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田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

「コミュニティ・シェッド」って何?

2025-04-05 20:17:00 | 講演・講義・フォーラム等
 「コミュニティ・シェッド(community shed)」…、初めて聞いた言葉である。直訳すれば「人が集まる小屋」とでも訳される。札幌市西区でコミュニティ・シェッドの実践を試みている方のお話を聞いた。

 本日午前、北海道新聞社が主催する「シニア向け住宅入居相談会 & 暮らしのセミナー」DO-BOX EASTであり参加しました。私は入居相談会の方は今のところ関心がなかったので、暮らしのセミナーの部分だけ参加しました。

  

 セミナーは「つながりが生む健康と生きがい ~豊かなシニアライフのために~」と題して、北大大学院保健科学研究院の高島理沙博士が講演しました。
 高島氏は札幌市西区で「ポッケコタン」という名称の「コミュニティ・シェッド」を創立し、運営に携わっているそうです。

 高島氏は看護学で博士号を取得したそうですが、本来は「作業療法士」として研究・実践されている方だと自己紹介されました。
 高島氏は作業療法士として、特に高齢者の社会的孤立・孤独を防ぐことに注力しているといいます。というのも、人は退職後に、社会的集団へ参加することで健康リスクが軽減されるという研究結果が報告されていることに注目しているといいます。
 説明の中で、「孤独は ‟喫煙” や ‟運動不足“ 以上に健康リスクが高い」とも話されました。

 孤独対策に国ぐるみでいち早く取り組んだのがイギリスだそうです。2018年には世界に先駆けて「孤独担当大臣」を任命し、孤独対策に乗り出したそうです。イギリスでは、孤独に陥りノイローゼとなり病院を訪れた人に対して、医師は薬ならぬ「地域との繋がりを処方する」そうです。
 我が国でも、イギリスに倣い2021年、世界で2番目に「孤独担当大臣」を任命したそうです。(知らなかったぁ…)そして2023年には「孤独・孤立対策推進法(通称:孤独対策法)」が成立しているとのことでした。

 この「孤独対策法」との関連は不明ですが、孤独対策としてオーストラリアが最も早く取り組んだ「メンズ・シェッド」に倣い、我が国においても「日本コミュニティ・シェッド協会」を設立したそうですが、その先駆けとして熊本県水上町と札幌市西区の2ヵ所で実践を始めたということです。

 その札幌市西区のコミュニティ・シェッド「ポッケコタン」は、高島さんを中心に次のような理念を制定し、活動を開始したそうです。
 理念1 気楽に力を抜いて集まり、楽しい仲間をつくる居場所
 理念2 誰もが歓迎され、互いを尊重し、発想の違いを受け入れ、平等で助け合う居場所
 理念3 「レットトライ」の精神で、ささやかでも新しいものを作り、新しいことに挑戦する居場所
 ちなみに「ポッケコタン」とは、アイヌ語で「温かい村」という意味だそうです。

 そして昨年4月40名弱(現在は50名を超えたとお話がありました)のシニア男性が集い「ポッケコタン」が発足したそうです。
 具体的な活動としては、興味・関心のある活動ごとにグループが編成され、楽しく活動しているとのことでした。そのグループとは、実に多彩です。
 「音楽」、「菜園」、「DIY・基地づくり」、「メンズシェフ」、「頭の体操」、「登山・ウォーキング」、「つり」、「ゴルフ」とあり、それぞれが楽しんでいるそうです。最近さらに「日本酒研究会」、「そば打ち愛好会」が誕生したそうです。

 ここまで聴いていて、「これは私が名前だけ所属しているNPO法人シーズネットの活動と似ているな」と思いました。
 コミュニティ・シェッドやシーズネットばかりでなく、札幌市内にはシニアを対象としたさまざまなグループや団体が活動しているようです。
 高島氏が強調したように、シニア年代の人たちは孤独や孤立に陥らないように積極的に社会参加をしていきましょう!ということを言われたと理解しました。

※ 「ポッケコタン」の活動の様子をHPから転写しようとしましたがガードされているようです。興味のある方は「ポッケコタン」でHPに到達できますので、トライしてみてください。

前札幌市長・上田文雄氏のヒューマニズム

2025-03-27 16:54:28 | 講演・講義・フォーラム等
 上田氏は前札幌市長として、政治姿勢を明確に打ち出していただけに、そのことに対する賛否は当然あるだろうと思います。しかし、今回お聴きした上田氏のお話からは、上田氏の依って立つ基盤がヒューマニズムに基づいたものであることを知り、共鳴できる部分が多いお話でした。

 一昨日(3月25日・火)、NPO法人シーズネットが主催する市民公開講座が開催されたので参加しました。
 公開講座は基調講演として「これからの市民活動に期待したいこと」と題して上田文雄氏が講演されました。
 上田氏は冒頭、自分はもともと市民の方々と一緒にNPO活動に取り組んでいたことを話されました。その中で、仲間から市長に担ぎ出されたものだと…。つまり氏はNPOの理念に深く共鳴され実践してきたことを、市政においても反映するよう努めてきたと強調されました。
 そして、上田氏が今考えていること、これからの願いなどについて話されましたが、私には共鳴できる部分が多いお話でした。
 そこで本日は、上田氏は項目別にまとめたものを提示されたので、それをそのまま転写することで本日のレポとしたいと思います。

