学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

教師の資質

2010-02-02 | 教育
教師の資質ということを考えてみる。

教師になる人は,
教師としての資質に恵まれているから
教師になったわけではない。

教師になる人は,
教師になろうと思ったからなったのである。

教師を志望する者の
教師としての資質があるかないか,
それが教員養成課程で云々されることは
よっぽどのことがない限り,ないし,
大学の教員養成課程に,
教職志願者の資質を判断する機能はそもそもない。

教員採用試験の段階で,
多少は,教師としての資質について
審査されているのかもしれないが,
もし,これがうまく機能していたのであれば,
現職教員の資質が云々されることはなかったであろう。

資質のない教師が,
研修によって,
資質の高い教師になり得るなどという話も,
はなはだ怪しい話である。

となると,全体として教師の資質を高めるためには,
資質のない教師に,教職を退いてもらうしかない。

しかし,他人の資質を判断することは容易ではない。

そうすると,
教師の資質の有無を判断するのは,
つまるところ,
その教師自身ということになる。

しかし,本当に資質のない教師は,
自らに資質がないことにすら気づかないのであるから,
結局,問題の解決にはならないのである。

ゆえに,教師の資質を高めるなどというのは,
不可能な命題,絵に描いた餅であることが分かる。

大事なのは,個々の教師の資質を高めることなどではなく,
資質の不十分さを自覚しつつ
お互いの欠点を補い合いながら
真摯に教育と向き合う,
そんな姿勢をもった教師集団をつくりあげることしか
ないのである。

ジャンル:
学校
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18 Comments

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同じく、医師は看護師は国家試験に合格したから (未知)
2010-02-03 23:04:16
「教師になる人は,教師としての資質に恵まれているから教師になったわけではない。教師になる人は,教師になろうと思ったからなったのである。」
医師の卵や看護師の卵が、最初から資質に恵まれているから「国家試験に合格した」わけではなかろう。だが、彼らは資格取得の前に「猛勉強」している。
かたや教員は、大学やらの単位を取得すれば「教員になれる」のである。
ここで、医師や看護師などの「国家試験を突破した者が資質がある」とは言っていない。ただ、資格を取るときの「気概」が違う。

私は大学の通信で学んでいるとき、教員資格が「国家試験を受けないこと」に愕然とした。こんな簡単に資格が取得できるのかと。

私は臨時であるが、これほど現場で基礎的学習の基盤がない専門職にであったことはない。ましてや驕った態度を見せることはない。
申し訳ないけれど、医療界におけるOT,PT、ST,MSW、IT関連、製薬会社など、他職種の専門職と関わってきたけれど、ないのだ。
Unknown (madographos)
2010-02-04 22:42:56
>未知様,コメントありがとうございます。教員が国家試験による資格でない理由は,戦後昭和20年代のの教育改革のなかで生まれてきた教員免許の開放制の考え方と関わりが深いのではないでしょうか。つまり,教員が国家統制を受けないようにと配慮した結果ではないかと考えています。また,教員が専門職であるという考え方がポピュラーになったのは,1966年のILO・UNESCOによる「教員の地位に関する勧告」以降ですから,教員を専門職と捉えて,その資格要件を云々することは,歴史的に見て,齟齬をきたすように思えます。さらに,教員に求められる能力や技能は,ある一定の能力あるいは技能といった規準では測りにくいというところが,国家試験制度を採らない理由かもしれません。エントリーの内容とは離れてしまいましたが,コメントについて考えたことは以上です。
内容の本質から離れたコメントに、ありがとうございます。 (未知)
2010-02-08 20:16:50
戦後の教育の流れは学習しています。
私が教育界に転進して思うことは、採用試験に合格することが「ゴール」であり、そこから「人を馬鹿にする言動」が身についてしまい、自らの研鑽を忘れがちな人が多いことです。
上からの研修の押し付け、確かに資質向上にならんものもあるでしょう。

ただ、「研修」が上からの押し付けと捉え、「全く学ぶものがない」のなら何にも意味がない。主体が学ぶ者になく教える側ならば。主体が学習者(と自覚する)ならば、研修の講義の大半は分かりきったことだけれど、何らかの新しい情報が手に入った、と思うかもしれない。

新たな知識が入ったところで資質が高まったということでもあるまい。そして、立場が離れたということでもあるまい。脈々と受け継がれゆく「教育の姿勢」は健在であり、時代の移り変わりに適応していくものと考える。

私は、教育の戦後からの流れを受け継ぐとともに、新たな方向へと教育界自体が舵をとることを期待しています。

Unknown (madographos)
2010-02-08 22:38:21
>未知さま。コメントありがとうございます。このエントリーの主旨は,教員の資質向上をはかるためには,健全な同僚性の構築しかないということです。その点から考えると,未知様の「「人を馬鹿にする言動」が身についてしまい,自らの研鑽を忘れがちな人が多い」という教育界評価もまた,健全な同僚性を損なうものでしょう。もちろん,「人を馬鹿にする言動」をする人が多いような職場にも同僚性は育たないでしょう。おそらくお互いの資質の向上を求めるのは困難だと思われます。問題の焦点は,そのあたりにあると思います。
ありがとうございます。 (未知)
2010-02-09 21:50:32
文章の結論部分を読めば、その人の考えが分かります。
全体を通して感じ、思いを巡らした結果を発言したことにお答えいただき、ありがとうございます。
「何で教員になったのか」の主体性が、その後のキャリアの成熟過程に関係すること、「研修を受ける姿勢」との連関を意識したもので、教員の資質=健全な同僚性だけではないだろうと思ったからでした。
私は教育界では新人であるのだけれども、看護師の新人~卒後5年以下の者の指導に当たっていましたから、職業選択からキャリア形成・成熟過程について、当事者だった頃と違った観点から眺めています。

