日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

昔の日本人ていいなぁ(その二)

2005-02-12 17:56:16 | 在朝日本人
中谷宇吉郎随筆集の「I駅の一夜」を始めて読んだ時に、「ああ、そうなんだ」と子供の頃の経験を改めて思い出した。

昭和20年11月のある日、日本への引き揚げ者を満載した貨物列車がひたすら釜山を目指して走っていた。「ひたすら」と云うのは引き揚げ者の思いであって、その実、貨物列車は駅でもないところでよく気侭に停まった。貨車の重い引き戸を開けては『積み荷』が外に飛び降り、用便をたすのである。しかし、機関士が列車を停めるのは別の本来の目的があったのかも知れない。世話役が貨車を一台ずつ訪ねては『積み荷』から金品を徴収する、それを機関士に手渡す、すると列車は動き出す。京城を離れてから何度もそのようなことを繰り返して、ようやく貨物列車は釜山に到着したのである。

引き揚げ船にいつ乗船できるのかわからない。それまで引き揚げ者は『収容所』で待機するのである。父母に長男の私を頭として長女、次男、三男の五人家族の『収容所』となったのは「本願寺」であった。この一文のために調べたところ、これはどうも東本願寺釜山別院であったらしい。その本堂に引き揚げ者がめいめい荷物で仕切った居所を作り上げた。

引き揚げ者の全財産は身体で運べるだけのもの。私の場合は両肩から「頭陀袋」を襷がけして背中には赤ん坊の弟を背負い、両手も手ぶらではなかったと思う。大人は背中に『背負い袋』である。移動の途中に休憩となると、大人はそのまま地面にひっくり返った。背中に弟を背負った私はそんな乱暴は出来ないので、大人を羨ましく思いながらそっと腰を下ろすのだった。

身体で運ばれるだけの荷物、中身は何だったのだろう。まず衣料品。もう寒い季節だったのでかなりの厚着をしていたはずである。『袋物』の中にも着替えが納まっていただろう。愛着が残りどうしても処分できなかった着物に帯もあったかもしれない。位牌にお骨。母は姫鏡台の鏡だけを手縫いの袋に大事に入れていた。もちろん貯金通帳や国債にもろもろの「重要書類」、子供の通知簿とか卒業証書、それに思い出の写真プリントなど、人様ざまの思いで選びに選び抜いた『貴重品』であったに違いない。

一人が持ち出せる現金は1000円。5人家族なら5000円まで。内地に戻るのにいまさら鮮銀券ではあるまいから日銀券に換えていたのだろうか。着物とかの衣服、毛布の縁などに制限外の紙幣を縫い込んだとか、そのような話を耳にした。でも子供の耳に入るぐらいだから、取り締まる側にしては摘発するのは赤子の手を捻るよりも容易かったのではないか。でも秩序が無いようで有るようで、有るようで無いようで、取り締まりの主体が誰か知りようはなかった。米兵であったかもしれない。港に米兵の姿がよく目立った。DDTの粉末を吹きかけたのも米兵であったが、チョコレートを呉れたのも米兵であった。

お寺に何日滞在したのだろう。今となっては思い出せない。でも2、3日でなかったことだけははっきりしている。その間、食事をどうしたのか、これも思い出せない。でも米に缶詰をはじめとしてかなりの食料品を身につけていたのは確かである。一番の重量物であったかもしれない。朝鮮人も食べ物を売りに来た。細く刻んだ沢庵を芯に捲いた海苔巻き一本が一円だったか十円だったのか、きりのよい値段だったのは記憶に残っている。

ご飯を飯盒で炊いていたのは間違いがない。薪を探しに出かけたからである。芝刈りの山があるわけではない、燃えそうなものを探し歩くだけ。と、格好なものがあった。建物の腰板のようなものである。すでに何枚も剥がされた痕がある。そう簡単にはずれはしなかったので力を込めて揺すっていると「止めなさい」との声がかかった。日本人の小父さんである。せっかくの建物を壊すのはもってのほか、日本人がそんなことをするものではない。朝鮮の人に大切に使って貰わないといけない、とお叱りを受けたのである。嫌もおうもなく目上の人の指図に素直に従った。

引き揚げ船が出るまでの毎日、何をしていたのか。実はその間に吉川英治作の「宮本武蔵」を読み上げたのである。私は本好きの子供であった。国民学校の低学年からフリガナを手がかりに、父の書棚にあった難しい本を読んでいた。それだけでは飽きたらず、本好きのもの同士がお互いの家にある本を借り貸ししあったものである。かなりのページがXXXXで埋め尽くされていた中央公論社版の千夜一夜物語も借りて読んだ覚えがある。

本を持っている人から本を借りるのは私の特技でもあったのかも知れない。釜山の本願寺の本堂で、誰かが『宮本武蔵』を読んでいるのを目敏く見つけて頼み込んだのにちがいない。昭和20年3月に京城から鉄原に疎開して以来、本から切り離された生活を強いられていて、本に対する渇望が溜まりに溜まっていたのだろう、むさぼるように読み続けたことを覚えている。お通に朱美、沢庵和尚などの名前がその時はじめて私の脳裏に刻み込まれたのである。嬉しいことに、物語は次から次へと展開する。他に何をすることもない。一巻一巻と読み進んだ。

調べてみると『宮本武蔵』には六巻本と普及版の八巻本があった。私の読んだのがどちらなのか分からない。いずれにせよ全巻だとかさもあり重量もある。その大きな荷物を着の身着のままの引き揚げ者が日本に持って帰ろうとしていたのだ。家族から、そんなものよりももっと大事なものがあるでしょう、と云われたのを強引に持ち出したのかもしれない。宝ものだと言い張る父親に家族が気を合わせて、では分け持って帰りましょう、と云うことだったのかも知れない。いずれにせよ不要不急の「宮本武蔵」に我を忘れさせられたのが私の『朝鮮』の締めくくりであった。

「I駅の一夜」を読んで何故あのときあんなところに「宮本武蔵」があったのか、なんとなくふしぎに感じていた疑問への答えが出たのである。そこに『日本人』がいたからなのである

亡父もモロッコ革表装の「聖書」を『袋』の底に忍ばせて持ち帰った。60年後の今は私の次弟宅に落ち着いている。