      

◆僕が大切に思っていること
 ◇自由、人権、民主主義、平和
 ◇情けは人(他人)のためならず
 ◇豊かさを求めて 感謝から感謝への連鎖 NPO法人への誘い
 ◇高齢社会の指針と「健康寿命」から「生きがい寿命」延伸へ
 ◇ 「生きがい」の正体は「社会的存在として」心地良く、楽しく、元気
 ◇人は一人では生きていけない。生きるために不都合を乗り越えるために他
  の人の知恵や助力を得なければ…
 ◇ The Personal is Political 個人的な問題は政治的課題だ。
 ◇政治を、社会を変えるためには、社会的課題解決のための実践と政治家を
  育てるためのプログラムをNPOが提示し、政策提言をする。 

◆僕らが語り続けなければならないこと
 ◇人間が殺し合いをすることをやめさせること。
 ◇ロシア vs ウクライナ
 ◇イスラエル vs パレスチナ
 ◇日本国憲法9条を武器に、世界をリードする日本になるために平和な社会
  に生を受け、これまで兵隊にならずに生きられた世代の責任として、自ら
  の子どもに、孫に、その友だちに絶対に戦争をしてはならない心を育てる
  努力しょう。 

※ ここで上田氏は、MLBドジャース所属の大谷翔平選手が高校一年生の時に作成したという「曼荼羅チャート」を提示し、「世界平和を実現する」ための曼荼羅チャートを氏の大学時代の友人である弁護士の方と構想中であると語りました。
   

 そして講演の最後に、次のような言葉を提示して講演を終えました。

◆高齢者社会で市民は何をなすべきか
 ◇健康寿命から生き甲斐寿命へ ~ 社会的存在であり続ける
 ◇市民とは何か 社会に関心を持ち参加し続ける人々
 ◇主観的にはメディアリテラシーを磨き続ける努力
 ◇具体的行動…戦争に行かなくてよい時代に生きられた事の素晴らしさを子
  どもたちや孫たち、周りの若者に伝えること。 
 ◇多文化・多元的価値・多様性を承認する人格を育てる。
 ◇学校教育で平和のために何をなすべきかの思考能力の獲得を目標とする。
 ◇紛争解決の知恵を身に付ける 暴力 武力 不使用への努力の歴史を学ぶ 
  憲法9条の精神的価値 国際協調主義  
 ◇平和的思考回路を持つ政治家を育てる…NPO活動への参加   

 講演の最後に上田氏は、前記した「世界平和を実現する」を目標とする曼荼羅チャートを試作してものを提示し、さらに友人たちと精査し完成した暁には教科書に採用してもらえるように要請していきたいと話されました。それを参考にして子どもたち一人ひとりが「世界平和を実現する」曼荼羅チャートを作成してくれることを願ってのことでしょう。

   

 上田氏の話されたことに対していろいろとご意見もあろうかと思います。敢えて私はここで、上田氏が唱えたこと一つ一つについてコメントは避けたいと思いますが、「世界平和を実現する」という上田氏の思いはどなたからも賛同いただけると思います。問題はそこへ向かってどのようにアプローチするかについてはいろいろとご意見があろうとは思いますが…。                     


広大な野幌森林公園が今に残ったわけは…

2025-03-21 16:32:59 | 講演・講義・フォーラム等
 札幌市、江別市、北広島市にまたがる野幌森林公園…。住宅地や農地に挟まれながら広大な公園は多用な動植物が生息し、市民の癒し、研究者の研究の場として貴重な自然です。そうした広大な自然が残ったわけは??

 一昨日(3月19日)夜、札幌市豊平館の「歴史連続講座」の第4回講座(最終回)が開講されたので受講しました。
 今回のテーマは「野幌森林公園と北越殖民社」と題して北海道開拓の村の扇谷真知子学芸員が務めました。

 野幌森林公園の面積は2,053haで、札幌ドーム372個分に相当するそうですが、これほどの面積を持ち、かつ標高が30~90mの中に収まる山がない自然公園は国内には他に例を見ない貴重な公園だそうです。
 「野幌森林公園」のことを「野幌原生林」と称する方がいるそうですが、実際には明治の初期から利用・管理されてきて、林相も時代と共に変化してきたことから、原生林と呼ぶのは相応しくないとのことです。

   
 ※ 周りを宅地や農地に囲まれながら、広大な森を今に残してくれた野幌森林公園です。

 講座はまず扇谷さんが野幌森林公園の動植物に詳しいことから野幌森林公園内に生息するさまざまな動植物を紹介することから始まりました。
 私も野幌森林公園には度々訪れたり、公園で開催される観察講習会にかなり参加させていただいた経験があり、そこで生育する生物の多様性を肌で感じておりました。扇谷さんのお話から、改めて多様な生物があの森で生息していることを再確認することが出来ました。

