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日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

田中敬一著「ぶらりミクロ散歩 ―電子顕微鏡で覗く世界」は楽しい

2010-08-26 10:02:45 | 読書

この岩波新書の帯の文句に惹かれて手に取ったところ、なんだか面白そうなので早速買い求めた。読んで(眺めて?)いるとわくわくしてくる。「子供の科学」のような雑誌の科学記事を貪り読んでいた科学少年時代に引き戻されてしまった。電子顕微鏡で手当たり次第いろんなものを見ていく。肉眼では見えない微少な構造物がユニークな姿で浮かび上がってくる。それを眺めるだけでもう十分なのである。

電子顕微鏡には学生時代に実習で手に触れたことがある。試料の調製などもした覚えがあるがなんだかややこしかった。光学顕微鏡の限度を大きく超えた10000倍以上の倍率で観察できるということであったが、何をその時に見たのかはもう覚えていない。現役時代に試料を専門家に渡して電顕写真を撮っていただいたことはあるが、数万倍の倍率写真であったと思う。

電子顕微鏡にはその程度の関わりしかなく、今の電子顕微鏡がどのような性能なのか何も知らなかったので、この本の電顕写真がほとんど数十倍から数百倍の倍率であるのに驚いてしまった。この程度の倍率ですむのなら光学顕微鏡で十分ではないか。それをわざわざ電子顕微鏡を使うとはどうしたことだろうと不思議に思ったが、著者の「はじめに」での説明で昨今の電子顕微鏡事情が納得できた。

近年、装置の進歩と科学教育振興への要望などから、比較的小さくて、性能の良い低真空走査電子顕微鏡が開発され、ごく身近な高校や、町の工場などにも置かれるようになった。
 なぜ、この種の電子顕微鏡が急に普及してきたかというと、その映像が立体的で誰にもわかりやすいからである。そのうえ、この電子顕微鏡は、採取した試料をそのまま装置にかければ、簡単にその拡大像が見えてくる。ひと昔前のように、特別な処理や走査は、もうほとんど必要ない。

これならかっての科学少年がようやく手にした宝物の光学顕微鏡であれこれ覗き込んだのと同じことが電子顕微鏡でもできることがわかる。もっとも金額ははるだろうが、こんな顕微鏡を手にしたら私でも即刻好奇心の塊の少年時代に戻ってしまうことだろう。

しかしさすがは電子顕微鏡である。ゆでタコの吸盤の47倍とか250倍の写真と併せてさりげなく2500倍のミニ吸盤の写真が出てくる。さらには嬉野豆腐の煮汁に見られた豆腐小僧なるものが17500倍、おぼろ豆腐に見られた豆腐小僧が4900倍で写真に撮られている。まさに変化自在である。

著者はこの電子顕微鏡をご自身でお持ちのようである。装置の写真も掲載されていて、「この装置にもたれて死にたい」のキャプションがついている。こんなすばらしい「おもちゃ」で八十路まで遊んでこられた著者の田中さんがとてもうらやましく思える。よほど善根を積まれた方なんだろう。目で見えるものをそのまま伝え、想像力がかき立てられるままに空想の世界に羽ばたき、しかし分からないものはそのままにしておく潔さがこの科学エッセイの大きな魅力である。エアコンが壊れた炎暑のさなか、いい暑気封じになった。

赤染晶子著「乙女の密告」は私には合わなかった

2010-07-26 14:45:22 | 読書

書店で中島京子著「小さなおうち」に並んでこの本があった。手に取ると持ち重りのしない感触がいい。厚さが15ミリでページを開くと上下のマージンが大きくて、行間の空いているのがいい。活字がもう少し大きかったら歌集か詩集のような感じになったことだろう。やっぱり紙の本は捨てがたい。この人、赤染衛門の血を引いているなんてことになったら面白いなと思いながら手を出した。


