まいぱん日記

身近なあれこれ、植物のことなど

ロシアへのとりあえずの連れ去りの土地タガンローグは、作家チェーホフの生まれた町です

2023年05月23日 | ロシア

昨年の2月24日、ロシアのウクライナ侵攻を知ったときの衝撃は今でも忘れがたいものがあります。あれから一年以上たった今も休みなくつづく理不尽なウクライナへの侵略は、プーチンが権力の座にいるかぎり、つづくのでしょうか。

ちょうど一年前ウクライナの美しい港湾都市マウリポリが激戦の末、ロシアの支配下に置かれました。アゾフスターリ製鉄所に籠城して最後まで戦ったウクライナ兵たちは全員降伏し、捕虜になりました。捕虜の兵たち、また連れ去りにあった子供や市民たちの移動先のひとつにロシア領のタガンローグ市があります。

タガンローグはウクライナとの国境からおよそ50キロ、マウリポリからは100キロと近く、鉄道が通っているのでロシア各地へウクライナの人々を運ぶことができるのです。例えば、「ロシアに強制移送されたマリウポリ市民、帰国を切望」 彼女はマウリポリからとりあえずタガンローグへ運ばれ、列車に乗せられ1000キロ離れた町に運ばれたのでした。彼女はたまたまロシアを出国できたわけですが、できなかった人たちは今どうしているのでしょうか。

ロシア侵攻による捕虜や連れ去りの町として出会うことになったアゾフ海のタガンローグ湾に面した港湾都市タガンローグ。タガンローグといったら、戯曲『桜の園』などで知られるロシアの作家チェーホフが生まれた町です。タガンローグとの不幸な出会いではありましたが、これをきっかけに私の中でチェーホフ熱が再燃しました。

チェーホフは1860年農奴解放の一年前にタガンローフで生まれました。ギムナジウムに通い、教会のお勤め好きの父親に幼いときから兄たちとともに教会で歌わされ、家業の食料雑貨店の店番をさせられ、専制主義的な父親の意に染まなければ鞭打たれて育ちました。その父親は破産して、モスクワに夜逃げしてしまいます。16歳のチェーホフはギムナジウム6年生でしたが、父親はそのチェーホフに店の後始末を押しつけたばかりか、「金送れ」といってくる。母は「お前以外に頼るひとはいない、お金を送っておくれ」と涙ながらに懇願してくる。苦労してやっとひねりだした12ルーブリを送金すると、返事には「20ルーブリ必要だったのに」とある。もちろん自分の学費、生活費は町中駆け回って何軒も家庭教師をして自分で稼がなければなりませんでした。

チェーホフがタガンローグをあとにしたのは、ギムナジウムを終え、モスクワ大学医学部にヒ入学した19歳のときでした。自分ばかりか遠く離れたモスクワの家族の生活の援助までしなければならなかった日々は苦しかったにちがいないのですが、父親から精神的に自由になって、学校にかくれて劇場に通ったり、自分でも戯曲を書いてみたり、図書館で読書したりと、貧しさにおしつぶされず、のちの何事にも屈せず、とらわれない精神の強靭さをはぐくんだ貴重な時間だったといえます。

モスクワでは極貧の家族が待ち受けていました。チェーホフがユーモア雑誌に投稿したのは生活のためでした。モスクワでもチェーホフは兄たちが顧みない家族の生活を支えたのでした。医者になってからも、ユーモア雑誌に書いて書いて書きまくりました。チェーホフというひとは、自分は金をかせぐ機械とで思っていたようなところがあって、それがいくらお金を稼いでも特別な贅沢をしてるわけでないのになくなってしまい、金欠、金欠といいつづけ、それでも慈善のためとお金を乞われるたびに払うのでした。

タガンローグをきっかけにインターネットでチェーホフのことを読むようになると、チェーホフのじつにさまざまな情報がいっぱいあるのでした。ウクライナの人がいうようにたしかにチェーホフはウクライナに近しいところがあります。実際、父方の祖母はウクライナ人の農奴でした。

1週間前偶然にチェーホフが生きた、さまざまのシーンと作品論を組み合わせた伝記にいきあいました。ひきこまれて、熱中してました。ますますチェーホフが好きになりました。

いろいろ興味深いことを新たに見つけました。こんど、紹介しますね。                           

 

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