日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

在朝日本人の回想 引き揚げ船「こがね丸」で

2005-02-19 17:58:06 | 在朝日本人
朝鮮からの引き揚げの挿話を書いたのがきっかけで、この機会に私の『在朝日本人』としての回想をまとめようと云う気になった。思い浮かぶままのまとまりのない小文である。

船の舳先に頭を向けて甲板に寝転がっていると、船のローリングに合わせて身体がゴロゴロと右側に、左側に転がっていく。日差しがとても快い。海が蒼い。ゴミゴミした下の船倉にくらべると、まるで極楽である。

舳先近くには機関銃なのか機関砲なのかが据え付けられている。日本軍は武装解除されたはずなのに、その脇に兵隊さんが匍匐姿勢で構えている。双眼鏡で監視している兵隊さんに聞いた。「兵隊さん、何をしているんですか」「浮遊機雷を見張っているんだ」と返事が返ってくる。私も東郷元帥になったような気分で玄界灘を睥睨する。

釜山での『収容所』生活にもそろそろ飽いてきた頃、ようやく引き揚げ船の順番が回ってきた。それこそ触雷の危険があるので航行は明るい内に限られる。早朝船に乗り込んだのであろう。どこでどう知ったのか、船の名前は「こがね丸」であった。昭和15年朝鮮に渡る時に下関から乗り込んだ関釜連絡船「崑崙丸」は、とっくに敵潜水艦からの魚雷に沈められてしまっていたのである。どのような船に乗せられるのか気がかりであったが、大きな日本の船であることが嬉しかった。

どのような船室に入れられたのだろう。大きなテーブルの上に荷物を載せたような気がする。身動きもままにならない、というほどの混み具合でもなかったと思う。好奇心に溢れた少年の私が船中を探検して廻ることができたのだから。飯盒で炊いたご飯の美味しかったことははっきりと覚えている。飯盒に紐を付けて下にたらし、海水を汲み上げてはそれでお米を洗い、その塩水で炊いたご飯の塩加減がよかったのだ。炊事場で順番に炊いたのだと思うが、飯盒がかなり沢山並んで湯気を出していた光景が思い浮かぶ。

太陽も落ち、辺りは暗くなった。エンジンの音が軽く聞こえだした。いよいよ日本が間近、博多港に近づいたのだ。なんだか人が騒いでいる。満艦飾の軍艦が何隻か港に停泊していて、色とりどりのイルミネーションで一帯が燃え上がっているかのように明るい。生まれて初めて目にする絢爛豪華な光の饗宴に心を奪われてしまった。

どうした因縁か、それから7年後、高等学校の修学旅行で神戸港から別府港までこの「こがね丸」に再び乗船したのである。船首に記された「こがね丸」のエンブレムを見て、あっ、あの引き揚げ船だ、と異様に興奮した。早速船内を歩き回ったが、引き揚げ時の記憶を呼び起こすものは何も見あたらなかった。友人にはこの船に乗って朝鮮から引き揚げてきたんだ、と話をしたものの、これがあの引き揚げ船の「こがね丸」なのかどうか、もう一つ確信が持てなかった。

この思い出を記すにあたって、インターネットで資料を探してみた。

こがね丸

《こがね丸KoganeMaru 竣工昭和11年8月29日 三菱神戸造船所 大阪商船
1,905Gt 317Dt 74,512,05,8 デイーゼル2基2軸2,807HP 17,4Kt/14Kt 一等28,二等132,三等550名

昭和10年7月に沈没した緑丸の代船として竣工した阪神~別府航路用旅客船。船体を10の水密区画に分け連続した2区画が破壊されても沈まない設計とされ安全性が向上している。昭和17年5月の関西汽船設立に伴い移籍し、昭和18年8月に海軍の特設運送船となり、蘭印方面で活動。昭和21年9月から復員船として引き揚げ輸送に従事した後の昭和24年別府航路に復帰。となるが、昭和55年4月に解体された。》

これで見ると修学旅行で乗ったのはまさしくこの「こがね丸」であるが、一方復員船として活躍したのは昭和21年9月からなので、私が引き揚げた昭和20年11月にどうであったのか、この記述でははっきりしない。しかし昭和18年に海軍に徴用されていることから考えると、海軍省が勅令で廃止されたのは昭和20年11月30日であるので、それまでは海軍省の管轄下で引き揚げ船として働いていたことは十分に推測できる。

もう一つ付け加えると、この船が建造された三菱神戸造船所の近くにある遠矢の保育園で、私は紀元2600年の式典を祝った。これもなにかの因縁である。

もしこの一文が機になり、その辺りの事情をよくご存じの方からご教示を得ることが出来れば望外の喜びである。