改正教育基本法には,
「伝統と文化の尊重」ということが
述べられているが,
学校教育において
伝統と文化を尊重する場合,
気をつけておかなければならないことがある。
客観的にわが国の伝統や文化を学ぶということであれば,
さまざまな角度から分析的に見ることが出来るので,
さほど問題はないのだが,
「尊重」ということになると
共感的に優れたものとして理解するということになる。
ここに難しい問題があるのである。
なぜならば,
伝統あるいは伝統文化といわれるものは,
当然のことながら長い歴史を持っており,
現在の民主主義社会とは相容れない
さまざまな古い価値観を
内に秘めているものも多いからである。
封建性,土俗性,残虐性などなどである。
これらをそのまま尊重することは
学校教育の場では不適切である。
かといって,
これらの性格をもつ伝統なり文化なりから
これらの性格を抜き去ったならば,
それはその伝統あるいは伝統文化とは
似て非なるものとなってしまう。
その伝統あるいは伝統文化を尊重することには
ならないのである。
そもそも,
伝統なり伝統文化なりというものは,
それらを正当に継承している人々の中で
自然とゆるやかに変質を遂げ,
その時代時代に適応していくことで
命脈を保っていくものである。
そうした柔軟性を持たない
伝統なり文化なりは淘汰されていく
運命にあるのである。
これらの営みに
学校教育は直接的には関与していないし,
するべきでもない。
伝統や文化というものは
伝統であり文化であるから尊重すべきものではなくて,
尊重する価値のある伝統あるいは文化であるかを
その伝統や文化をもつコミュニティーのなかで
判断され吟味されるべき性質のものなのである。
学校教育の場で,
伝統あるいは文化の尊重をいう場合,
伝統であるから尊重しなければならないというような
考え方におちいらないように
教師は十分留意していなければならない。
「伝統と文化の尊重」ということが
述べられているが,
学校教育において
伝統と文化を尊重する場合,
気をつけておかなければならないことがある。
客観的にわが国の伝統や文化を学ぶということであれば,
さまざまな角度から分析的に見ることが出来るので,
さほど問題はないのだが,
「尊重」ということになると
共感的に優れたものとして理解するということになる。
ここに難しい問題があるのである。
なぜならば,
伝統あるいは伝統文化といわれるものは,
当然のことながら長い歴史を持っており,
現在の民主主義社会とは相容れない
さまざまな古い価値観を
内に秘めているものも多いからである。
封建性,土俗性,残虐性などなどである。
これらをそのまま尊重することは
学校教育の場では不適切である。
かといって,
これらの性格をもつ伝統なり文化なりから
これらの性格を抜き去ったならば,
それはその伝統あるいは伝統文化とは
似て非なるものとなってしまう。
その伝統あるいは伝統文化を尊重することには
ならないのである。
そもそも,
伝統なり伝統文化なりというものは,
それらを正当に継承している人々の中で
自然とゆるやかに変質を遂げ,
その時代時代に適応していくことで
命脈を保っていくものである。
そうした柔軟性を持たない
伝統なり文化なりは淘汰されていく
運命にあるのである。
これらの営みに
学校教育は直接的には関与していないし,
するべきでもない。
伝統や文化というものは
伝統であり文化であるから尊重すべきものではなくて,
尊重する価値のある伝統あるいは文化であるかを
その伝統や文化をもつコミュニティーのなかで
判断され吟味されるべき性質のものなのである。
学校教育の場で,
伝統あるいは文化の尊重をいう場合,
伝統であるから尊重しなければならないというような
考え方におちいらないように
教師は十分留意していなければならない。
本当にその通りだと思います。
尊重する価値のある伝統や文化であるか
どうかは、政府が無理やり押し付けるものではなく、
国民一人一人がそれぞれに判断すべきものだと思います。
今回の件についても、尊重する価値のある伝統や文化であるかどうかは子を持つそれぞれの親や子供が、それぞれに判断すべきことであって、政府に関与してほしくないです。
今回の件は十分に吟味しないで、伝統であるから尊重しなければならないという短絡的な考えのもとで決定されたような気がします。