 さて、本題ですが 明治年間に入り北海道開拓は「北海道開拓使」の発案により「屯田兵制度」を整備し、北海道開発が急ピッチで進められました。
 一方で、国は行政の整備も進め、1886(明治19)年に北海道庁を整備し、初代長官には岩村利通が就任しました。そして北海道庁はさらに北海道開発を進めるために「北海道土地払下規則」を制定し、未開地の大面積払下げが進み、団体を組織しての移住が増加しました。
 
 そうした動きの中で、新潟県の貧窮農民の救済のために「北越殖民社」が設立され、新潟から幌向原野(現在の江別太)に17戸が入植したのが始まりだそうです。その後も新潟からの入植は続き、リーダーたちの努力によって野幌原野(現在の野幌森林公園の近縁)に1889(明治22)年には最終的には320戸もの入植者があったそうです。当初は畑作中心だったものが、1891(明治24)年には米の試作が始まり、5年後には米も主要作物として収穫するまでになったといいます。

   
   ※ 野幌森林公園の遊歩道の一部です。

 さて問題の「野幌森林公園が今に残ったわけ」についてですが、北海道は1890(明治23)年に、野幌の森を地方自治体の基本財産として分割することを内定したそうです。このことは北越殖民社にとっては一大問題でした。
 というのも、当時の野幌の森は用水溜池として森の中に25以上の溜池を作り周辺の水田に水を供していました。しかし、野幌の森が農用地として払い下げられれば水源は枯渇し、水田が荒廃してしまう恐れが出てきたのです。
 北越殖民社のリーダーたち(関谷孫左衛門を中心とした人たち)は北海道庁に払い下げの中止を申し出るも受け入れられませんでした。諦めきれない関谷たちは当時の北海道長官の岡田安賢に直訴を試み、苦難の末に払い下げを撤回させることに成功したそうです。

 もし関谷たちの必死の訴えがなかったなら……。あるいは現在の野幌森林公園は農地や宅地となっていたのかもしれません。
 そういう意味では、大都会札幌の近隣に広大な森林公園を今に残してくれた関谷孫左衛門さんを始めとした北越殖民社の方々に感謝しなくてはならないかもしれません。

        
        ※ 野幌森林公園内を縦横に走る遊歩道の図です。

 講師の扇谷さんが野幌森林公園の遊歩道マップを提示してくれました。公園内には10数コースの遊歩道が巡らされているそうです。私は札幌へ来てから足繁く野幌森林公園に通ったこともあり、そのほとんどのコースを体験したことが分かりました。
 現在は車生活におさらばしたこともあり、野幌森林公園は遠い存在になってしまいましたが、公共交通を利用してこれからも四季折々に訪ねてみたいと思っています。



春よ来い♪早く来い♪ 花の種蒔き講習会

2025-03-20 10:40:54 | 講演・講義・フォーラム等
 マリーゴール、インパチェンス、ペチュニアとけっして珍しい花種ではありませんでしたが、初めてお会いする参加者たちと楽しく交流しながら種蒔きを行い、それを我が家に持ち帰りました。

     

 昨日午前、「さっぽろ花と緑のネットワーク」が主催する「花の種まき講習会」カナモトホールで開催され参加しました。
 参加者は50名限定で募集されたのですが、会場へ行ってみると意外に男性の姿が多かったのが意外でした。もちろん全体の参加者は女性の方が多かったと思いますが、私が指定されたグループは、5名の内4名が男性の方でした。
 私を含め4名の男性は全て現役をリタイアされた方々で、それぞれが仕事を離れたことにより、花に癒しを求められる方が増えているのかもしれません。

    
    ※ 種まき講習会の会場の様子です。まだ講習の始まる前でした。

 種蒔きの要領は別に難しくありません。
 セルトレイを用いて、その中に用土を入れて、まずマリーゴールドとインパチェンスの小さな種を注意深く均等に撒いていきました。その後、薄く覆土し霧吹きで用土を湿らせました。
 一方、ペチュニアの方は、主催者の方で予め育てておいて苗をポット上げして、同じくセルトレイに移植する体験をしました。

 講習会は和気藹々、花への関心が深い人、浅い人、それぞれでその体験談などを交流しながら進められました。グループには、「さっぽろタウンガーデナー」といわれる方が、講習会のために予め事前講習を受けていて、その方が親切丁寧にアドバイスしてくれながら種蒔きを進めてくれたので、とてもスムーズに進行することが出来ました。

    
    ※ 種蒔きを終えた私のセルトレイです。左からインパチェンス、マリーゴールド、ペチュニアを2列ずつ種(苗)を植えました。


 実は私は昨年度まで14年間も「さっぽろタウンガーデナー」に名前だけ登録させていただいていましたが、昨年度かぎりで近代美術館前の花壇整備の活動を止めたことで、タウンガーデナーの方も辞退させていただきました。その関係もあり、主催者の方が私のことをご存じだったことから、会場内で「長い間ご苦労さまでした!」と労いの言葉をいただきました。
 
