました。

    
  ※ 鈴木煉瓦製造場を創設した鈴木佐兵衛の末裔である鈴木清久氏と鈴木家のお墓です。

 聞き伝えをもとにしたメモですので、あるいは事実関係に誤りがあるかもしれません。その点についてはご容赦いただければと思います。
 どちらかというと歴史に対して、私は淡白の方だと自認していますが、こうしたお話を聴いたり、現地を訪れその痕跡を辿ることで思いのほか興味を掻き立ててくれることを実感した二日間でした。

鈴木煉瓦製造場シンポジウム

2025-06-15 17:02:54 | 講演・講義・フォーラム等
 北海道の煉瓦製造というと江別市が有名であるが、江別市において煉瓦製造が始まる前、札幌市白石区(当時の白石村)において煉瓦製造が盛んであったという。その代表格が鈴木煉瓦製造場である。その鈴木煉瓦製造場に関わる関係者の子孫などによるシンポジウムに耳を傾けた。

    
                                                    
 昨日(6月14日)午前、札幌コンベンションセンターにおいて「2025年 白石再発見 鈴木煉瓦製造場シンポジウム」が開催され参加しました。
 私としては、白石区が企画した「白石歴しるべ」に参加し、白石区を探訪した体験もあり、興味を抱いて参加しました。
 会場には、白石区に在住されている方と思われる方々が大勢詰めかけ、地域の方々にとって関心が深いことを感じさせられました。

 シンポジウムに登壇した関係者を紹介すると…、
 ◇長濱好博 氏(札幌市清田区在住 会社勤務 鈴木煉瓦製造場の初代工場長・長濱久松の曾孫)
 ◇見延典子 氏(広島県在住 作家 同じく長濱久松の曾孫)
 ◇鈴木清久 氏(東京都在住 (株)福禄社長 鈴木煉瓦製造場 6代目)
 ◇杉浦正人 氏(札幌市厚別区在住 札幌の地理歴史愛好家 札幌建築観賞会代表)
 ◇大泉恒彦 氏(札幌市在住 白石村開拓片倉小十郎家臣 大泉安定の曾孫) ※ 俳優・大泉洋の父親
以上、5人の方々が登壇し、それぞれの立場から当時を偲び語られました。

   

 それぞれがお話されたことは、私のような部外者にとっては、かなりマニアックにも感じられる部分もあり、それぞれが話されたことを再現するには荷が重いと感じました。そこで5人のお話から、当時の鈴木煉瓦製造場の姿を再現できればと思います。

  白石村の煉瓦製造の最初は、鈴木清久氏の祖先である鈴木佐兵衛ではなく、遠藤清五郎という人が明治16年に最初に製造に着手したということです。
 続いて翌明治17年になって、鈴木佐兵衛、鈴木豊三郎の父子が鈴木煉瓦製造場を開業したということです。
 当時は、鉄道施設のために煉瓦の需要が多く、小樽の手宮機関庫をはじめとして鉄道の倉庫やトンネル、橋脚などに使われ、社業は大きく発展したそうです。その勢いもあり鈴木煉瓦製造場では、本工場の他に分工場も設けたということです。需要は鉄道施設ばかりでなく、北海道庁(旧赤れんが庁舎)、北海道製麻株式会社々屋、日本銀行小樽支店など多くの施設建設のために煉瓦を納入したということです。

 なお、鈴木煉瓦製造場の本工場の敷地は、片倉小十郎の家臣だった大泉安定が払下げで受けた土地(現在の国道12号線沿い) 8,000坪を鈴木佐兵衛に売却したことによるとのことです。

 鈴木煉瓦製造場は創業者の鈴木佐兵衛、二代目・鈴木豊三郎、三代目・鈴木豊春と続きましたが、四代目の鈴木清春の時代になるころは煉瓦の需要を下火となっていたころに清春が画期的な石炭ストーブを開発したことから社業を「福禄ストーブ」に変え、子息の鈴木清長、そして現在の鈴木清久と繋ぎ、社業を広げ社名を「福禄」と変えて現在に至っているとのことでした。