改正教育基本法にある「伝統と文化の尊重」が、
伝統と文化ならなんでもかんでも尊重することを押し付けるのに利用されてしまっていると思います。
伝統と文化を押し付ける前に、人間(子供や親等)一人一人の考え、心、個性を尊重することが大事だと思いました。
教育には国民の声を広く受け入れて、柔軟性をもっていてほしいです。
伝統や文化の尊重より、人間一人一人に対する尊重や
思いやりの方がはるかに大切だと私は思います。
伝統や文化の尊重のせいで、押し付けられた子供が苦しむことになっては本末転倒です。
文科省は、一人一人の子供のそれぞれの思いをできる限り尊重して、可能な限りそれぞれに見合った教育を進めていくべきだと思います。
政府(文科省)は伝統や文化の尊重にこだわるあまり、
国民一人一人に対する尊重を忘れているかのようです。
今の政府に国民に対する尊重の意識や、思いやりがあるなら、今回のような無理やりな押し付けは回避できるはずですが、どうやらあまりないようで、とても残念です。
ある意味、「この伝統や文化はすばらしいんだ」ということを最初から押し付けてしまっては、子どもたちはなぜそれらが「すばらしい」のか、自分たちの頭で考えたり、心で感じたりすることはできなくなると思うんです。或いは、「本当にこれってすばらしいの?」など、クエスチョンマークをつけることだって、ありだと思います。要は、そういう過程が重要なのではないか、ということです。そうしないと、まさしく「思考停止」状態に陥ってしまう気がします。
同様に、「日本はすばらしい国です、だから愛しなさい」と言われても、「日本の何がどのようにすばらしいのか」ということを子ども達自身が感じていない限り、それは形骸化した愛国心にしかなりませんよね・・・
だから 目先のコンサートの乗りばかり追う馬鹿な子どもになっている
大人がもっと「面倒がらずに」地域の行事に参加してこなかったから子どももできなかった
それは大人が誰かが言っている淘汰される文化であったかどうかを考えもしていないことにある
淘汰されたのではなく大人がただ「面倒だ」として片づけたに過ぎない 伝統行事に意味を見いだせない大人が多くいる 人が大勢より会うことはとても大切なことだと思うし そう言うことが地域の人間関係を作っていく一つの方策でもある
尊重を押しつける 短絡的なそうした考えは変である
このことについて、気になります
「言われて」ではなく 貴方が伝えないといけないのではありませんか
そうした営み無いから変な世になっていると考えます
日本人は勤勉でそれが世界の注目を浴び中国も韓国もアメリカもインドもまねをしてきたのです
目先のお金に目を向けてばかりいる日本人では情けないですよ
貴方が日本を愛する気持ちを持っていなければ子どもに伝わりませんよね
投げやりに大人がなるから子どもはそうなるのです
私もすべてを知っているわけではありませんが伝統文化に触れることは大事だと考えます
地域でこうした機会がとれないから取るように法で定めたのでしょう
情けない国民だと思いませんか
そんなこと法で定めないとできないと言うことですよ
つまり
「いわれてやる」のは変とお考えのようですですが
言われないとできないことになってしまってることの方が心配だと思っています
すべて大人の責任です
法の改定には深い関心と懐疑の念を持っていなければなりません しかし このたびのこのやり取りには不満がありまして投稿しております
要求と要望の社会
中傷と裁判の社会
それは日本という国にはあまりそぐわないことでした
流行に惑わされてはいませんか
子どもは被害者です
だから学校に期待するしかありません
先生方には申し訳なく思います
今の先生方は大変な生活をしていると聞いています
批判的に物事を捉えることは一つの考え方で大切な方策だと思います
しかし 学校の先生がこのような事おっしゃいましてはいかがなものでしょう
あまり頂けませんね
同調する方も変ですね
世論作りのためなら違う方法をとった方がいいと思います これは子どもものぞけるわけですからね
こういうことで 世の中が動いていくなら怖いことですよね
老婆心ながら先生なりに考えた方がよいのではないでしょうか どのように参考にして頂けるのか理解できませんが楽しみにしています
良い実践報告を待っています