 今後は、今回の「種まき講習会」でいただいた花などをベランダで楽しみたいと思っているところです。春の到来が待ち遠しいですね~。

迷宮のごとし、短歌の世界

2025-03-19 15:43:20 | 講演・講義・フォーラム等
 私にとって、短歌の世界などは遠い世界の話に聞こえてしまう。そんな短歌のお話を聞いた昨夜は迷宮を彷徨ったかのような90分間だった…。

 昨夜(3月18日)、北海道自治労会館において、連続受講している「労文協リレー講座」の第6回目(最終講座)がありました。
 今回のテーマは「斎藤茂吉歌集『つゆもみじ』短歌写生の説について、現代の写実とは」と、テーマ自体が私にとっては???のテーマでした。
 講師は北海道歌人会の会長の任にある内田弘さんという方でした。

    
    ※ 講演をする北海道歌人会々長の内田弘さんです。

 もの知らずの私でも、「斎藤茂吉」の名は近代短歌の第一人者であることは知ってはいましたが、斎藤がどのような歌を詠っていたかについては全く知らないというレベルです。

 講座はまず現代短歌の旗手(?)「俵万智」さんを取り上げました。俵さんのデビュー作(?)の
  「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日  
は、もの知らずの私でもさすがにこの歌は知っていましたが、内田氏は俵さんのことを「短歌を革新した歌人」と評しました。彼女の短歌はこれまで文語調だった短歌の言葉遣いを、口語調に変えたことで世の多くの関心を呼び、短歌の世界ではそれまで考えられもしなかった230万部もの歌集の売り上げを誇ったそうです。
 講座で内田さん作の短歌は紹介されませんでしたが、おそらく当年80歳の内田さん自身は文語調の短歌を作歌されているものと思われますが、短歌を世に広く知らしめたということで俵さんを高く評価されていました。

 講座はここからガラっと変わり、近代短歌の変遷に移っていきました。
 つまり近代短歌が誕生したのは明治年間に入ってからで、それまで短歌は古今和歌集に代表されるように雅の世界の歌として長らく受け継がれてきたものが、正岡子規によって
これまでの形式を打ち破り「写実歌風」を主張し始めたということです。つまり「見たまま、感じたまま」を歌にし始めたのが近代短歌の始まりであると話されました。そしてその系譜は正岡子規⇒伊藤佐千夫⇒斎藤茂吉へと受け継がれていったということです。

   
   ※ この日の講演で紹介していただいた歌人の一覧です。(紹介順)

 ここで内田氏は、茂吉が主張した「写生の説」について説明しました。内田氏はプリントで次のように紹介してくれました。
 写生とは実相観入に縁って生を写す。「生を写す」の義で「生命直写」の義である。「生」とは「いのち」の義である。「写」とは「表現」の義。実相に編入して自然・自己一元の生を写す。これが短歌の写生である。として「写生は生を写す」として現実的な生命主義を目指したのです。
と。(※ 縁って=よって  義=意味)

 そして歌集「つゆじも」の中で詠われた短歌が数首紹介されました。その中で、私がかろうじてその様子を理解できる3首を挙げてみます。
  「わが家の石垣に生ふる虎耳草(ゆきのした)その葉かげより蚊は出でにけり」
  「対岸の造船所より聞こえくる鉄の響きは遠あらしのごとし」
  「わが病やうやく癒えて心に染む朝の経よむ穉(おさな)等のこゑ」

 内田氏のお話はここで終わらず、俵万智さんに続く現代歌人の短歌を紹介してくれました。現代の歌人会の代表者としては、現代の若者たちが創る短歌にも目を配らねばならないということでしょうか?
 紹介された現代歌人は「穂村弘」、「斉藤斎藤」(誤字ではありません)、「萩原慎一郎」といった方々の短歌を紹介してくれました。

 前述したように私にとっては、迷宮に迷い込んだような90分間でしたが、たまあにはこうした迷宮に迷い込むこともいいかな?と思いながら帰路に就いた私だった…。

地域運営組織って何のこと?

2025-03-18 14:30:24 | 講演・講義・フォーラム等
 我が国の地方の人口減少、高齢化は私たちが思っている以上に深刻なようです。そうした状況の中で語られる「地域運営組織」という言葉を初めて耳にしました。いったい「地域運営組織」って何のこと?

     

 昨日(3月18日)午後、北海道立道民活動センター「かでるホール」において第9回目となる「道総研オープンフォーラム」が開催され、参加してきました。
 今回のテーマは「北海道で暮らし続けるために、これからの地域運営をどう支援するか」というものでした。「地域運営を支援する…」と言ったような文言がテーマに表現されるのは初めてのことではないでしょうか?

