6月のブログ高齢者に医者離れのすすめのなかで立川昭二著「病と人間の文化史」、「いのちの文化史」(ともに新潮選書)の記事を引用させていただいたが、その立川さんの新しい著書を本屋で見つけた。タイトルは「年をとって、初めてわかること」(新潮選書)で、帯には「老い」の愉悦が喧伝されている。私はまだそういうことが分かる年齢ではないので、どんな愉悦が待ってくれているのか気になり本を買ってしまった。「老い」が基調にある文学作品の紹介にもなっており、私もまだ知らない作家、湯本香樹実さんの「夏の庭」や青山七恵さんの「ひとり日和」を読みたくなった。
斎藤茂吉の最後の歌集「つきかげ」の紹介は次のように始まる。《斎藤茂吉は老化にともなう頻尿症であった。六十五歳の彼が左手に「極楽」と名づけた溲瓶がわりのバケツを提げ、右手にこうもり傘を杖がわりにして、東京の家に帰りついたのは昭和二十二年十一月四日の朝のことであった。》この溲瓶という文字から私は作曲家の團伊久磨さんを連想してしまった。
團伊久磨さんは随筆家としても世に知られていた。週刊誌だったろうか、かって朝日新聞が出していた「アサヒグラフ」という雑誌に團さんが「パイプのけむり」という欄で随筆を連載しており、ある程度まとまったら単行本として出版されていた。團さんもこの執筆のために毎週木曜日と金曜日は机の前で時間を過ごすという力の入れ方で、世評も高く次々と「パイプのけむり」シリーズがが少しずつ表題を変えながら続刊された。そのかなりが今も私の書棚の一角を占めている。
團さんは言葉遣い文字遣いに一家言があり、その厳しさが魅力的であった。文章にえもいわれぬ味と気品があり、私も文章と人生の師として私淑したものである。そして私の人生を大きく変えたのが次の一文であった。まずその出だしを声を出して朗読すれば、簡にして要をえ、科学者のように正確に事柄を説明していることが実感できる。
なぜ文頭にあるように各室に溲瓶を具えることになったのかといえば、アメリカが月ロケットの打ち上げに成功したのがきっかけになっているのである。その箇所を少々長くなるが引用する。
《あの日、正確に言えば去年の7月31日の夜、僕はトイレットの中に蹲りながら、こうも原子力の開発が進み、今日はロケットさえもが月に届いたという現代において、人間が、いちいち尿意、もしくは糞意を催す度にトイレットに通うなどという、全く以て原始的な行為を続けていて良いものであるかどうかに、深く考えを致したのである。世間一般の人々は、一方では宇宙旅行を論じながら、他方、自分の行っている日常生活の中の愚行に気づかずに、昔ながらのトイレ通いを続けて平気であるようだが、どうもこれは可笑しい。よし、この際、月ロケットが月面に到着したことを記念して、小生は、本日只今より、小用のために厠に赴くという陋習を自宅においては全廃して、以後、随時随所、居ながらにして用を足すことに使用と決心をして、急遽、家人を薬屋に走らせ、計四個の溲瓶を入手、客間、居間、書斎、寝所の四室にそれを一つずつしつらえたのである。(中略)
この日以来、僕は溲瓶愛用者となり、文明生活を送っている。》、と理路整然に論を進める。
溲瓶の取り扱いにベテランとなった團さんは、教えたいことが山ほどあるが、と言いながら《上品な本書の紙面をこれ以上汚すのもなにかと思い、止めることにする。ただ書き物のために机に向かっている時と、掘り炬燵に客と対座している時に、トイレに立たなくて済む便利さは筆舌に尽くし難いということだけは御伝えしたく思う。》と気を配っておられる。
この文章を目にした当時、私は両親と同居しており、二階で寝起きしていた。ところが寝所から一部屋横切り階段を下り、さらに鍵型に廊下を伝いトイレに通うのは、とくに寒い季節は苦行であった。しかし團さんの一文が私に衝撃を与えた。私が急行した薬屋で手に入れたのはプラスティック製であったが、性能は陶器製、ガラス製に引けを取らなかった。しかし寝所で使うことだけはと、妻の懇願に負けて廊下に持ち出すことにした。まさにパラダイムシフトであった。10年前に陋屋を新たに構えた際には各階にトイレを作り、残念ながら溲瓶から遠ざかることになった。現在唯一の溲瓶は車のグローブボックスに収まっているMade in USAである。
