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田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

移住者たちが創った北海道の冠婚葬祭

2025-07-27 14:31:04 | 講演・講義・フォーラム等
 北海道の冠婚葬祭、あるいは年中行事は明治の開拓期に本州各地から移殖した人たちによって、さまざまな形で引き継がれ今に至っているという。今に伝わる冠婚葬祭や年中行事についての源流を調べている研究者からお話を聞いた。

 一昨日(7月25日)午後、連続受講している札幌市民カレッジ「先日たちのさっぽろ物語」の第三講があり受講しました。
第三講目のテーマは「移住者の文化のその後」~年中行事と冠婚葬祭を聞き取る~と題して、北海道博物館学芸員の尾曲香織氏からお話を聞きました。

       

 尾曲氏はまず、ご自分の研究分野である「民俗学」について触れました。
 氏によると「民俗学」とは、人のくらしを見つめるもので、「俗」という言葉に象徴されるように、合理的でない、身近なあれこれ、権威や公式的な制度からは距離があるものであり、地域社会固有の文化を調査研究する学問であるとされました。

 そして、北海道における文化の形成の特徴について話を進めた。
 前述したように北海道は明治期に入り、本州各地からの移住者(移殖者)が相次ぎました。その中でも、青森、秋田、新潟、富山、石川などからの移住者が多く、特に青森、新潟などは5万戸近い移住者に上ったそうです。それらの人たちはもともと住んでいた地域の文化を携えて移住してきました。

 その代表例としてお正月にいただく「お雑煮」の違いです。
 尾曲氏が紹介してくれたものを拝見すると、出身県によって「雑煮」は千差万別で、使用する味噌も違えば、具材もまちまちです。
 しかし、今はどうでしょうか?私の家でもお正月には妻がお雑煮を作ってくれますが、そのルーツがどこなのか判然としません。つまり、移住から何世代も経た現在では、純粋に出身県のお雑煮の形が継承されている方が珍しいことなのかもしれません。

    
    ※ 全刻各地のさまざまなお雑煮です。

 上記の「お雑煮」の例にみられるように、移住元の文化が引き継がれている例もあるかもしれませんが、多くはさまざまな要因から変化し続けているのが現状のようです。

 その例として、尾曲氏は「お葬式」の変化を取り上げました。
 新十津川町では、移住元であった奈良県十津川村では土葬が一般的だったため、移住当初は死者を土葬していたそうですが、衛生問題などがあり火葬に変化していった例を挙げられました。
 また、私も初めて耳にした葬儀の後に行われる「マナイタ直シ」という風習です。この風習は、かつて葬儀は同じ集落内の数軒から数十軒の組や町内会などで相互に手伝っていたいました。その際にお手伝いいただいた方々を葬儀の後に労う会が催されることがあったそうです。その会のことを「マナイタ直シ」と称したそうです。
 現在では、業者の手による葬儀が一般的となり、そうした風習も過去のものとなってしまったようです。

 さらには「結婚式」の姿も当時とは大きく様変わりしました。
 明治期からしばらくは、会場は結婚する男性の家が会場となって、近隣の女性たちによる手伝い、あるいは若者たちによるいたずらなど、近所の人たちが関与する形だったそうで、婚家の負担も相当だったようです。
 ところが、大正時代以降、凶作や世界恐慌などの影響から、苦しくなった国民生活を改善するためのさまざまな取組み(ex.「民力涵養運動」,「農山漁村経済更生運動」,「生活改善運動」など)によりその姿を大きく変えてきました。
 その中から生まれてきたのが、北海道独特の「会費制結婚式」といえるでしょう。

    
    ※ 以前は、写真のように婚家で結婚式・披露宴が行われていました。

 ここに挙げた例だけではなく、私たちの中で行われている年中行事や冠婚葬祭の姿は、さまざまな要因によって大きく変化を遂げて、今の姿になったようです。

 だからこそ、現在の姿のルーツである元々の姿を記録として止めることが重要であると尾曲氏は力説したものと受け止めました。尾曲氏たち「民俗学」研究者の活動を応援したいと思います。

古書にみる ‟蛍”の見方

2025-07-24 14:48:46 | 講演・講義・フォーラム等
 ‟蛍”が発する光は、その昔は堕天使とか、サタンのことと考えられ忌み嫌われていたそうだ。ところが、平安時代に入り「源氏物語」や「枕草子」で描かれたことによって、人々は ‟蛍”をポジティブに受け止められるようになったそうである。

 昨日午前、定期的に受講している札幌市社会福祉総合センター主催の「私の生き方セミナー」の7月講座が開講され受講しました。
今回のテーマと講師は、「源氏物語を読む~平安時代に触れる旅~」と題して、國學院大學北海道短期大学部国分学科渡辺開紀准教授が講義を担当されました。

     


 テーマがテーマでしたから、私はやや緊張気味に講座開始を待ったのですが…。
 ところが、お話の内容はテーマからはかなりかけ離れた内容のものでした。
私が想像するには、当初は渡辺氏の専門とする源氏物語について講義を予定していたと思うのですが、講座担当者と打ち合わせをする中で、私たち受講者のレベルを勘案した時に、あまりにも専門的過ぎると判断されて、講義の内容を大幅に変更されたのでは?と私は想像しました。