 5人のお話をざーっと振り返ると以上のようなことかと思います。

        
         ※ 俳優・大泉洋の父親・大泉恒彦氏です。
 
 煉瓦を用いた建物は趣きがあり、街中で見る時は独特の存在感を醸し出しています。しかし、地震の多い我が国においては、その構造上の弱さが弱点となって鉄筋コンクリートに主役の座を譲ってしまったようです。
 それだけに、来る7月25日にリニューアルオープンする旧赤れんが庁舎が待たれると、シンポジストの一人杉浦正人氏が強調されました。鈴木煉瓦製造場が産したレンガをぜひ見てみたいと思います。

   

 なお、本日私は関連イベントとして企画された関連施設、あるいは施設跡を巡る「オプショナル ウォーキングツアー」に参加しました。そのことについては明日レポしたいと思います。                      



冴えわたる和田哲節

2025-05-28 19:37:27 | 講演・講義・フォーラム等
 この日もまた満員の聴衆を前に「街歩き研究家」の和田哲氏のお話は冴えわたった。パワーポイントを駆使して、北海道の、そして札幌の歴史の一コマを実に興味深く紹介してくれる技にはいつも感心して聞き惚れる和田節である。


 昨日(5月27日)午後、道民活動センター(かでる2・7)において、今年度第1回目の「ほっかいどう学かでる講座」が開催されました。 この日は「北海道・札幌おもしろ歴史散歩」と題して街歩き研究家として活躍されている和田哲(さとし)が講師を務めました。
 私が和田氏のお話を聴いたのは、これまで10回を下らないと思われますが、和田氏のお話はいつも豊富な資料を用意してパワーポイントで提示してくれるだけでなく、和田氏の巧みな話術にも感心しているのです。

    

 この日は、北海道、あるいは札幌の歴史の一コマを12のエピソードにまとめてお話されました。
 その12のエピソードとは…
 ① テレビ塔の電光時計
 ② 珈琲発祥の地・宗谷
 ③ 冬のスポーツ黎明期
 ④ スピードスケート世界選手権
 ⑤ 動く国道
 ⑥ 滝川の不思議な碁盤の目
 ⑦ 旭川の巨大ロータリー
 ⑧ 石炭と鉄道
 ⑨ 岩見沢の謎
 ⑩ 餅の街小樽
 ⑪ 盆踊りの唄
 ⑫ 夕張北高最後の卒業式
 〈おまけ〉苫小牧の地名

 この題名を見るだけで、「どんな話なのだろう?」と興味を持たれるのではないかと思いますが、いかがでしょうか?
 何度も和田氏のお話を聴いている私には、以前に聴いた話を再び聴くこともありましたが、今回は12のエピソードのうち聞いたことのある話題は、①、③、④の三つだけで、残りは初耳の話題ばかりでとても新鮮でした。
 どのエピソードも興味あると思われますが、その中でも「動く国道」というエピソードは興味ありませんか?
 国道が動くとは、勝鬨橋のように橋が上がったり、あるいは回ることを言うのかな?と思いましたが、そうではありませんでした。

 道内にはたくさんの国道が走っていますが、札幌⇔留萌間を結ぶ国道231号線があります。 この区間には大河・石狩川が流れており、現在の石狩市付近の河口に近いところは川幅が1,500mもあり、橋を架けることが困難だったそうです。
 そこでこの区間は「渡船」によって結ばれていたということです。つまり「渡し船」が国道だったわけです。したがって人々は「動く国道」と呼んでいたということです。
 社会が車社会となり、交通量が増えた昭和40年代には、一日に渡船を利用する人が4,000人、車両が1,500台を数えたということです。
 昭和47年には「石狩河口橋」の一部が通行可能となり、昭和51年には全面開通となったということです。なお「渡し船」の方は、それ以降も運航を続けましたが、昭和53年になって全面廃止となったということです。

    
    ※  完成した「石狩河口橋」(全長1,412m)です。   

 和田氏はこうした歴史の中にうもれたような話題を掘り起こし、私たちに提供してくれます。しかも、当時の写真資料などを揃えて…。
 きっと和田氏は、常にアンテナを張り巡らせ、私たちが興味を抱く歴史的なエピソードはないものか?探し続けられているのではと思われます。
 これからも機会あるごとに和田氏のお話を追いかけたいと思っています。