これまでに一度だけ役立たせたことがある。渋滞にひっかかり二進も三進も行かなくなった時のことである。ナルゲン製できわめて頑丈、容量は1リットルで口も広くて安心して用を足せる。この時は車内に一週間も置き忘れていたが、その間液体は毫も変化せず全く透明のまま残っていたのにはなんて清浄なんだろうと感激した。今でも車内という限られた空間であるが、溲瓶を身近に置いている安堵感はなにものにも代え難い。ちなみに斎藤茂吉の「極楽」は山形県上山市の斎藤茂吉記念館に展示されているそうである。
斎藤茂吉の最後の歌集「つきかげ」の紹介は次のように始まる。《斎藤茂吉は老化にともなう頻尿症であった。六十五歳の彼が左手に「極楽」と名づけた溲瓶がわりのバケツを提げ、右手にこうもり傘を杖がわりにして、東京の家に帰りついたのは昭和二十二年十一月四日の朝のことであった。》この溲瓶という文字から私は作曲家の團伊久磨さんを連想してしまった。
團伊久磨さんは随筆家としても世に知られていた。週刊誌だったろうか、かって朝日新聞が出していた「アサヒグラフ」という雑誌に團さんが「パイプのけむり」という欄で随筆を連載しており、ある程度まとまったら単行本として出版されていた。團さんもこの執筆のために毎週木曜日と金曜日は机の前で時間を過ごすという力の入れ方で、世評も高く次々と「パイプのけむり」シリーズがが少しずつ表題を変えながら続刊された。そのかなりが今も私の書棚の一角を占めている。
團さんは言葉遣い文字遣いに一家言があり、その厳しさが魅力的であった。文章にえもいわれぬ味と気品があり、私も文章と人生の師として私淑したものである。そして私の人生を大きく変えたのが次の一文であった。まずその出だしを声を出して朗読すれば、簡にして要をえ、科学者のように正確に事柄を説明していることが実感できる。
なぜ文頭にあるように各室に溲瓶を具えることになったのかといえば、アメリカが月ロケットの打ち上げに成功したのがきっかけになっているのである。その箇所を少々長くなるが引用する。
《あの日、正確に言えば去年の7月31日の夜、僕はトイレットの中に蹲りながら、こうも原子力の開発が進み、今日はロケットさえもが月に届いたという現代において、人間が、いちいち尿意、もしくは糞意を催す度にトイレットに通うなどという、全く以て原始的な行為を続けていて良いものであるかどうかに、深く考えを致したのである。世間一般の人々は、一方では宇宙旅行を論じながら、他方、自分の行っている日常生活の中の愚行に気づかずに、昔ながらのトイレ通いを続けて平気であるようだが、どうもこれは可笑しい。よし、この際、月ロケットが月面に到着したことを記念して、小生は、本日只今より、小用のために厠に赴くという陋習を自宅においては全廃して、以後、随時随所、居ながらにして用を足すことに使用と決心をして、急遽、家人を薬屋に走らせ、計四個の溲瓶を入手、客間、居間、書斎、寝所の四室にそれを一つずつしつらえたのである。(中略)
この日以来、僕は溲瓶愛用者となり、文明生活を送っている。》、と理路整然に論を進める。
溲瓶の取り扱いにベテランとなった團さんは、教えたいことが山ほどあるが、と言いながら《上品な本書の紙面をこれ以上汚すのもなにかと思い、止めることにする。ただ書き物のために机に向かっている時と、掘り炬燵に客と対座している時に、トイレに立たなくて済む便利さは筆舌に尽くし難いということだけは御伝えしたく思う。》と気を配っておられる。
この文章を目にした当時、私は両親と同居しており、二階で寝起きしていた。ところが寝所から一部屋横切り階段を下り、さらに鍵型に廊下を伝いトイレに通うのは、とくに寒い季節は苦行であった。しかし團さんの一文が私に衝撃を与えた。私が急行した薬屋で手に入れたのはプラスティック製であったが、性能は陶器製、ガラス製に引けを取らなかった。しかし寝所で使うことだけはと、妻の懇願に負けて廊下に持ち出すことにした。まさにパラダイムシフトであった。10年前に陋屋を新たに構えた際には各階にトイレを作り、残念ながら溲瓶から遠ざかることになった。現在唯一の溲瓶は車のグローブボックスに収まっているMade in USAである。
これまでに一度だけ役立たせたことがある。渋滞にひっかかり二進も三進も行かなくなった時のことである。ナルゲン製できわめて頑丈、容量は1リットルで口も広くて安心して用を足せる。この時は車内に一週間も置き忘れていたが、その間液体は毫も変化せず全く透明のまま残っていたのにはなんて清浄なんだろうと感激した。今でも車内という限られた空間であるが、溲瓶を身近に置いている安堵感はなにものにも代え難い。ちなみに斎藤茂吉の「極楽」は山形県上山市の斎藤茂吉記念館に展示されているそうである。