 お話は、前段に「源氏物語」についての説明はサーッと通り過ぎ、源氏物語の中でも触れている ‟蛍”の光のことに焦点は絞られました。
まず最初に‟蛍”の光が登場するのは、なんと「日本書紀」の中に登場するとのことです。その部分は
 「然れども彼の地に、多(さは)に蛍火なす光る神と、蠅声(さばへ)なす邪心(あしき)と有り」
と出ているそうです。ここでいう‟蛍”の光は堕天使とか、サタンのことを指すとのことで、当時は‟蛍”の光が忌み嫌われていたらしいと渡辺氏は指摘しました。

 時代は下って平安時代に入ると、「源氏物語」とか、「枕草子」が編まれました。
「源氏物語」の中では次のように‟蛍”の光が描かれています。
「蛍を薄きかたに、この夕つ方いと多くつつみおきて、光をつつみ隠したまへりけるを、さりげなく、とかくひきつくろうやうにて。にはかにかく掲焉(けちえん)に光れるに、あさましくて、扇をさし隠したまへるかたはら目いとおかしげなり」
 ※ 掲焉とは、はっきりきわだっている様を表現する言葉だそうです。(拙者註)

 終末の「おかしげなり」は、「趣きがある」、「素晴らしい」という意味があるそうですから、‟蛍”の光をポジティブに捉えていることが分かります。

     


 一方、「枕草子」では、
「夏は夜。月のころはさらなり、やみもなほ蛍の多くとびちがひたる。また、ただ一つ二つなどほのかにうちひかりて行くもをかし」
やはり ‟蛍”の光をポジティブに捉えています。

 このように我が国の人々が ‟蛍”の光をポジティブに捉えるようになったのは、実は隣国中国(当時は唐の時代?)からもたらされた「晋書(車胤伝)」によってだと伝えられています。「晋書」の中では次のように表現されています。
「胤、挙動にして倦まず、博学多通なり。家貧しく常には油を得ず。夏月になれば則ち練嚢に数十の蛍火を盛り、以って書を照らし、夜を以って日に継ぐ」
※ 練嚢とは、うす絹の袋のことだそうです。(拙者註)
 この文章は説明の要がないほど、‟蛍”の光の効用を説いています。


 我が国では、この「晋書」の言を借り卒業式などで歌う「蛍の光」という歌があまりにも有名です。あるいは、「蛍雪の功」などという故事成語もあります。

 と期待した講義内容とは異なりましたが、お話しいただいた内容もそれなりに興味深いお話であり、蛍とは縁遠い(私は蛍の光を見たことがありません)私ですが、あの淡い光が放つ蛍の光は 人々を魅了するに十分な魅力あるものということがよく理解できました。

   
 
 なお、渡辺氏情報として、北海道においては沼田町の「ほたる里」が有名だそうですが、その光を見られるのは7月中旬の僅かに期間(3日くらい)で今年はすでにその期間を終えてしまったそうです。

インクルーシブ社会とは?

2025-07-20 19:33:50 | 講演・講義・フォーラム等
 横文字が横文字が氾濫する現代である。私もご多分に漏れず、かなり無神経に多用しているのだが、バリアフリー、ユニバーサル、インクルーシブとなると何がどうなのか判然としなくなっている。そこで改めて研究者からお話をお聴きした。

 7月18日(金)夜、北星学園大学公開講座を受講しました。
 講座は、「すべての人に優しいインクルーシブ社会を目指して ~ まちづくりや交通・移動、防災・減災の視点から考える~」と題して、同大学の鈴木克典教授の講義を伺いました。

    
    ※ 講義をされた鈴木克典教授です。

 結論を先に紹介すると…、
 「インクルーシブ社会」とは、「すべての人が平等に扱われ、様々な背景を持つ人々が参加できる環境を整えた社会」を指すと鈴木教授は定義されました。
 つまり「バリアフリー」とは、身体に障害がある人に優しい環境を作ること。
 「ユニバーサル」とは、「ユニバーサルデザイン」という言葉として使われることが多いのですが、この意味するところは、すべての人に利用できるようなデザインの在り方を目指すこと。
 対して「インクルーシブ社会」は、それら全てを抱合した考え方ということである、とされました。(下図参照)

    
  ※ 本投稿で使用した資料は、鈴木教授が提示していただいたものを使用させていただきました。

 鈴木教授は強調します。
 「すべての人」とは、障害があろうが、なかろうが、という基準ではなく、ともかくちょっとした困りごとにに対しても優しい社会を指すということなのです。
 例えばとして「すべての人」ということを考えたときね次のような場合も当てはまるのだと言います。
 ◇腰や膝、肩などが痛い
 ◇靴擦れしている(歩きにくい)
 ◇疲れてる
 ◇小さい子どもを連れている
 ◇重い荷物、大きな荷物を持っている
 ◇外国人観光(インバウンド)者
 ◇旅行者など地元民でない人  等々…。
 こうした人たちに対しても配慮が行き届いた社会を創っていくことが「インクルーシブ社会」だと言います。

 ここで鈴木氏は、「ピクトグラム」を代表的例として挙げました。
 「ピクトグラム」とは、どんな人でもわかりやすく、一目で理解して正しく行動することができるようデザイン化された図案で、例えば非常口の場所を表すデザイン、あるいは車いす用の場所を表すデザインなどが有名です。
 つまり誰もが、その意味を理解しやすく、利用しやすいようにデザイン化された表示(ユニバーサル・デザイン)が街中のいたるところにあって、「すべての人」にとって安心して、楽しめる社会、それが「インクルーシブ社会」なのであると鈴木氏は強調されました。