ヒグマの被害に遭わないために…

2025-05-25 19:18:57 | 講演・講義・フォーラム等
 「アーバンベア」とか称されて、街中にまでヒグマが出没するケースが増え、人的な被害も報道される昨今です。被害を未然に防ぐ対策について、様々や識者の話や報道機関から情報を得てきましたが、今回改めて専門家からお話を伺う機会を得ました。

      

 昨日午後、札幌市資料館において北海道自然保護協会が主催する講演会がありました。テーマは「ヒグマもいる自然環境の下で暮らす~今起きていることの正しい理解に向けて~」と題して、長ら道総研でヒグマ研究に携わり、現在「ヒグマの会」の副会長に就かれている間野勉氏が講師を務められました。
    

 間野氏のお話は、これまで私がさまざまなところで見聞したこととそう変わりのあるものではなく、ヒグマの年間の行動習性、食性などについて話されました。
 その上で近年になって、都市部においてヒグマの出没が相次いだ事例が紹介されました。
 そうした現象から、近年のヒグマの生息状況の変化を次のようにまとめました。
 生息状況の変化の原因は「春グマ駆除の廃止」と「ハンターの減少・高齢化」があるとし、その結果「個体数の増加・分布の拡大」傾向にあることと、「警戒心の低いヒグマが出てきた」ことがあるとしました。
 
 さて、そうした状況の中でヒトとクマの接触を避けるために、現在札幌市をはじめ各自治体で取り組み始めたのが「ゾーニング管理」という方法だそうです。
 「ゾーニング管理」とは、市町村の地域をいくつかの地域(ゾーン)に分けて、各ゾーンごとに適したヒグマ対策を進めていくという方法です。
 札幌市の場合でいえば、①市街地ゾーン、②市街地周辺ゾーン、③都市近郊林ゾーン、④森林ゾーン、と分けてそれぞれのゾーンごとに対策を施していくという考え方です。

 それぞれのソーンごとの対策については省略しますが、ゾーンごとに事情は違いますが、考え方としてヒトとヒグマのすみ分けを進めていくということです。
 問題は、皆さんもよくご存じのことと思いますが、クマ(ヒグマ)は非常に学習能力の高い動物だということです。前述しましたが、最近のクマはヒトに対する警戒心が薄れてきたということが言われています。それは、クマが人の住む地域へ近づいたとしても危害を加えられないと学習したことが、都市部におけるクマの出没が相次ぐことに繋がっているのではないかと考えられています。 

    
  
 ヒトとヒグマのすみ分けを進めていくためには、何よりまず自治体などの関係機関による対策が必要であることは間違いありません。
 と同時に、私たちにも取り組むべき対策があると間野氏は強調します。それは、クマを寄せ付けないためにゴミの管理、あるいは周辺の草刈りなど、日頃より気を付けるべきだと言います。

 以前(昔)のようにむやみやたらに野生を除去するという荒っぽい方法は通用する時代ではありません。ヒトと野生が共存できるように一人ひとりができる範囲で安全策を心がけていくということでしょうか?きれいごと、と言われるかもしれませんが…。

都会に生きるカラスの生態を聴く

2025-05-19 19:31:28 | 講演・講義・フォーラム等
 カラス研究家の中村氏は「カラスがゴミを散らかすのは、そこに  ‟食べ物”  があるからであって、‟食べ物” がなければ集まらない。私たちがカラスを集めているのだ」と…。カラスの側から社会を見る中村真樹子氏の話を聴いた。

     

 昨日午後、紀伊國屋書店札幌本店のインナ―ガーデンで、NPO法人札幌カラス研究会代表の中村真樹子氏「札幌のカラスを語る」と題するトークショーがあり、参加しました。
 中村さんがカラスの生態を追っているということは早くから聞いて知っていましたが、直接お話を聞くのは初めてでした。
 今回お話を伺うと、その観察歴は実に30年近くになるということで、中村さんは毎日カラスの生態を観察するために夜中3時ころには起き出して、日の出前からカラスの生態観察をしているとのことでした。