 フォーラムの構成は次のようになっていました。
 ◆基調講演 「地域づくりと地域運営組織のあり方」 明治大教授 小田切徳美氏
 ◆成果発表 道総研の各部局の方6名が、テーマの沿った研究成果、または研究経過を発表された。
 ◆パネルディスカッション 「実践ガイドを、現場でどう役立てるか」
   4人のパネリストによるディスカッション

 となっていました。私は基調講演と成果発表には耳を傾けることが出来ましたが、パネルディスカッションは所用があったために退席し聴くことが出来ませんでした。
 その中、私が注目したのは小田切氏の基調講演でした。小田切氏は、「我が国の人口減少、高齢化は地方へ行くほど推計を上回るスピードで進展している」とし、特にその傾向が西日本において顕著であるとも指摘されました。そうした地域では、住民の足、食料の確保、等々、いわゆる地域のインフラを護ることが課題となっているそうです。そこで今、総務省が提唱している住民主体による「地域運営」の組織づくりを進めることが喫緊の課題となっていると指摘しました。

      
      ※ 講演をされる小田切明治大教授です。

 その「地域運営組織」とは、小田切氏が説明されたことがネット上でも要約されたものが見られたのでそれを転写すると…、
 「地域運営組織とは、地域の暮らしを守るために、地域住民が中心となって 
 形成され、地域課題の解決に向けた取り組みを持続的に実践する組織です。
 これらの組織は、協議機能と実行機能を持つ一体型や、協議機能を持つ組織
 から実行機能を切り離した分離型など、地域の実情に応じた様々な形態があ
 ります。地域運営組織は、人口減少や高齢化が進む地域においても、必要な
 生活サービス機能を維持し、地域 住民自らが主体的に地域の将来プランを
 策定することを目指しています。」
となっています。

 この説明を読むかぎり、これまでこうした住民のためのインフラ整備や住民の命を守ることは地方自治体の役割だったのですが、今や自治体も職員減の状況の中で十分にその役割を果たすことが難しくなっている状況から「自分たちのことは自分たちで…」ということを国から求められていることなのでは?と解釈しなくてはならないす状況を迎えていることなのか、理解せざるを得ませんでした。

 小田切氏は面白い言葉を使われました。それは「天気と人口、農業は西から変わる」と述べられました。そしてまた、こうした地域課題解決に向けての動きも西日本各地ではいち早く動き始めているとのことでした。
 2023年度現在で、日本各地、特に西日本を中心にしてこうした地域運営組織がすでに7,710組織(それは全国の50.2%の市町村にあたります)が起ち上がっているそうです。一方、北海道はというと、疎の組織率はまだ20.7%に止まっているとのことでした。(組織数については不明)

 その後、小田切氏は既存の地域運営組織の具体例をいくつか紹介してくれましたが、そのことは割愛させていただきますが、その特徴はこれまでの住民活動が助成金などをもとに動いていたものが、この地域運営組織では「利益」も生み出そうとする組織だということなのです。つまり自立した組織を求めているということが大きな特徴のようです。
 
 う~ん。人口減少という問題は、これまで「困った時には行政頼み」的な気持ちが私たちの中にはありましたが、これからはそうした意識を変えていかねばならないということなのでしょうかねぇ~。
 それにしても、北海道総合研究機構(略称:道総研)は、これまでは地域が抱える科学的な諸問題を解決するための研究機関だったものが、地域そのものを維持するために支援する機関へと変貌を迫られているということなのでしょうか???
 時代の変遷を肌で感じさせられた今回のフォーラムでした…。

札幌の昭和史の「もし」を空想する

2025-03-16 15:56:33 | 講演・講義・フォーラム等
 「もしある人が長生きしていれば…」、「もし1972年の札幌オリンピックが開催されなかったら…」、「もしあの山の風が強かったら…」そうしたことがもし現実と違っていたとしていたら、札幌の現在は大きく変わっていたかもしれない?そんな興味深いお話を聴いた。

      
 昨日午後、札幌市公文書館において「公文書館のさっぽろ閑話」が開催され参加しました。今回のテーマは「札幌昭和史のたられば」という演題でした。
 私はこの日、あるコンサートを聴く予定にしていてチケットも入手していました。しかし、この講座があると知って俄然この講座に興味を抱き、コンサートをキャンセルしてこの講座の受講を決めました。
 私と同じ思いを抱いた人は多かったようです。私は開場時間の20分前(つまり講座開始時間の50分前)に会場に着いたのですが、すでに入場を待つ人たちの長蛇の列ができていました。結局、入場できずに受講を諦めた方がたくさんいたようです。

 さて、講座の方ですが講師は高井俊哉氏という管理係長職の方でした。(高井氏は元の同公文書館々長をされていらしたのですが、管理職定年となり、その後同じ公文書館で管理係長として本年3月に札幌市役所を退職される方と伺いました)
 ですから高井氏は専門職として昭和史を研究したわけではなく、事務方の職員として公文書館に所蔵されている文書類を繰っていて興味ある事象と出会ったことが今回のテーマとなったと強調されました。