     

 確かに、街中に出ると以前と比べるといろいろと様変わりしていることに気付きます。
 例えば本日も、街中のある建物の階段を利用したところ、階段の壁のところに手すりが備えられていたのですが、それが二段になって手すりが備わっているのです。これは明らかに、子どもなど身長の低い人にも配慮した造りだということが分かりました。

 ハード面だけでなく、ソフト面においても「すべての人」に優しい社会(インクルーシブ社会)へ向かっていく動きが加速することを願いたいと思います。
 しかし、講義を受けながら、一方でこうした社会の動きに水を差すような発言が最近目に付くようにもなってきたようにも思われることが気になりました。私たちはそうした発言に惑わされることなく、「すべての人」に優しい社会を目指したいものです。

 それにても「インクルーシブ社会」を適切に言い表す日本語はないのでしようかねぇ??



レッドイーグルス北海道の経営戦略

2025-07-16 18:35:45 | 講演・講義・フォーラム等
 レッドイーグルス北海道とは?以前は王子製紙が母体の名門アイスホッケーチームでした。しかし、現在はクラブチームとして独立してチーム運営をしなければならない立場となりました。そのために奮闘するチームのチーフマネージャーである田中氏からその苦心と奮闘ぶりを伺いました。

   

 昨日午後、北海道新聞本社DO-BOX EASTにおいて、「スポーツを語ろう~北海道スポーツ応援ネットワーク勉強会」なるものが開催されたので参加しました。
 今回は、アイスホッケーのレッドイーグルス北海道のチーフマネージャーを務めるお二人の方を招いて勉強会(?)でした。

 王子製紙のアイスホッケーというと、国内社会人チームとして日本リーグ優勝13回、アジアリーグ優勝2回、全日本選手権優勝37回、ジャパンカップ優勝3回を誇り、社会人チームとしては押しも押されぬ名門チームでした。
 しかし、企業スポーツが衰退する中、王子製紙もそれに抗しきれずに2021年にはクラブチーム化することになって、企業の全面的な応援が難しくなる中、さまざまな創意工夫をする中でクラブチームとしての存続を図る奮闘が関係者の間で続けられているようです。 
 
 今回の勉強会のテーマは「レッドイーグルスの挑戦 歴史と伝統のある地域でのプロアイスホッケーチームづくり」と題して、チームの経営を支える田中強氏と、チームの戦力強化を支える荻野順二氏のお二人からお話を伺いました。

 まず田中氏は、社会人チームと、クラブチームの違いを①組織、②目的、③選手・監督のミッション、④収入源、⑤課題の五つの面から分析して提示しました。
 社会人チームは、①組織~法人の一部門、②目的~社員の意欲向上と法人の広告宣伝、③選手・監督のミッション~勝利、④収入源~本社からの支援、⑤課題~本社からの資金援助が無くなった時点でほぼ解散。
 対してクラブチームは、①組織~株式会社などの専門特化型法人、②目的~地域の皆さまと共に、地域の課題を解決し、活力ある社会づくりに貢献する。③選手・監督のミッション~感動、④収入源~スポンサー・入場料・グッズ販売などの事業収入、⑤課題~経営をする。継続する。
 ずいぶん大きな違いがありますが、こうした分析の上に立って経営戦略を立てたとのことです。

    
    ※ クラブチーム運営の工夫を語る田中強氏です。

 クラブチームとなってからは当然のように、王子製紙社員が応援で試合会場に足を運ぶことも少なくなり、当初は集客面で大苦戦をしたとのことですが、田中氏を中心としてさまざまな工夫を図ってきた結果、集客も徐々に回復途上にあるということでした。
 そして今シーズンはクラブチーム化5年目にあたり、「戦略的来場者促進策」をさらに推し進めると言います。そのキーワードは「ホームゲームのエンターテイメント化」だと強調しました。
 なぜエンターテイメント化かというと、具体的には①20~30代女性と②お子様とその家族、を集客のターゲットとするということだそうです。この結果、女性の入場者が倍増するという結果を導き出したということです。
 また、幼稚園や保育園との繋がりを大切にし、選手と子どもたちの距離を近くすることで、子どもたちの家族も巻き込んだ集客が期待できるようになったと話されました。

 プロスポーツのエンターテイメント化は、バスケットボールをはじめその傾向があらゆるスポーツに波及しているように思われます。プロ野球なども例外ではありません。特にドーム球場などは光と音の演出が派手に取り入れられているようにも思えます。
 今や若い世代にアピールするには、こうした手法が欠かせない手段なのかもしれません。
 
 田中氏はさらに言います。
 「試合結果(勝敗)に左右されない、エンターテイメント空間を創出する」ことが若い世代を繋ぎとめるためには 必須であると…。
 そのためには、選手をアイドル化することも一つの手段であるとして、写真集やグッズ販売にも注力しているとのことです。

 こうした経営的戦略により、チームの経営状態が良くなり、選手強化にも繋がれば何よりだと思います。
 スポーツを観戦することが、地域の人たちにとって良い意味での娯楽となり、それが地域の活性化に結び付くとしたら、レッドイーグルス北海道というチームの存在目的にも適うことであるので、応援したい気持ちです。