 中村さんは、こまめに静止画、動画に記録しています。その様子を提示しながらトークショーを進めてくれました。
 その記録でカラスたちは朝早くからゴミ箱の周りで、ゴミの中から ‟食べ物” を漁っています。その様子はゴミを散らかす行為そのものです。しかし、中村さんに言わせると、カラスたちは食べ物を得るために必死の行為なのだといいます。私たち人間の側から言わせると「カラスはゴミに散らかす迷惑な存在だ」ということになりますが、カラスの側から言わせると「そこにカラスの食べ物となるものがあるから、その食べ物となるものを選別するため、結果的にゴミが散らかった状態になる」ということなのだ、と中村さんは主張します。
 中村さんは言います。「カラスがゴミ散らかさないようにするには、ゴミにカラスが近づくことができないように管理を徹底することだ」と…。
 カラスはけっして人間が出したゴミだけを食べているわけではなく、日常的には昆虫や木の実など自然界の恵みを食べているのだと主張されました。

 続いて、カラスが人間を攻撃することについては、カラス(特にハシブトガラス)は子育て時期になると神経質になって、人を攻撃する場合があると言います。それは「雛を護るため」であると言います。
 私も過去にカラスに攻撃されたことがありますが、カラスの攻撃から身を守る方法としては、帽子を被る、傘を差す、という方法がありますが、「両腕をまっすぐ上に上げる」という方法も有効だということです。この方法は耳新しい情報ですが、中村さんの長年の観察研究から編み出された方法なのかもしれません。

    
    ※ トークショーで語る中村真樹子さんです。

 興味深かったのは、カラスが雛を育てる様子を動画で見せていただいたことです。雛の誕生から巣立ち直前までの日々を根気よく記録し続けたものでした。
 親鳥が雛をかいがいしくお世話する様子は、他の鳥たちとまったく変わりがありません。特徴的だったのは、カラスがきれい好きという点です。巣の中を清潔に保つために、雛たちの糞(この雛たちは糞を「糞嚢(ふんのう)」という袋の中に排泄するそうです)を親鳥は嘴に加えて巣の外に排出しているそうです。その様子も動画で見せていただきました。

 というように、中村さんはさまざまな角度から、カラスたちの生態を紹介してくれました。そしてカラスもまた自然界を構成する大切な生き物だと言います。つまり私たち人間と共生する大切さを説き続けています。
 
 しかし…、中村さんの主張を理解しようと努めつつも、街中でゴミを漁る姿を見たり、夕方に巣に帰る大量のカラスたちが泣きわめく姿に接すると気持ちの良いものではありません。
 カラスを退治するなどという行為は言外ですが、カラスたちが私たち人間が排出したゴミを漁るような状況をシャットアウトすることによって、街中からカラスの姿が減少することを願うことは許されることであり、私たちの務めのような気がするのですが…。                                       



再び歌川国芳について聴く

2025-05-18 20:45:21 | 講演・講義・フォーラム等
 歌川国芳がいかに多彩な浮世絵師であったのか、ということについて解説いただいた。国芳が手懸けたのは、武者絵、役者絵、物語絵、美人画、風刺画、相撲画、戯画、等々、八面六臂の活躍だったという。


 一昨日午前、北海道立近代美術館の講堂において札幌芸術の森美術館副館長の岩崎直人氏による「国芳多様巧錦絵」と題する特別講演会があり受講しました。
 実は私は、4月25日に一度「歌川国芳展 特別講演会」として、今回の国芳展の「イマーシブアート」についての講演をお聴きしているのですが、それは国芳の作品そのものについての講演ではありませんでした。今回は国芳の作品そのものについての解説と聞いて受講を決めたのです。

 岩崎氏はまず、「国芳の作品は、浮世絵というよりは非常にカラフルであり錦絵と称するのが相応しいのでは」と話された。なるほど、すでに展覧会の国芳の作品の鑑賞を終えている私も、国芳の作品の鮮やかな色遣いが印象的だったと記憶していた。