       
       ※ 講師をされた元札幌市公文書館長の高井俊哉氏です。

 最初の話題は「もしある人が長生きしていれば…」ですが、そのある人とは、東急電鉄の会長に就任していた五島慶太氏です。当時の東急電鉄は強引な手法も手伝い急激に業績を伸ばし、北海道にもその手を伸ばし始めていました。
 五島氏はまず当時の定山渓鉄道を傘下に収め、札幌と江別を結ぶ「札幌急行」という路線を新設することを計画します。(1955年)
 当時のJR(現在も同じですが)は札幌⇔江別間を大きく東に迂回するルートでした。この間を五島氏は最短距離で通すことで時間短縮を目論みました。そして、江別まで路線が延びていた夕張鉄道と結んで、当時炭鉱で潤っていた夕張の住民を夕張鉄道⇔札幌急行⇔定山渓鉄道と結び、夕張の炭鉱関係者を定山渓温泉に導こうと計画したようです。
 しかし、志半ばで五島慶太氏は1959年逝去してしまいます。すると、もともと経営的には社内において疑問視する声があったこともあり、慶太氏の死去によって計画は止み沙汰となってしまったという経過です。
 そのことが公文書館所蔵の「東急100年史」や「えべつ昭和史」などから伺えると高石氏はお話されました。
 なお、高井氏は当時の東急は単に鉄道を敷設するだけではなく、鉄道周辺の街づくりにも積極的に関与していたことから、もし「札幌急行」が実現していたとしたら、沿線の風景が今とは大きく変わっていたかもしれない、と話されました。それもあり得たかもしれない話ですね。

 続いて「もし1972年の札幌オリンピックが開催されなかったら…」という話題ですが、こちらは札幌市内の交通体系、つまり「札幌地下鉄」誕生の物語ともいえます。
 1960年代に入り膨張する札幌の市内交通はバスと電車でしたが、それら交通機関の込み具合は限界に近づいていました。市では当時、市内交通機関としてモノレール構想や、高架鉄道構想などが議論されたそうですが決めてに欠けていたということです。といって、地下鉄を敷設するには当時の人口50万人余ではとても敷設費用を負担することは困難で、人口的にもその規模ではなかったそうです。当時地下鉄が営業している都市は軒並み100万人余の人口を抱える大都市のみでした。
 しかし、そこに降って涌いたのが札幌オリンピックの招致が実現したことでした。
 札幌オリンピック招致が決定し、地下鉄の敷設が決まった時には札幌の人口は100万人を突破していたということですから、関係部局の了承も得やすかったものと想像されます。
 地下鉄のみならず、札幌オリンピックの実現は札幌の街を大きく変える契機となったことは皆さまもよくご存じのことと思います。また、高井氏のお話では、札幌の地下鉄がゴムタイヤ方式を採用したことについてのお話もありましたか、そのことはここでは割愛させていただきます。
 公文書館では、このことに関して「札幌交通事業小史」、「私のなかの歴史3」などの書籍を所蔵しているとのことでした。

        
※ 現在の大倉山ジャンプ競技場です、今や札幌観光の目玉です。別のところが競技場となっていたら、そちらが観光名所になっていたのでしょうか?

 3番目のエピソード「もしあの山の風が強かったら…」ですが、私は「あの山とはどの山なのだろうか?」と興味津々でした。
 その山とはジャンプ競技場が設置されている「大倉山」のことでした。
 この話題もオリンピック関連となるのですが、札幌オリンピック招致が決定し、ジャンプ競技場をどこにしようか、という問題になったそうです。当然そこに「大倉山ジャンプ競技場」は存在していたのですが、大倉山は風の吹き方が不規則でオリンピックの競技には向いていないという声があったそうです。
 しかし、オリンピック関係者からは「大丈夫」とお墨付きをいただき、既存のジャンプ台を大改修して、大倉山ジャンプ競技場で90m級を実施し、近くの宮の森ジャンプ競技場で70m級を実施することを決定したそうです。
 あの札幌オリンピックでは宮の森の70m級で笠谷選手を初めてとして金・銀・銅を独占するという快挙を演じ、90m級も多いに期待されました。一本目に笠谷選手は第2位に付けて期待されたのですが、2本目は大倉山の横風(?)に災いされ、第5位と失速してしまいました。後年、笠谷選手はその風のことを決して口にしなかったそうです。
 このエピソードに関連する書籍は「第11回オリンピック冬季大会公式報告書」、「昭和37年事務概況報告書」として公文書館が所蔵しているそうです。

 「たられば」ということですから、これはもう仮の話、空想の話ですから、どうにでも話を膨らませることが出来ます。私はそうしたことをどこかで期待していたところがあったようです。
 しかし、高井氏はあくまで文献・資料をもとに関係者間で語られたり、資料として残されたものの範囲内でお話されたということでした。
 私が期待するような「たられば」は、あるいは噺家とか、エンターテイナーなどが面白可笑しく話を膨らませることによって、あるいは市民から受け入れられる娯楽の一つになるかもしれない、などという思いに駆られてしまいました……。

日本の農業が危ない!? Part Ⅱ

2025-03-09 15:08:00 | 講演・講義・フォーラム等
 一月末にお聞きした東京大学大学院特任教授の鈴木宣弘氏のお話を再び聴いた。鈴木氏のお話はけっしてプロパガンダではなく、日本の農業、そして農業政策の事実を紹介してくれていると私は信じているのだが…。