 勉強会の後半は、選手経験者であり、昨年までチームの監督だった荻野順二氏が「アイスホッケーの魅力とは?」と題して、選手目線、監督目線からアイスホッケーの魅力について語っていただきましたが、 こちらに関してのレポは割愛させていただきます。

 私も過去には何度か、社会人のアイスホッケーを観戦したことがありますが、とにかくスピードが速い!といった印象があります。
 今シーズンはレッドイーグルスの試合が札幌でも開催されると聞いていますので、一度くらいは観戦して田中氏たちの創意工夫を実感してみたいと思っています。

北海道を拓いた屯田兵の悲哀

2025-07-13 19:34:24 | 講演・講義・フォーラム等
 戊辰戦争に敗れた東北諸藩の士族は禄を失い困窮を極めていたが、明治新政府(北海道開拓使)は、それら士族の救済を目的として屯田兵制度を創り、北海道に移住させ、北方警備と北海道開拓を託したのだが…。

 先週から受講している札幌市生涯学習センター講座(ちえりあ講座)「先人たちのさっぽろ物語~札幌の『今』をつくった ひとの歴史」の第二講が昨日午後にあり受講しました。
 第二講のテーマは、「琴似屯田兵村の歴史~屯田兵の暮らしと労苦を伝える~」と題して、琴似屯田子孫会の事務局長である永峰貴氏が務めました。

    
    ※ 講師を務めた屯田兵三世の永峰貴氏です。

 永峰氏は屯田兵三世で、琴似屯田兵として入植した祖父に与えられた土地に現在も住まわれている数少ないお一人で、地域FM放送局「三角山放送」において、屯田兵の業績を伝える「屯田兵グラフティ」のパーソナリティを長らく務められている方でもあります。
 そうした永峰氏と、退職組織において一緒に仕事をさせていただいたり、私が代表を務める「めだかの学校」において度々講師をお願いしたりして、親しくさせていただいている方です。

     
  ※ 永峰氏の祖父・永峰忠四郎氏が写った貴重な写真です。(永峰氏は前列右端の方)
  
 永峰氏のお話は、屯田兵に関して多岐にわたりましたが、ここではテーマにも掲げられた屯田兵の ‟労苦” に絞ってレポしてみたいと思います。
 屯田兵制度は、開拓使次官だった黒田清隆の建議によって創設されたとなっています。それによりますと、屯田兵制度創設の目的は、
 ① ロシアの南下政策から北海道を守る
 ② 未開の大地の開拓
 ③ 禄を失った士族の救済
を目的としたということですが、③の士族の救済という目的の裏には、「旧幕府側の武士を遠隔地に追いやる」という隠れた目的もあったのだと永峰氏は指摘しました。

 未開の北海道を開拓するということは、機械力もほとんどない明治初期において、大木が生い茂る原野を切り拓くことですから大変な困難を伴うことでした。
 当時の屯田兵の日課は次のようだったそうです。
 □ 4月1日~9月30日
   起  床   4:00
   就  業   6:00~12:00
   食  事  12:00~13:00
   就  業  13:00~18:00  ※ 就業時間 11時間
 □10月1日~3月31日
   起  床   5:00
   就  業   7:00~12:00
   食  事  12:00~13:00
   就  業  13:00~17:00  ※ 就業時間  9時間 

 永峰氏は言います。「週休2日に慣れてしまった私たちには、想像を絶する重労働」だったと…。
 ですから、屯田兵にとって過酷な肉体労働がその ‟労苦” の第一番だったことが想像されます。加えて、それまで体験したことのない北海道の冬の寒さが屯田兵や家族を苦しめたことも容易に想像できます。

    
              ※ 写真は琴似市街地に保存展示されている琴似屯田兵村兵屋跡の建物です。

 ところが彼らの ‟労苦” はそれ以外のところにあったのです。
 まずは、当時の北海道のいたるところに生息していた野生生物(オオカミ、ヒグマ、バッタ、カラス、etc)が屯田兵が栽培した農作物を食い荒らす被害に苦しめられたということです。
 さらには意外なことに、屯田兵たちが苦労したことの一つに「言葉」があったそうです。東北各地から集められた士族たちはそれぞれの方言で話すために意思疎通に苦しめられたようです。そのことから、北海道では標準語に近い北海道弁が普及していったということです。
 というようなことより、さらに彼らを苦しめたのが「世間の冷たい目」だったそうです。世間の目は、彼ら屯田兵を「天皇に逆らった者」という目で見ていたことに耐えることが、最も辛いことだったということです。

 そうしたこともあったからでしょうか?西南戦争が勃発して九州に派遣された屯田兵は、汚名返上とばかりに誰よりも勇敢に戦ったと史実は伝えています。

 講座を受講して、札幌、及びその周辺、そして北海道各地が現在のように発展した礎には、屯田兵たちの言い知れぬ苦労があったことを改めて思い知らされる思いでした。

 講座は私がレポした以外にも、屯田兵に関わるさまざまなことを教えていただきました。
 そして今、永峰氏は伝えられてきた屯田兵屋の間取りがある古文書の発見により、若干の違いがあることが判明したそうです。現在残され保存されている琴似屯田兵屋並びに琴似屯田兵村兵屋跡はいずれも畳の部屋が八畳と四畳半になっていますが、発見された文書では六畳と四畳半となっているそうです。

  
  ※ 永峰忠四郎氏の実兄である大隈忠之助氏が明治8年に記録として残した文書です。

 その違いを正す屯田兵屋の再建し、保存することが永峰氏の肩にかかっているとのことでした。永峰氏のますますのご活躍を祈念したいと思います。



免疫力を高めるツボとは?