 そして岩崎氏は「江戸名所草木尽首尾の松」という国芳の作品を提示し、この絵は細やかな描写によって、時代考証の役割を果たすとともに、動きのある絵になっているとした。この絵は隅田川に浮かぶ二艘の屋形船がぶつかった瞬間を描いたものです。船に乗っている遊女風の女性が慌てて船の両端を掴んでいる絵になっています。

  
  ※ 「江戸名所草木尽首尾の松」です。三人の女性は船から振り落とされないように三人ともに船の両脇や、柱を掴んでいます。

 さて国芳は15歳の時に歌川豊国に弟子入りし、確か18歳の時には早くも浮世絵師番付入りを果たしたが、その後は鳴かず飛ばずで、兄弟子の国貞等の人気に勝てず後塵を拝したのですが、31歳の時に「水滸伝シリーズ(通俗水滸伝豪傑百八人之一個)」が大当たりして一躍人気絵師となり、その後の成功に繋がりました。
 そのシリーズは一節には74枚とも、77枚とも伝えられているが、その中から「浪裏白跳張順」という作品を紹介すると、国芳の作品の確実なデッサン力、斬新さ、奇抜さ、などを感ずることができると思います。
 彼の画で頻出した刺青を全身入れた図は、江戸の人々を魅了し、当時刺青を入れることが流行したということです。

        
※ 「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」の一枚「浪裏白跳張順」です。刺青が凄いです。

 それからの国芳は順風満帆、リード文で紹介したように様々な分野に進出し、実に多くの作品を世に出しました。

        
※ 国芳は無類の猫好きだったと伝えられています。広重が「東海道五十三次」で有名になった際に、猫を用いてパロディー版「猫飼好五十三疋」」を作成したそうです。

 岩崎氏のお話も国芳同様、多岐にわたりましたが、主たる内容は上記のようだったと記憶しております。
 なお、浮世絵はそのほとんどが木版画(印刷物)によって制作されましたが、その歴史について岩崎氏が紹介してくれました。
 1600年代末期には「黒一色摺一枚絵」だったそうです。それが1768年に「多色摺一枚絵」となったことによって、木版画ゆえに大量生産が可能となり、庶民にも手の届く価格で販売されたことにより大流行したことが歌川国芳を希代の浮世絵師の一人に押し上げたといえるのかもしれません。


 今回のお話をお聴きし、もう一度国芳展を観てみたいと思い始めています。



保坂正康氏が語る天皇と政治

2025-04-30 12:48:04 | 講演・講義・フォーラム等
 保坂正康氏は言います。「江戸時代265年間、一度も対外戦争はなかった。一方で1868年、明治の世になってから1945年までの僅か77年間に大きな対外戦争だけでも6度も発生した。ここには時の政府と天皇との間の微妙な関係性が存在している」と…。

 昨日4月29日は「昭和の日」でした。この日に合わせて、北大大学院の城山英巳教授の研究室が主催する「保坂正康氏講演会」が北大学術交流会館で開催され、参加することができました。
 テーマは「歴史をどう引き継ぐか~戦後80年と昭和100年の視点~」と題するものでした。

    

 保坂氏は、歴史を後世に引き継ぐことの重要性を次のような事例を示して警告しました。
 曰く、「江戸時代265年間の間、内乱も含めて戦乱はほとんど起きていない」ことを指摘しました。この大きな要因を保坂氏は「徳川幕府は、形式とはいえ、朝廷が徳川幕府の当主を将軍に任じ、政治を委ねるという形態をとり、天皇は政治に関与しない」という仕組みを作り上げたことが大きな要因であると指摘しました。この仕組みはある意味、現代の象徴天皇制とも云える仕組みかもしれません。(これは私の感想です)
 戦乱がなくなった江戸時代の武士階級は、武術の鍛錬よりむしろ「人格陶冶」に重きを置くようになり、武士らが互いに知恵を働かせ、戦争を避けようとした、と指摘します。

    

