日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

在朝日本人の回想 内地の引き揚げ列車

2005-02-21 17:07:05 | 在朝日本人
引き揚げ船『こがね丸』で からのつづき

「こがね丸」で一夜を明かし翌朝上陸が始まった。炊き出しのおにぎりかなにか貰ったような気がするが、記憶はおぼろげである。しかし記憶に鮮明に残っている光景がある。

埠頭でいわゆる人夫仕事をしている人達が全部日本人なのである。朝鮮では考えられなかった光景で、大きな衝撃を受けた。今ならカルチャー・ショックと云えただろう。一体どうしたことだろう、と私の頭では整理がつかなかった。

貨車に乗り込んだ。この貨車が子供の国の貨車のように小さいのである。これもまたショック、朝鮮の貨車に比べると本物の貨車のようには思えない。「エッ、コレ、ナニ?」なのである。急に狭いところに閉じこめられる恐怖感に襲われて、少しでも広く荷物で陣取りをしたけれど、段々と押し狭まれてしまった。

昭和15年、朝鮮に渡った時はまだ就学前だったので、内地の生活でおぼろげに記憶に残っていたのが昭和13年の阪神大水害、それに昭和15年の紀元2600年祭ぐらいである。私のすべては朝鮮で形作られたものと云ってよく、博多港に上陸した私にとっての日本は『異国』であったのだと思う。懐かしさというような感情とはおよそ無縁であった。

関門トンネルを通り抜ける時は興奮した。朝鮮に住んでいる間に完成したことを知っていたからで、引き揚げ船の着く港が山口県の仙崎ではなく、博多であることを聞いた時から期待していたのだ。その関門トンネルを通り抜ける前の門司だったか、後の下関だったか覚えていないが、そのいずれかで貨車から客車に乗り換えたと思う。

広島が原爆の被害にあったことを知らなかったと思う。引き揚げ列車は当然広島を通過したはずであるが、その状況についての記憶は皆無である。最後に記憶しているのは汽車が姫路駅に到着して家族全員が下車した時のことである。

プラットフォームに荷物と一緒に佇んでいる間に、父が駅長室を尋ねて行った。母の姉の連れ合いがかってはお召し列車を運転したことのある運転士で、まずはその家を頼るべく消息を聞きに行ったのだ。しかし駅長室から戻った父は、その伯父が空襲で爆死したことを伝えたのである。

それからどのようにたどり着いたのか、気がつけば加古川にある母の実家に一家が転がり込んでいた。やがて父が鐘紡に復職して、私の生誕の地である播州高砂の鐘紡社宅に舞い戻ったところから一家の再生が始まった。