2025-07-11 20:24:43 | 講演・講義・フォーラム等
 健康寿命を延ばすことは、私たちシニア世代にとって必須の課題と云っても良い。その健康寿命を延ばす一つの策がツボを押すことであるという。これまであまり関心のある分野ではなかったが、東洋医学の効用を信じて取り組んでみようかな?と思わせてくれたセミナーだった。

 今年は意図的に社会福祉総合センターて開催されている「やさしさっぽろ健康講座」を受講しています。その7月の講座が昨日10日に開講され、受講しました。
 今回の講座は、「自分でできるツボ押し~免疫力を高めるツボを学ぼう~」と題して、レイス治療院北海道の代表である大越孝郎氏が講師を務めました。

    

 大越氏はまず、医学には西洋医学と東洋医学があるが、西洋医学は即効性はあるが副作用の可能性がある。一方、東洋医学は即効性には欠けるが副作用の心配はないとし、現代は両者の特性を活かした「統合医療の時代」だと強調されました。

 そして健康寿命を延ばすためには「免疫力を高める」ことが肝要だと指摘しました。
 免疫力を高めるためには、一般的には①バランスの取れた食事と栄養摂取、②適度な運動と質の良い睡眠、③ストレス管理とリラックス法、④衛生管理と感染予防、が大切だと言われていますが、大越氏は別な観点から次の4点を挙げられました。
 (1) 血流改善
 (2) 骨
 (3) 腸内細菌
 (4) メンタルヘルス

 その中の血流改善を促すためには「指圧(ツボを押す)」が有効であるとして、実戦練習に移りました。
 人間の体には361のツボがあるそうですが、この日はその中から大越氏が特にお勧めの7か所について紹介があり、そのツボを実際に自分自身で押さえてみました。その7か所とは…
 ① 百会(ひゃくえ)
    
 ② 合谷(ごうこく)
 ③ 風池(ふうち)
 ④ 肩井(けんせい)
    
 ⑤ 志室(ししつ)
 ⑥ 承山(しょうざん)
 ⑦ 湧泉(ゆうせん)
     
   
 指圧とか、ツボなどということに特別関心のない方(私もその一人なのですが)には、その名称も耳馴染みがないと思われますが、その箇所はPCやスマホにその名称を打ち込むと容易に見出すことができます。
 講座で私たちは一通りソのツボを押さえてみて、その効用らしきものを感ずることができました。

 私は今、就寝前に腰痛体操を実践していますが、併せてツボ押しも取り入れてみようかな?と思い始めています。



アイヌ民族・琴似又一郎の悲哀

2025-07-06 21:38:01 | 講演・講義・フォーラム等
 幕末から維新期にかけてアイヌ民族だった琴似又一郎は、卓越した日本語を話し、開拓使に重用されたという。道内に住むアイヌの代表のような役割を担ったものの、それは永続的なものではなかった。又一郎の立場は開拓使の都合で翻弄された。明治期のアイヌの悲哀を知ることができた講座だった。

 久しぶりの「さっぽろ市民カレッジ」の受講です。
 札幌市生涯学習センター(通称:ちえりあ)において、ちえりあ学習ボランティア企画講座で「先人たちのさっぽろ物語~札幌の「今」をつくった人の歴史~」という講座が開講されることを知りました。
 講座は4回シリーズで、各回のテーマは次のようになっていました。
 ◇第1回 「札幌に生きたアイヌの近代」~琴似又一郎の事績から辿る~
 ◇第2回 「琴似屯田兵村の歴史」~屯田兵のくらしと苦労を伝える~
 ◇第3回 「移住者の文化とその後」~年中行事と冠婚葬祭を聞き取る~
 ◇第4回 「戦前戦後の女性たちのあゆみを語り継ぐ」~『北の女性史』40年によせて~
      

 「めだかの学校」において、札幌の草創期のことを学び続けてきた私としては、私たちの学びをより深く広いものとするためにも、是非受講したいと考え申し込みをしました。
 その第1回講座が7月4日(金)の午後、ちえりあで開講されたので受講してきました。
 第1回講座は上記のとおり「札幌に生きたアイヌの近代」と題して北海道博物館アイヌ民族文化研究センター学芸員の大阪拓さんが講師を務められました。

 大阪さんは、主としてアイヌ民族に関して残されている古文書などにあたり、アイヌ民族の実態を解明することを研究対象とされている方のようです。(詳しくは不明なのですが…)
 その大阪さんが、道立古文館などで調査研究をしている中で、 琴似又一郎の人物写真が一般に伝えられている人物とは違っていたことを究明したということなのです。
 その写真は貴重なものと思われるのですが、ウェブ上で公開されているので、その写真を使って説明すると…。 
 
※ 大阪さんが究明するまで、琴似又一郎は前列真ん中の人物だと言い伝えられていたそうです。ところが大阪さんが古文書などにあたるうちに、琴似又一郎は左端の人物であることが特定されたそうです。