 一方で、徳川幕府の幕藩体制に不満を抱いていた薩長をはじめとする下級武士たちは、ペリー来航など海外の圧力にも乗じて、幕府に反乱することによって、1868年「明治維新」を成し遂げました。
 明治維新を成し遂げた指導者たちは「江戸時代の知恵を否定し、欧米の軍事知識を半端に取り入れるようになった」と保坂氏は指摘します。そして天皇を頂いて帝国主義へと突入していくのです。

 振り返ってみると、明治維新から1945年の第二次世界大戦敗戦までの77年間に日本は大きな戦争だけでも、実に6度もの戦争をしているのです。
 具体的に振り返ってみると、
 ◇日清戦争     1894~1895年
 ◇日露戦争     1904~1905年
 ◇第一次世界大戦  1914~1918年
 ◇満州事変     1931~1932年
 ◇日中戦争(士那事変)1937~1945年
 ◇第二次世界大戦  1942~1945年  

 保坂氏は言います。「江戸時代265年間もの間、戦乱を起こさなかった日本が、明治以降わずか77年間の間に6度もの対外戦争を起こしてしまったことに慄然とすると…。

    

 明治の世になって天皇と政治の関係性が徳川幕府の時代とは異なり、天皇主権の世となり、天皇が絶対権力を持つ存在と位置付けました。しかし、実態は異なっていたのです。
 明治天皇は、日清戦争を前にした御前会議で「これは朕の戦争ではない」と発言したと伝えられているそうです。また大正天皇は、戦争は大嫌いで軍事には嫌悪感を持っていたと伝えられているそうです。こうしたこともあり昭和天皇には幼少の頃から周到に教育されたことによって、明治、大正天皇のような思い、発言を封じられたということです。
 そして実質的に天皇は、時の指導者あるいは軍部に利用された存在だったと保坂氏は言います。
 保坂氏はこうした発言をするにあたって入念に文書などにあたり、確信を得たうえで発言していると言います。
 
 さて、主題である「歴史をどう引き継ぐか」ということについて、保坂氏は「歴史を政治化するのはダメだ」と強調し、次代を引き継ぐ子どもたちの教育をする側の行政、教師たちをけん制します。
 事実を事実として伝え、そのことに対して子どもたちが自ら考え、発言していくことが大切である、と強調された。

 保坂氏は当年取って85歳という高齢ですが、旺盛な文筆活動は衰えを感じさせません。氏の説得力あるお話は非常に参考になり、意味ある「昭和の日」を過ごせた思いです。
(なお、拙文には事実誤認や私の解釈の違いがある場合もあることをお断りしておきます)



北海道独自の擦文文化を考察する

2025-04-24 20:53:56 | 講演・講義・フォーラム等
 北海道の歴史は、その時代区分において東北以南の本州とは違う時代区分がなされている。 そのためもあって、考古学的に北海道の文化は独特の発展を遂げてきたとも云える。 私にとっては難しい考古学の話を専門家からお聴きした。 

 昨日午前、札幌市社会福祉協議会が主催する「わたしの生き方セミナー」の今年度第1回講座が、札幌市社会福祉総合センターで開講されたので受講しました。 
 第1回講座のテーマは「考古学から探る北海道の歴史~北海道をめぐる古代の交流・交易~」と題して、北海道博物館学芸員(考古学)の鈴木琢也氏が講師を務められました。 

         

 考古学は私にとっては関心の低い分野なこともあり、さらにはお話がやや専門的でもあったことから十分な理解ができたとは言い兼ねますが、理解できた範囲でレポしたいと思います。 
 まず、リード文でも触れた北海道と本州の時代区分の違いですが…。 
東北以南の本州の時代区分は①縄文時代、②弥生時代、③古墳時代、④古墳時代、⑤飛鳥時代、⑥奈良時代、⑦平安時代、… と続きますが、北海道は少し違った時代区分となっていることは諸兄もご存じのことと思います。 その北海道の時代区分とは…、
 ①縄文時代、②続縄文時代、③擦文文化時代、④考古学上のアイヌ文化時代、と続きますが、その間、続縄文時代と擦文文化時代の間にオホーツク地方だけに独特の「オホーツク文化」が花開いた時期があります。 
 こうした時代区分の違いが生じた原因は、東北以南は米作が可能だったため米作中心の生活へと移行していったのに対して、北海道内は米作には不適なために、基本的にはそれまでと同様に狩猟や採集生活が続いたことが最大の原因でした。 