 一月末にお聴きした鈴木氏のお話は非常に刺激的でした。
 その鈴木氏が再び札幌で講演すると知り、「もう一度氏の話を聴いてみたい」と思い、昨日(3月8日)午後、会場の北海道クリスチャンセンターに向かいました。
 開場前にクリスチャンセンターに着いたのですが、すでに長蛇の列ができていて、鈴木氏の高名がかなり浸透していることが窺えました。

 ところで会場に着いて、私は初めて主催が政治政党の「れいわ新選組」だということを知りました。チェック力の甘さです。それでこの催しは、「れいわ新選組」が「ごはん会議」と題して全国的に開催する一環であることも、この時知りました。

     
     ※ 北海道クリスチャンセンターで講演をする鈴木宣弘氏です。

 さて、鈴木氏のお話は基本的に1月末にお聴きした時と変わりはありませんでした。用意されていたパワーポイントも凡そは1月の時のようだったようです。演題は「残された時間は多くない~農と食といのちを守るために~」と題されての講演でした。
 鈴木氏の主張は、今回の講演に際して配布された「鈴木宣弘氏のメッセージ」に端的に表されていますので、それを紹介します。

 日本の食糧自給率は種や肥料の自給率の低さも考慮すると、38%どころか最悪10%あるかないか。海外からの物流が停止したら世界で最も餓死者が出るのが日本との試算もある。国際情勢は、お金を出せばいつでも食料が輸入できる時代の終わりを告げている。かたや、日本の農家の平均年齢は68.7歳。あと10年で日本の農業・農村の多くが崩壊しかねない。しかも農家は生産コスト高による赤字に苦しみ、廃業が加速している。これでは不測の事態に子ども達の命は守れない。私たちに残された時間は多くない。
 (中略)
 私達が子ども達の未来を守るには、消費者の行動が重要である。安いものにはわけがある。リスクのある輸入品ではなく、今こそ身近な地元の安全・安心な農産物を支えよう。
 地域の種を守り、生産から消費まで「運命共同体」として地域循環的に農と食を支える「ローカル自給圏」の構築を全国各地で急がねばならない。一つの核は学校給食の安全・安心な地場産農産物の公共調達を進めることである。農家と市民が一体化して耕筰放棄地を皆で分担して耕そう。
 それと同時に、国政では、①食料安全保障のベースになる農地10haあたりの基礎支払いを行い、それを、②コスト上昇や価格下落による経営の悪化を是正する支払いで補完し、さらに、③増産したコメや乳製品の政府買い上げを行い、備蓄積み况子区内外の援助に回す、といった政策実現に向けて国民の総力を結集するときである。

        
         ※ 数多い鈴木氏の著書の中の近著です。

 鈴木氏のお話を2度聴いて、鈴木氏の日本の食糧に対する危機感が相当に強いものであることを実感しました。
 鈴木氏の論には「根拠が希薄である」とか「データの読み方に誤りがある」という反論もあるようですが、少なくとも鈴木氏が前半で述べている日本の農業の現状に対する指摘には納得できるところが多いように感じます。
 今や我が国の食糧の大半は外国産に頼っている現状だということが良く分かます。その外国産の食糧、またはその種、肥料までも大半が外国産だという現状に対して鈴木氏が危機感を露にすることももっともだと思われます。

 ‟日本の農業の危機” このことは単に農業者だけの問題ではなく、消費者も含めて日本全体の食糧危機でもあるという鈴木氏の指摘を重く受け止め考えねばならないと思いました。 

介護施設の現役介護職員に聴く

2025-03-08 12:15:56 | 講演・講義・フォーラム等
 介護施設の介護職員はどのような業務を担当し、どのような思いで勤務しているのか?また、仕事に対するやりがいや大変さはどのようなことなのか?高齢者介護施設で7年間勤務している講師から本音を伺いたいと思ったのだが…。

 昨日(3月7日) 午後、さっぽろ自由学校「遊」において、講座「老いと向き合う」の第6回講座があり、テーマが「高齢者施設に6年間勤務して」と題する講座が開講されると知って、この回だけのスポット参加をすることにしました。
 というのも、これまでさまざまなタイプの介護施設を見学したり、施設の代表者のような方からお話を伺ったことはありましたが、現場で介護にあたっている方のお話を直接に聴いたことがなかったため興味を抱いたからです。

   

  講師が務める会社は、同一敷地内で「サービス付き高齢者向け住宅(サ・高・住)」と「小規模多機能型居宅介護」を運営していますが、講師の方はそのうちの「小規模多機能型居宅介護」に勤務する30代(と思われる)の若い方でした。
 
 「小規模多機能型居宅介護」とは、「通い」、「泊まり」、「訪問」の3つを提供している地域密着方のサービスで、利用者の家族の状況・要望によって柔軟にサービスを提供する施設である。とパンフレットでは謳っています。
 その施設で講師のA氏は、管理者やケアマネージャーなどの指導を受けながら、入所者に対する実際の介護を担当する職を6年間勤めているとのことでした。

   