 そのことがキッカケとなって、大阪さんは琴似又一郎のことを詳しく調べ始めたようです。
 それによると、1857(安政4)年、16歳の時には「マタヱチ」と呼ばれていたようです。
 その頃、「マタヱチ」は石狩の幕府役人のもとへ「めしたき」として奉公に出ていたそうです。そこで「マタヱチ」は日本語を自分のものとし、他の和人変わるところがない言葉や立ち居振る舞いを身に付けたそうです。
 そうしたこともあって、役人たちも「マタヱチ」を重用し始め、1870(明治3)年には上京し東京を見聞させたり、翌1871年には札幌周辺のアイヌの行政的な代表として「乙名」という職名をいただき「琴似乙名」と称したそうです。
 さらに翌1871(明治5)には、東京に設置された開拓使仮学校「北海道土人教育所」に入学を許され、さらには、「マタヱチ」はアイヌとして初めて札幌市民としても認められたことから、その氏名を「琴似又一郎」と改名したそうです。

 ところが、開拓使の本道開拓が本格化するにつれ、又一郎さんは開拓使に翻弄されていくようになりました。
 1878(明治11)年に、又一郎さんが所有していた私有地を農事試験場整備のために移転するように求め移転を余儀なくされてしまったのです。
 さらには、アイヌ民族にとっては生業の基幹である石狩川河口の漁場も減らされたり、あるいは収穫した鮭の取引においても不利な条件を付き付けられたりされたうえ、ついには漁場を捨てねばならない状況に追い込まれたそうです。

 また、又一郎さんが移転した先の茨戸の土地も、後に移転を強いられるなど、開拓使は相当に酷い仕打ちを又一郎さんをはじめアイヌ民族に強要したようです。
 残された記録では、その後の又一郎さんの足跡は不明とのことです。

 ここからは、私の推測が混じりますが、北海道の開拓で主導的役割を果たした黒田清隆は、開発の効を焦るあまり、アイヌ民族を相当に蔑ろ(ないがしろ)にしたのではないかと想像されます。
 彼が主導した樺太千島交換条約において、宗谷に移住した樺太アイヌを札幌近郊の対雁に強制再移住させ、多くの樺太アイヌが慣れぬ土地と仕事で疲弊し、たくさんの死亡者を出したことも又一郎さんの運命を翻弄する一因となっているようです。

 又一郎さんの足跡は不明と記しましたが、大阪さんは又一郎さんの長男栄太郎さんが旭川近文原野に移転したとなっていることから、あるいは栄太郎さんと共に近文に移転したのではないか、と推測されました。

 大阪さんは、講義の中で開拓使や黒田清隆について非難するような言辞は一つもありませんでしたが、遺された古文書の内容をお聴きするかぎり、当時のアイヌ民族が相当に酷い扱いを受けていたことが容易に想像されます。
 人権意識が未成熟の時代だったとはいえ、アイヌ民族を人(ヒト)として見なさなかったという誤りを和人の末裔である私たちは、その事実を重く受け止めねばならないと講義を受けて今さらながらに痛感しました。


ポリファーマシーとは?

2025-07-03 19:37:25 | 講演・講義・フォーラム等
 ポリファーマシー(polypharmacy)という言葉を最近耳にすることが多くなった。薬の多用による身体への害らしいということは知識としてあったが、詳しいこと理解していなかった。そこで専門家から詳しいお話を伺った。
   
 昨日午後、道立消費者センターで開催されている「くらしのセミナー」に参加しました。「くらしのセミナー」は5月から毎月開催されているのですが、私は今回初めて参加しました。
 というのも、今回のテーマが「ポリファーマシー」に関する講座だったからです。
 今回の講座は、(一社)札幌薬剤師会の健康づくり委員である染谷光洋氏「ポリファーマシーとは~正しい服薬のための知識を学ぼう!~」というテーマだったので、興味があり受講することにしました。

    
    ※  講義をされる染谷光洋氏です。

 冒頭、染谷氏はポリファーマシーについてその概略を説明してくれました。
 それによると、ポリファーマシー(polypharmacy)とは、「poly(複数)」と「pharmacy(調剤)」を合わせた合成語とのことでした。
 つまり、服用する薬の種類が多くなることによって生ずる薬害のことを指す言葉です。
 ただ、染谷氏はポリファーマシーについて次のように規定しました。
 「単に服用する薬剤数か多いことではなく、それに関して薬物有害事象のリスク増加、服薬過誤、服薬アドヒアランスの低下等の問題につながる状態」
を指すとしました。
 ここでまたまた新しい言葉「服薬アドヒアランス」に出会いました。
 「服薬アドヒアランス」とは、治療方針の決定に、患者さんが積極的にかかわり、納得した上で、主体的に治療を受けること、あるいは服用すること、を意味するそうです。

    
    ※ 今回の講座の様子ではありませんが、同じような雰囲気の講義風景です。

 私たちは加齢に伴い、生活習慣病等と老年症候群が重積することで、薬物の処方が増加し、多剤服用になりやすい傾向がある、と染谷氏は指摘します。そうなると「ポリファーマシー」を意識せねばなりません。
 
 染谷氏のお話は、専門家として多方面から薬の効用やその副作用についての説明をされましたが、私が結論として得たことは次のようにまとめることができそうです。
 ◇自分が服薬している薬の効用を知る。(薬の説明書きは保管する~お薬手帳)
 ◇複数の診療科・医療機関を受診している場合は、服用している薬を医師に伝えて安全を確認する。
 ◇自分が罹患している病気について知り、担当医師との意思疎通を図るようにする。
 ◇服用している薬に対して、疑問に思うことは積極的に薬剤師に相談する。
など、いったことが薬害から自らを護るために必要なことと今回学びました。