 さて、今回考察する「擦文文化」ですが、擦文文化の時代は、7世紀後半から13世紀にわたって北海道において栄えた文化とされています。 「擦文」の名前の由来は、土器を作る際に、土器の表面を整えるために木のへらで擦ったことから、その擦った(こすった)文様が残ったことから「擦文文化」と称されたそうです。

    

  考古学の世界においては、7世紀後半から13世紀にわたって栄えた擦文文化をさらに三つに時代区分してその特徴を考察しているそうです。 
 その三つとは①成立期(7世紀後半から9世紀)、②拡散期(10~11世紀)、③変容期(12~13世紀)、と分けられるそうです。 
 

 擦文文化の時代に入り「成立期」には、北東北との交流がそれまで以上に活発となり、土器の様式、墓の在り方、住居の形態などに大きな影響を受け、変化した時代だったようです。 
 まず土器の様式ですが、北海道が擦文時代にすでに日本は平安時代に入っていたのですが、北東北においては「土師器(はじき)」という素焼きの土器がさかんに作られ、その影響を受けた北海道においては擦文土器が作られるようになったということのようです。 なお、本土では「須恵器」という土師器より高い温度で生成された土器も出回ることになったそうです。 色も土師器が土色なのに対して灰色の土器だったそうで、土師器よりは上級土器とみなされていたようですが、北海道内の遺跡からも発掘されていることからも交流が活発だったことが窺えます。 
 墓や住居についても本土の影響をうけたことが話されましたが、詳細は省略することにします。 

 そして「拡散期」に入ると、北東北との交流はますます盛んとなり、「成立期」にはその影響が札幌、石狩あたりに限定されていたものが、全道各地にその影響が拡がりだした時代でした。 道内の遺跡にその痕跡が数多く残っているそうです。 
 さて、交流が盛んになると、当然対価が求められますが、北海道からは毛皮類や鷲羽、海産物などが交易品として珍重されたそうです。 その中に「鷲羽」というものが含まれていますが、これは読んで字のごとくで、野鳥の鷲の羽根が珍重されたそうです。 本州では得られないオオワシやオジロワシなどの大型の野鳥の羽根が珍重されたということです。 
      
※ 鈴木氏が提示してくれたアイヌが鷲羽を採るための図だそうです。

 そして「変容期」に入ると、モノの交流だけではなく、人的交流も始まった証拠が遺跡などを発掘する中で見えてきたと言います。 というのも、この時期(12~13世紀)になると、北東北では平泉藤原氏が勢力を伸ばし、隆盛を究めました。 そうした情勢が北海道との交流にも少なからず影響を与えたことは想像に難くありません。 
 平泉藤原氏の本拠地だった遺跡からは擦文土器が発掘されたそうですが、使用された土や器の壁が厚いことから北海道の擦文土器とは明らかに違うそうです。 つまり発掘された土器は北海道から運び込まれたものではなく、擦文土器をつくる技術を持った人々が平泉や周辺で制作した可能性が高いというのです。 
 それに対して、北東北からも技術をもった人たちが海を渡り北海道に渡ったことが考えられ、北海道においても「須恵器」の器が目立つようになったということです。 

 こうして「擦文文化」はやがて終焉を迎え、「アイヌ文化」と称される時代へと移行していったようです。  
 「アイヌ文化」がその後、どのように発展したいったか、ついては本講の主たる目的ではありませんでしたので、講座では触れられませんでしたが、本州とは違い「擦文」という文化が北海道において一時期、独特の文化を育んだということは、興味深い事実だと云えるかもしれません。 

 講演の後の質疑応答のコーナーのところで、「北海道には擦文文化の後に、突然アイヌ民族が出現したのか」という質問がありましたが、鈴木氏は「それまで住んでいた蝦夷地の住民がアイヌの人たちだったのではないか」というようなことを述べられ、私も納得しました。 

