昨日(9月3日)朝日朝刊社会面が久米三四郎さんの死去を報じていた。私のイメージにある久米さんに、83歳という年齢はてんでそぐわないな、と思ったのが第一印象である。
昭和31年の春、当時中之島にあった阪大理学部に神戸から通い始めた。家から通える大学、というのが五人兄弟の長男である私に両親が示した進学条件だったのである。生物学科に進んだが、化学も好きだったので分析化学の実習を選択した。当時は学科の壁は無いのも同然で、最初のオリエンテーションで教室主任の本城市次郎先生から、せっかく生物学科に来たのだから、卒業するときに履修した単位が数学だけだった、ということにはならないように、と釘をさされたぐらいであった。その分析化学実習で指導して下さった先生方のお一人が、当時助手の久米三四郎先生だった。質問攻めが私の趣味だったので、なにかとまとわりついたことだろうと思うが、具体的なことは何も覚えていない。先生と学生の接触はこの実習だけで終わってしまったが、後年、思いがけないことである関わりが生まれたのである。
私は理学部の助手になっていて、阪大理学部教職員組合の委員長をしていた。そこで久米さん(と呼ばしていただく)と対峙することになったのである。その当時、教職員組合はおもに事務職員の待遇改善などに取り組んでいて、理学部長との交渉などを通じて一定の成果を挙げていた。組織率は教員で三分の一から半分、事務職員はもう少し上回っていたかもしれない。わりと大きな組織だったと思う。この組合は日教組の傘下にあって、日教組の指令によりストライキめいたことも時にはやっていた。すると処分を受けるのは決まって事務職員で、教員(当時は文部教官といっていた)には甘いところがあって、そのせいもあってか、組合委員長は教員の指定席のようなもので、余程の事情が無い限り選ばれた教員はその役を受け入れるのが常であった。
私が委員長に就任したときは大きな問題が進行中だった。大阪大学で各学部にそれぞれある教職員組合を大阪大学教職員組合に統合し、各学部にあった教職員組合は、その支部とするとの動きなのである。理学部でも統合について侃々諤々の議論が湧き上がっていたが、久米さんはその統合に反対のお一人であった。理学部執行委員会では統合に決まり、それを組合員大会に諮ることになったが、統合反対派はもし阪大教職員組合に一本化されるのであれば、組合を脱退すると意思表示をして、一本化反対を迫った。私は立場上、反対派の人々に留まっていただくべく、時間を割いて一人ひとり説得に乗り出したのである。
久米さんを始めとして反対派の人々は、それまでも組合活動にも熱心に参加しており、考えも主張もはっきりしており、私は逆に教えられることが多かった。論点の細かいことはもう記憶にないが、一口に言えば反対派は今の「小さな政府」、「地方分権派」で、私も個人的には惹かれるところが多かった。それと理学部ではストライキ処分を巡って、裁判が進んでいた。ストライキに参加したことで処分された職員が、それを不当処分として提訴したのである。今はその中身には触れないことにするが、形の上では個人訴訟であるものの、教職員組合は職員の側に立って支援する立場をとっており、現実には久米さんはその有力な支援メンバーだった。もし組合が統合されると、この支援基盤が弱くなるなるのでは、と懸念されたことも統合化反対の一つの理由であった。
久米さんとは何回かお目にかかって、話し合いの時間は延べにすると数時間におよんだ。私の話にもよく耳を傾けて下さったが、一方では諄々と私を翻意させんとばかりにご自分の考えを述べられた。何が意見に違いの生み出しているのか、そこまで話し合って明らかになった以上、後はお互いが自分の信じる行き方を選択するだけだ、と納得ずくで話を打ち切ったのである。反対意見のものであれ、理性的にまた粘り強く自分の考えをぶつけることの出来る器の大きな人、とその人柄に打たれた思いがある。結局、私は阪大理学部教職員組合の最後の委員長となった。
久米さんが科学者としての健全な批判的精神を行動規範とし、行動する科学者として知る人ぞ知る大きな存在となられたのは、さらに時間が経ってからのように思う。記事に『反原発住民運動の「理論的支柱」「知恵袋」として知られた』とあったが、あのままの久米さんだったのだ、と私は思った。
私のあらまほしく思う日本人がまた一人、この世から姿を消した。