 私は今のところ一つの科を定期的に受診し、薬も服用していますが、ポリファーマシーについて心配するような状況ではないとは思っていますが、いつ複数の科を受診する事態になるか分かりません。
 その日のために、この日学んだことをしっかり記憶にとどめ、来る日に備えようと思っています。



丸谷智保氏 躍進セコマの秘訣を語る

2025-06-30 20:10:27 | 講演・講義・フォーラム等
 道内発のコンビニチェーン「セコマ」の会長であり、「セコマ」躍進の中興の祖とも云われる丸谷友保氏のお話を聴くのは何度目だろうか?氏のお話は具体的で、北海道愛を感ずる経営姿勢、そして具体的戦略の数々は、いつ聴いても心楽しいものがある。

      

 一昨日、「篠路まち歩きガイドツアー」を終えた私は、その足で北区・屯田地区センターで開催された丸谷智保氏の講演会に駆け付けました。
 主催は「屯田文化振興会」という団体で、振興会発足40周年を期しての記念講演会として丸谷智保氏を招請したということでした。演題は「地域との共生を柱に~地域に密着したサプライチェーンの構築~」と題するものでした。
 丸谷氏が招請された一つの理由として、今や道内1,091店舗を展開するセコマ(当初はセイコーマート)ですが、その第1店舗目に出店したのが北区だったということがあるようです。

           

 冒頭記したように、私は丸谷氏のお話を何度も伺っています。特に2年前の2023年にお聞きしたお話は印象深く、今回のお話とたくさん被るところがあるお話だったので、ここではその2023年にお聴きした内容を再掲することにします。


丸谷智保会長 セコマ躍進の真髄を説く

 顧客満足度コンビニ部門で8年連続して第1位に輝いた北海道発のコンビニチェーン「セコマ」を牽引する丸谷智保会長は、その秘訣を誇るでもなく、衒うでもなく、むしろ淡々と「あくまで地域の貢献する経営を続けてきた結果である」と語った。

 昨日午後、札幌プリンスホテル国際館パミールにおいて秋山記念生命科学振興財団の特別講演会が開催され参加した。講演は(株)セコマの会長である丸谷智保会長が「地域に貢献する経営~地域産業エコシステム」と題して講演された。余談ではあるが丸谷氏は、ワイン町長として名をはせたあの北海道池田町長の丸谷金保氏のご子息である。

 丸谷氏のお話は門外漢の私でもとても興味のある内容だった。ただ、丸谷氏はお話されたいことがたくさんあったのだろう。氏のお話も、用意されたパワーポイントの回転も速く、私の筆力ではその内容を十分にメモすることができず、丸谷氏のお話を十分に再現できないのが残念である。そこで私が印象に残ったことを中心にレポしてみたい。
 丸谷氏はまずセコマは単なる小売業ではなく、サプライチェーンマネジメント企業であると強調された。このことは、農産物の生産から仕入れ、製造、物流、小売りまでを独自に築き上げ一連の流れを全て自社で行う体制を築いているということである。この体制を築き上げた2016年に社名を(株)セイコーマートから(株)セコマに変更したそうだ。
 そして丸谷氏は自社の現状を話されたが、セコマでは自社農場をはじめとして、全道各地に実に多くの自社工場を稼働させ、それらの工場から全道各地に配送するトラック基地なども整備されていることを写真とともに見せていただき、一連のサプライチェーンが整備されていることを教えられた。

 そしてセコマの理念ともいえる「地域に貢献する」という例として2014年に出店した「セイコーマート初山別店」の例を話された。
 当時の初山別村の人口は約1,200人(現在は1,057人)で、とても出店できる規模ではなかった。当時の村長からは「村に店が無くなってしまうので何とか出店してほしい」と懇願されたそうだ。しかし出店するためには店舗の減価償却費、物流、人件費、光熱費、家賃、土地代などのコストを計算するとそれに見合う売り上げはとうてい見込めない状況だったという。
 ただ丸谷氏の頭を占めていたのは村長や村の人たちの窮状に対して「何とかしてあげたい」という一念だけだったそうだ。そこで出店するための経費のムダを一つ一つ潰していったという。
 土地代は村の土地を提供してもらい無償に近い形で借用することができた。人件費、光熱費は24時間営業でなかったことからそれほど負担にならないと考えたそうだ。物流費は初山別村のある日本海沿岸の他の町に商品を運んでいるので負担増にはならなかった。等々、一つ一つ問題を解決していって利益は出ないまでも、赤字にはならない見通しが立ったことで出店を決めたという。
 開店から9年、当初は赤字が続いていたけれど現在は一日当たりの客数が250~300人、客単価が平均の1.5倍程度となったという。当初は日商30万円が黒字化の目安だったが、最近は30万円を上回る日が多くなり、減価償却費に充てる割合も多くなってきたそうだ。
 丸谷氏のお話を伺っていると、丸谷氏の頭の中では「地域に貢献する」、「なんとかしてあげたい」という “情” の要素と、経営者として冷静に利益を産み出すための戦略的な “理” の要素が同居し、冷静に対処してきた結果が企業も地域住民をも幸せにする秘訣があると丸谷氏のお話から汲み取ることができた。