 北海道地史の中で、その点について明示されていないキライもありますが、鈴木氏のように考えるのが自然のような気をしながら質疑応答を聞いていました。 
 「擦文文化」について、少しだけ分かったような気がしている私です… ・。 ととるため



「札幌誕生」 著者:門井慶喜×秋元札幌市長 特別対談

2025-04-22 19:29:55 | 講演・講義・フォーラム等
 著者の門井慶喜氏は「一から街ができる姿を描きたかった」と語った。一方、秋元札幌市長は「第二の開拓時代を率先したい」と述べた。お二人の「札幌誕生」にまつわるあれこれを興味深く聴くことができた対談だった。

    

 本日午後、札幌コンベンションセンターにおいて「『札幌誕生』刊行記念 札幌市長・秋元克広さん×門井慶喜さん 特別対談」が行われたので参加し、お二人のお話に耳を傾けました。司会は元HBCアナウンサーの鎌田強さんが務めました。
  
    
    ※ 対談前のフォトセッションでのお二人です。

 お二人の話を一生懸命にメモしながら聴いたのですが、その中から印象的な言葉を掘り起こしてみたいと思います。

 まず、門井慶喜さんの言葉です。
 門井さんの著書に「家康、江戸を建てる」があるが、家康が江戸を創ったときは、江戸はすでに住んでいた人たちがいる中で、江戸の街を創っていったが、札幌は一部アイヌの方々がコタンをつくってはいたものの、ほぼ何もない状態から街づくりが始まった。門井氏はそうした何もない原野を「一から街ができる姿を描きたかった」と語りました。

    
    ※ 著書について、札幌について語る門井慶喜氏です。

 著書に出てくる具体的な場面に関して門井氏は…、
 ◇札幌農学校は、単なる農学を教えるだけではなく、宗教も含めて総合的な教育が展開されたことで多分野のリーダーを育成した。
 ◇島義勇が構想し、実現した碁盤の目状の札幌の街は、自分たちより他所から来た人たちを優遇する街に映る。
 ◇創成川(当時の大友堀)は、内陸都市である札幌にとって、水運を担い、札幌が発展するうえで大きな精神的位置づけがされる存在である。
 ◇札幌はいまだに発展中であるが、人口減少時代を迎えようとしている今日、二宮尊徳(その弟子である大友亀太郎)の取り組んだことは、それを克服するモデルとなり得る。
 ◇島義勇が短期間ではあったけれど、多くの仕事をし札幌人に讃えられたのは、明治政府から遠い蝦夷に派遣されたことによる「後がない」という思いと、島義勇の人間的魅力が部下に大きな影響を与えたことよる。
 などなど、作品の興味深い背景についてお話されました。

 一方、秋元札幌市長は…、
 ◇ご自身の出身校である北海道大学の前身の札幌農学校の先輩たちについて、「日本を支えるような人材を輩出した学校であり、先輩というよりは偉人たちを多く輩出した学校」だったと述べられた。
 ◇碁盤の目状の札幌の街については、昔も現代もイメージの違いはなく、伸びていく素地があるイメージである。
 ◇創成川(大友堀)は、住民の生活、産業などに大きく関わり、水路として石狩川と繋がり水運の通路として大きな役割を果たした。
 ◇これからの札幌、北海道は、国防、エネルギー、食糧といった面で日本の中でも重要な位置を占めている。そういう意味で「第二の開拓時代」を迎えているとも云える。
 ◇また、人口減少時代を迎え、人手不足などが懸念されるが、DX技術などを駆使して解決してゆきたい。
 ◇「札幌誕生」は一気読みするほど楽しく、また参考になった。世界のユートピアを目ざして都市づくりに邁進したい、と語りました。

    
    ※ サイン会の様子です。

 1時間という対談時間はとても短く感じられるほど、お二人のお話には魅せられました。
 対談後には、予想されていたとおり門井慶喜氏のサイン会が催され、私も持参した「札幌誕生」の中表紙に、門井氏自慢(?)の万年筆で達筆のサインを頂いてきました。

       
  ※ いただいた門井氏のサインです。(白丸の部分は私の名前を記していただきました)