主体的に学ぶとはどういうことだろうか。
そもそも学校においては、学ぶ内容は決められている。それを学ぶ学習者は常に客体である。学ぶ内容に関しての主体性を学習者はもっていない。
正確に言えば、現在、教育の世界で言われている主体性とは、与えられた課題に対する積極性、というほどのことに過ぎず、これは言葉を変えれば、能動的受動性とでもいうべきものである。簡単に言えば、「主体的に学べ」ということは、いやいや従うのではなく、進んで従え、ということに過ぎない。
主体的な学びを学校が期待した段階ですでに、その学びは主体的ではないのである。
子供は学校でも社会での主体ではありえない。だからこそ、子供は将来、社会の主体になるために、保護者には子供を学校に通わせる義務が課せられ、子供は国の決めたプログラムに従って学ばされているのである。社会における主体性と学校における主体性は全く意味が異なる。文部科学省も教育学者もそのあたりのことについて混乱があるのではないか。
子供が学校において、「主体的」に学ぶなどという言葉遣いは、公教育の根本に対するまやかしとなりうるものであるがゆえに極めて危険なのである。