 講演の最後にとても良い話を聴くことができた。2018年9月4日、関西では台風21号が吹き荒れ大被害に遭った。その時、朝日新聞の関西支社の記者が台風被害の取材のために和歌山県田辺市に赴いたそうだ。その際、喉が渇いたので水を求めて地元のコンビニで水を求めたところ店主から「停電でレジも動いていないのに、売れるわけないやろ!このボケ!」と罵られたそうだ。それから2日後に北海道では胆振東部地震が勃発した。件の朝日新聞の記者は応援取材のために北海道に派遣されたそうだ。そこでも取材中に喉の渇きを覚えコンビニに入ったそうだ。その時の店主の対応は、申し訳なさそうに「停電で冷蔵庫が使えません。冷えていませんがよろしいでしょうか?」とペットボトルを出してくれたという。その対応の違いに朝日新聞の記者は大感激して丸谷氏にお話されたという。

 セコマの店舗は胆振東部地震が起こって全道的にブラックアウトになる中、実に95%の店が営業したという。それはセコマが停電に備えた端末や対応マニュアルを用意してあり、各店はそれに従ったまでだという。これぞ顧客満足度8年連続1位企業の面目躍如である。
 私はこれまでもセコマを良く利用させてもらってきたが、ますますセコマを応援したくなるような良い話を聴いた思いである。

       


 一昨日のお話も、地域の方々に対するお話ですから、難しいことなど言わずに、上記のような内容を淡々と語る姿が印象的でした。
 丸谷氏のお話で追加するとしたら、NHKTVの隠れた人気番組「ドキュメント72時間」で「冬の北海道 村のコンビニで」と題して初山別村のセコマが取り上げられた番組が、2023年度の年末スペシャルにおいて、一年間に放送された中で視聴者から最も支持を受けた番組となったことが丸谷氏から告げられました。
 私もたまたまその番組を視聴していて、とても嬉しくホッコリしたことを記憶しています。
 冬の北海道の人口1,000人ほどの初山別村にあるたった一軒のコンビニ(というよりたった一軒の小売店)は、村の人たちにとっては商品を購入するだけではなく、そこはまるで村の社交場のような役割を果たしていることを画面は映し出します。
 丸谷氏の思いが凝縮されたような番組に心から拍手を送りたいと思ったものでした。


 丸谷氏は2020年に、創業者の息子である赤尾洋昭氏に社長の座を譲り、現在は会長職にあるとのことですが、赤尾氏と協働しながら、さらなる地域貢献に力を尽くしていただきたいと思います。
   
   


私の生き方セミナー「高齢者の食生活」 

2025-06-27 19:46:58 | 講演・講義・フォーラム等
 食べることは、「生きること」だという。高齢者にとっては、食生活の在り方が日々を元気に過ごす源だと講師は強調された。定例的に受講している札幌福祉総合センター主催の「私の生き方セミナー」の6月定例講座を受講した。

 少し時間が経ちましたが、一昨日(6月25日)午前、札幌市社会福祉総合センターで開講された「私の生き方セミナー」を受講しました。このセミナーは、「私の生き方セミナー」と称していますが、いわば「終活セミナー」といった内容で、年間通して毎月一度ずつ開講されているセミナーです。
 今月は札幌市長生園の管理栄養士の吉田めぐみさん「おいしく食べて元気で長生き!」と題してお話されました。

    

 吉田さんは、まず「健康」と「元気」の違いについて触れました。吉田さんによると「健康」とは、「カラダの状態が良いこと」、一方「元気」とは、「元の気に戻すこと(心身が活発であること)」と説明されました。
 つまり、吉田さんは単に体が健康だけではなく、心身そろって健やかであることが理想であると言われたのだと理解しました。そして、そのための第一に「食」の在り方を見直してみよう、というのが本セミナーのねらいだと受け止めました。

 吉田さんによると、私たちの食生活は短期間にその在り方が大きく変化したと言います。
 それは、我が国が高度経済成長期には食の欧米化が進み、過剰栄養による「肥満」が問題視されて時代だったと言います。
 それが現代になってマスメディアなどの影響によって過剰な健康情報や栄養情報によって、「過剰栄養」や「低栄養」など多様化が進んだ時代だと指摘しました。
 そして将来は、「低栄養(フレイル)」が心配されるとしました。

 その「低栄養」とは? そしてそのことによる影響について次のように説明されました。
 ① エネルギー不足
   ・エネルギー不足で活動しない。
   ・筋力の低下
   ・家に閉じこもる
   ・手足の筋力低下
   ・転倒
 ② タンパク質不足
   ・筋力の衰えが早まる
   ・筋力の低下
   ・転倒
 ③ 栄養バランスの長期的な崩れ
   ・免疫力の低下
   ・風邪をひきやすく、治りづらい
   ・肺炎・感染症にかかりやすい

 ここで私が特に留意したいと思ったことは「筋力の低下」についてです。確かに加齢とともに私自身も「筋力の低下」を感ずることがあります。
 吉田さんは「筋肉をつける!」ことだとして、筋肉を付けるためには「運動」が大切であると強調されました。
 定期的に運動を続けることの大切さを痛感させられました。

    

 そして最後に私たち高齢者の食生活の在り方について、次のようにアドバイスされました。
  〇 食事を摂る時間を決める。
  〇 栄養バランスの良い食事をする。
  〇 毎食きちんと食べる。
  〇 楽しみながら食べる。

 日々の食生活に留意しながら、「元気」のある生活を送りたいと思います。