日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

煙草嫌いでうっぷんを晴らしたい人に

2005-02-15 21:06:10 | 読書
「三朝温泉」に行ってきた。汽車に乗りたかったし、温泉に浸かりたかったし、カニも食べたかったし、おまけに家事から解放された妻からも感謝されるだろうというオマケも期待できる。

JR倉吉駅から旅館差し回しのマイクロバスで旅館に到着し、チェックイン手続きの時間待ちにロビーで休むつもりで歩きかけた足がピタリと停まった。『煙草の煙』が押し寄せてくる、ロビーが喫煙自由なのである。仕方なしに出来るだけ人から離れた片隅に、部屋に案内されるまでの時間を過ごすことにした。

『健康増進法』が施行されてその第二十五条に「学校、体育館、病院、劇場、観覧場、集会場、展示場、百貨店、事務所、官公庁施設、飲食店その他の多数の者が利用する施設を管理する者は、これらを利用する者について、受動喫煙(室内又はこれに準ずる環境において、他人のたばこの煙を吸わされることをいう)を防止するために必要な措置を講ずるように努めなければならない」とある。「その他多数の者が利用する施設」に「鉄軌道駅、バスターミナル、航空旅客ターミナル、旅客船ターミナル、金融機関、美術館、博物館、社会福祉施設、商店、ホテル、旅館等の宿泊施設、屋外競技場、遊技場、娯楽施設等多数の者が利用する施設を含むもの」が含まれている。

平ったくいえば、人の集まる場ではその施設の管理者が、吸いたくない人が煙草の煙を吸わなくてすむように「必要な措置を講ずるように努めなければならない」というのである。

「必要な処置を取らなければならない」と私なら書くが、この持って回った言い様は「うるさく云う人がいるから気をつけてね」という意味なんである。

ごく最近も神戸旧居留地にあるさるホテルの2階レストランで嫌な眼にあった。
入り口を入りそのままテーブルに通されたのでなんとなく嫌な予感がしたが、予感が的中したのである。このごろ客に喫煙の有無をたずねるレストランは確かに増えてきた。しかしここでは聞かれなかったのは「喫煙席」「禁煙席」の区分がなかったからである。さらに運の悪いことに、隣席の女性客二人の内の一人が席に着くやいなや煙草に火をつけたのである。

中華料理店などで円卓に相席にされた時に、となりの客が煙草を吸っても一本は我慢することにしている。しかし二本目に火をつけようとしたらお願いをする。「私は煙草の煙が嫌いなのですが、このお店は全店喫煙OKのようなので、私も一本は我慢しました。で、恐れ入りますが、二本目からはご遠慮頂けないでしょうか」と。これまで快く聞き入れてくださる方ばかりだったので、それ以上不愉快な思いをしたことはない。

ところが女性客に声をかけたことはあまりないので、ちょっと躊躇している間に声をかけるタイミングを見失ってしまった。彼女がチェインスモーカーなのである。それで不愉快を我慢して様子を見守ることにした。レストランだから当然料理を食べる。普通は食前に煙草を吸っていても料理が供されると煙草を止めて料理を楽しみ、コーヒがくるとまた再開ということが多い。この女性は料理の合間にも煙草に火をつける。結局6本の吸い殻を灰皿に残した。煙がこちらに流れてくると私は優雅な素振りで煙を押し返そうとする。押しつけがましくなく、でも気づいてくれることを期待してのジェスチャーである。この女性にはまったく効き目がなかった。

勘定を支払う時にレストランの責任者に出てきて貰い、なぜ「禁煙席」がないのかを尋ねた。すると以前は「禁煙席」を設けていたけれど、喫煙者が多いので「禁煙席」を廃止したとの返答が戻ってきた。確かに一度は「努めた」のである。それが達成できなかっただけのことである。この法案の立案から成文化までが煙草の煙がもうもうと立ちこめる部屋でなされた光景が私の目の前に浮かび上がってきた。まさに「うるさい奴がいるからちょっと格好をつけよう」というのがこの25条にありありと刻まれている。とにかく、空気を汚す犯罪的な喫煙者がいぜんとして大手を振っているのが日本の現状である。

ここでようやく中田喜直氏のご出場である。

ここに紹介する氏の随筆集は「音楽と人生」。日本人なら必ず一度は氏の作曲になる歌を歌っているはずである。ところが私は音楽好きの方に知って頂きたくてこの本を取り上げたのではない。私のように『煙嫌い』で、日常嫌な煙に悩まされ、ところが『悪貨』に駆逐された『良貨』の憤懣やるかたなき思いを少しは慰めて頂くためにである。というのも氏は徹底的な『タバコ嫌い』で、「音楽とは何か」ではじまる第一章から《日本は騒音とタバコにだらしがない国だ》《喫煙も騒音と同じ、粗雑な神経の人達》なんて言葉がバンバン飛び出す。

《喫煙者は知識人とは言えない(文明人ではない、とも言える》
《不潔な馬鹿女  私はレストラン他、飲食店、ホールのロビー、列車の中、パーTイ会場で喫煙している女性を見ると、そう思って心底から軽蔑する。・・・・・若い女性に対してはほとんど容赦しない。飽衣飽食、ぜいたくが出来て楽しいことがいっぱいあるのに、今時、今さらタバコをすうなんて大馬鹿女だ。それに気がつかないで自分では格好いいと思っているのだから全くのお笑いだ。そして悲劇でもある。》

いやはや、お激しいことである。少しは溜飲がさがるでしょう。

多くの著名人がタバコを吸うが故にバサリ、実名でずらりと登場する。そんな人の書いたものなんて読まない、と。その理由は《簡単に云えば、人前でタバコを吸うことを恥ずかしく思わない人は、文明人でも知識人でもないから、そんな人の書いた者を読むのは時間の浪費である》。それよりなにより本の買い方でも《著者がくわえタバコ、あるいはてにタバコやパイプを持っているような写真が出ていたら、まずその本は買わない》のである。

同じ作曲家仲間でも「パイプのけむり」を書いているばっかりに團伊玖磨氏も一刀両断。

300ページあまりの本の内、1/3がタバコがらみである。ご本人も少しは気にされたのだろうか、あとがきにこう述べておられる。《美しい文章の爽やかな随筆集ではなく、まったく反対の本になってしまったかも知れない。しかし、この本を読まれて、ご自分で色々考えて行動されれば、しあわせな人生の方に進まれるのではないか、とそれを希望している》

うっぷんを晴らされたら、せっかくのことゆえ音楽の話のページもめくられたらいかがであろうか。