 ところがA氏は人前で講義することに慣れていなく、自信がなかったからだろうか?自然に用意したペーパーを読むことに終始されました。それもご自分で用意したものではなく、施設が用意した「小規模多機能型居宅介護とは」とか「小規模多機能型居宅介護でのレクの仕事内容」
、あるいは上部機関かの通達文書、「コロナ陽性者感染対策マニュアル」といった文書を読み上げるだけだったのです。

 残念ながら、私が期待していた介護現場で入所者に実際に接し、介護をされている方々の生の声を聴きたいと思いは叶いませんでした。
 それでも介護職員が入所者に対し、食事・入浴・排泄などの補助、介助、あるいは夜間帯の見守り、体位変換など、絶えず入所者の方々のお世話、安否確認などで、気持ちの休まる間がないほど過酷な現場であることはよく理解ができました。

   

 我が国は今後ますます高齢化が進展し、介護を必要とする高齢者の増加が見込まれています。私もその一人かもしれません。そうするとA氏のような介護職の方々の必要数が増すことが当然必要となってきます。
 今回お聴きしたように過酷な介護現場を担当される方々がはたして必要数を確保できるのか?とても心配となってくるなぁ、との思いを拭えませんでした。

講座 札幌の映画と演劇

2025-03-04 16:02:41 | 講演・講義・フォーラム等
 札幌市内には映画館が最盛期(1980年代末)には20館もあったという。さらには同じ1980年代、中央の影響を受け小劇場によるアングラ演劇も盛んに上演されたそうだ。その象徴が「駅裏8号倉庫」だったという。

     
 少し時間を置いてしまいましたが、2月27日(木)午後、北海道立文学館「札幌の映画と演劇 展示解説講座」なるものが開講され、受講してきました。
 北海道立文学館では現在、「札幌の映画と演劇~80年代を中心に~」という展示会が開催されているのですが、その展示解説を同館の浦島七那学芸員が解説するという講座でした。

 札幌の映画館に関する推移は、1952(昭和52)年にGHQの映画検閲が廃止されたことで映画産業が勢いを増したことに伴い、札幌においても映画館が急激にその数を増しました。多い時では1955(昭和30)年には一年間で10館の映画館が開館したそうです。
     

 しかし、映画のブームはテレビの登場によって長くは続かなかったようで、今回の講座で焦点をあてた1980年代がそのピークだったとのことです。
 ただ、大スクリーンでの映画が斜陽となる中、インディーズ系やアート系の作品を上映するミニシアターが一種のブームとなっていったそうです。
 札幌市内20館の中の一つ須貝ビル(最近まで存続していました)には、大スクリーンの他に10館ものミニシアターが集中していた時代もあったそうです。
 そうした流れを引き継いでいるのが、現在の「シアターキノ」のようです。事実、館主である中島洋氏は、その頃からミニシアターに携わってきた方だということです。
   

 現在の札幌市内の映画館はシアターキノを含めても全5館ですから、昔日の感があります。もっともシアターキノ以外はシネコン方式ですから、一概に比較はできませんが…。

 一方で、演劇シーンも1980年代は活発に活動を展開した時代だったようです。中央において通称「アングラ演劇」という実験的で前衛的な劇団が続々と誕生したそうです。
 「駅裏8号倉庫」、「スペース・アルテノ」、「札幌本多小劇場」、「琴似日食倉庫コンカリーニョ」、江別の「ドラマシアター・ども」等々…。(「琴似コンカリーニョ」、「ドラマシアター・ども」は、現在もその名を継いで現存していますね)
 その象徴的な場所となったのが「駅裏8号倉庫」だと言われています。

 「駅裏8号倉庫」は、劇団53荘が公演場所兼稽古場を探していたところ、拓殖倉庫所有の札幌軟石造り、45坪の倉庫が見つかり、そこを「駅裏8号倉庫」と命名して1981(昭和56)年にオープンしたそうです。しかし、その倉庫は翌年鉄道の高架化工事で撤去が決まっていたため、わずか一年で閉館の憂き目に遭ったそうです。しかし、メンバーは諦めずに近くにあった倉庫を借り「第2次駅裏8号倉庫」を1983年にオープンし、1986年まで活動したということです。
 「駅裏8号倉庫」は、演劇に限らず、映画上映、音楽ライブ、さらには詩の朗読、フリーマーケット、政治討論会などジャンルを超えて幅広い用途で使用され、80年代におけるサブカルチャーの中心的存在だったそうです。

 こうして聴いてみると、札幌の1980年代というのは、ミニシアターや小劇場が乱立し、混然一体となった状況だったのかもしれません。いわば資本のある大手ではない、誰もが手の届くところに映画や演劇というものがあって、そこに関わろうとする人たちのエネルギーに満ち満ちていた時代だったようです。
 
 ミニシアターの方は残念ながら「シアターキノ」が存在するだけですが、演劇の方は現在も「札幌演劇シーズン」という形で、その空気が脈々と受け継がれているようにも思います。
 いや~、札幌にも熱い時代があったのですねぇ~。
 なお、北海道立文学館で開催中の、「札幌の映画と演劇~80年代を中心に~」という展示会は3月23日まで常設展示室で展示されているそうです。興味のある方はぜひどうぞ!