さて、私は教育の新人ですが、医療界での10年のキャリアが、教育にとって不適格なのでしょうか。教員になるという「気概」と「学習」は、単に医療界を去る「手段」だったのでしょうか。
成績はよかったですよ。ばらばらに取り入れた知識や経験が、学ぶことにより明確に構造化され、認識を確かなものにする、爽快な気分です。今までにない充実感でした。

Unknown (madographos)
2010-02-09 22:06:49
>未知様。コメントありがとうございます。誰でもそうですが,自分が過去の経験から身につけたものさしをあてて,物事を判断するものです。そのものさしをあてることで,よく見えるものもあれば,そのものさしをあてたために,かえって見えないものもある,ということでしょう。
そこで、バイアスやステレオタイプが問題なのですよね (未知)
2010-02-09 22:52:52
私は、看護師から養護教諭になると決心し、学校現場に飛び込んだ時、大学の教材が届くか届かないかの時、教員から「看護師は・・・」と言われました。さらに、履歴書の生まれ育った故郷から「のんびり」だと、勝手に判断されました。私は、故郷に住んでいた年月と首都圏に移り住んで同等の年月を過ごしていますが「変化」に関心がない。
看護師養成機関では、すでにヘルスプロモーションの考え方が導入され、看護の機能は「教育、育む」が第一に教えられている(生活習慣病へのアプローチ)のに対し、「医師の指示に従うだけ」と捉えられていました。さらに、生徒の突発死に関連のある看護(日常生活上の留意点などが載っている)の資料は手で払われました。これは看護師時代のことです。

いったい、誰が経験から身に付けたものさしで判断しているのでしょう、という疑問をもちながら、客観的な視点を持ちながら教育に携わろうとしています。私は教育に十分な興味とそれに基づく学習をし、実践しようとしています。

学習をさせていただいた環境に感謝しなければなりませんが、教員の「経験から身につけたものさしをあてて」学習者に発言したことは、教育に関する科目を学習するにあたって少なからず影響を与えたのです。

たまにはそういう教員もいます。まず、身内から何とかなりませんでしょうか。



分けて、 (未知)
2010-02-09 23:19:41
私は同僚性を重視することよりも、「主体が誰か」といった話をし、「キャリア形成」のその先、「キャリアの成熟」に及ぶ話をしました。これは、「教員の資質」についての話です。
Unknown (madographos)
2010-02-09 23:44:10
>未知様。コメントありがとうございます。でも,このぐらいにさせてください。お書きになっていることから察するに,それは,教員という職種の問題ではなく,特定の教員個人あるいは教員集団の人格の問題,あるいは人間関係の問題に思えます。人格や人間関係も,資質のうちですが,これは研修やキャリア云々でどうこうできるものではないでしょう。
 「教育界では新人」とのことですので,敢えて申し上げますが,私が新任のとき,校長は「3年たつまでは意見を言うな」と言われました。その間は,先輩のすることをよく見て学べという意味でした。当時の私は,なんと封建的なことを言うものかと反発を覚えましたが,今になってみると,それは大切な教えだったなあと思うようになりました。今は,そういうことを言ってくれる人も少なくなりました。残念なことです。
お世話になりました。最後に (未知)
2010-02-10 20:17:46
「人格や人間関係も,資質のうち」、そうなんです。
他者との関係において、人を馬鹿にしたりバイアスをかけて見ることにより、勝手に上下関係をつくって自分を上に置くことを覚えてしまうと、同僚性は意識されなくなる。同質を求める。愚痴で集まる集団ができる。
私は30歳を越えてから自己実現の道を歩み始めましたので、異質と思われることが多いでしょう。通信でも学習をすることは、金も使うし仕事をしながらだから努力もいる。そのなかで、向上しようとする人々と議論することがいかに楽しいか、自分の固定観念を砕き新たな視野を広げることができる、人間的成熟への機会として大事だと感じました。

教育は、次代を担う者たちへの働きかけです。グローバル化がこれ以上に進行すること、世界経済や環境問題や貧困問題など、世界規模で考えなければならないことが彼らに降りかかってきます。人種や国、文化による偏見や差別、ナショナリズムを廃し、考えなくてはならない状況に立たされるのです。教員が「排他的な姿勢」であるなら、自然と子どもたちには「ヒドゥンカリキュラム」として伝達されます。

あなたの校長が「3年たつまでは意見を言うな」といったこと、それは社会人となり看護師の3年目まではそうだったのです。おおよそ業務の全般が見え、組織の暗黙の常識が見え、そしてその業務に必要な基礎知識や技術を習得し、それを基にして自分なりのアレンジができるようになる時期です。教員の15年目と新採教諭とは全く異なった視点で物事を認識し、その認識に基づく行動をします。
そのような「内的変化」「外的変化」の速度は、全くの新人と他の職業をしてきた人と同等に進行するものとは限りません。
教育とは、内的世界の変化から外的変化へと導くことでもあります。形式的な「○年で確立するもの」ではなく、「○年でどれだけ伸びたか」が重要なのではないでしょうか。


長くなりました。発言させていただけたこと、感謝いたします。


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