京都の外国語大学での教室シーンから始まる。日本人教授が講義しているはずなのに、そこへドイツ人教授が乱入してきて、勝手なことを喋り始める。私が日本人教授ならチョークを投げつけるところだと思った途端、読むべきか読まざるべきかと迷いが生じた。情況が作り物めいている。他の教授の講義を妨害するのは刑法に触れる行為であろう。こんなことが「今月はもう二回目だ」と書かれている。このような犯罪的行為が是正されることもなくまかり通っている大学なんて、と思ったらわざとらしさが感じられて素直についていけなくなった。生真面目人間(私のこと!)とは困ったものなのである。

でも1200円出して買ったことだし、と、とにかく読み進んで終わりまで来た。朝日新聞には

◆芥川賞「乙女の密告」 巧みさ評価、圧倒的支持

 芥川賞に決まった赤染さんは、アンネ・フランクが昨年生誕80年を迎えたことをきっかけに『アンネの日記』を再び手に取った。受賞作は、その『日記』の本質を、外国語大学の女学生である「乙女」が理解していく物語。「日本人の女の子たちの世界を乙女という作り物にして描くことで、アンネの日記の世界のリアリティーを強調したかった」

 自らの問題意識のもとで歴史をユーモラスに再検証する作風について選考委員の小川洋子さんは「ある区切られた空間の中にある人数の人が集まると、理不尽なことが起きる。大学の教室の中で乙女と呼ばれる生徒たちが二つの派閥に分かれて争い、密告が起こるというのは、アンネ・フランクの身に起きたことに重なる。二つの世界が結びつく巧みな小説」と評価した。
(asahi.com 2010年7月17日)

と選評が紹介されているが、私は残念ながら最初に変なことで引っかかったものだから、著者が「アンネの身に起きたこと」と「大学の教室の中で乙女と呼ばれる生徒たちの間の出来事」の辻褄合わせに一生懸命のところだけが目についた。感動することがなかったので、著者の目指すものが何か、理解出来ないままであった。この著者の作品にふたたびお目にかかることがあるだろうか。

中島京子著「小さいおうち」が与える静かな感動

2010-07-25 17:19:11 | 読書
第143回直木賞の受賞作品、中島京子さんの「小さなおうち」が朝日新聞に『戦前から戦争下へと向かう時代の中産家庭の暮らしぶりを、戦後の視点から「暗くて悲惨」に描くのではなく、その時代に生きた人間の感覚で「軽やかでリアルに」描いたことが高く評価された。その背景には、膨大な資料の読み込みと咀嚼(そしゃく)があり、直木賞の選考経過を発表した林真理子さんは「なめらかに表現されている」と評価した。』と取り上げられていた。まさに私の好みの題材なので、本屋の店頭にこの本が並ぶのを待ちかねて購入した。


東北の一県からタキが女中奉公で東京に出たのが昭和5年の春で、最初は小説家の家に勤めたが、その翌年、小説家の知り合いの娘さんに幼い子どもがいて手がかかるのでと乞われてそこの女中となった。しかしこの時子奥様、旦那様の不慮の事故死で男の子一人とともにとり残されるが、やがて二度目の結婚話が持ち上がり、見合の席で赤い瓦屋根の洋館を直ぐにも建てます、とアピールした男性に子連れ女中連れで嫁ぐことになる。それが昭和7年のことで、約束の赤甍を載せた二階建ての洋館が建ったのはその3年後である。このように当時としてもお洒落な洋館を新築することが出来、また女中を一人ぐらいは置くような平井家の家庭とその周辺の日々の営みが、タキによって書き連ねられる。この時代は私が生まれて成長した幼少年時代と重なっているので、素直に物語を追うことが出来て、自然と湧き起こるノスタルジアが快かった。

そして戦争が始まり、昭和19年ともなると世情も騒然としてくる。ついにタキも平井家を出て故郷の山形に戻るが、疎開児童の帰京に同行して東京に出て時子に再会する。近況を話し合ったあと、次のような会話に移る。

「ねえ、タキちゃん、いま、何が食べたい?」とおっしゃった。
「え? いまですか? さっき、上野でお昼を食べましたから」
「そうじゃないのよ、そうじゃなくて、もし、いま、何でも好きなものを食べられるって聞いたら、どこの何を食べたいかって話なの。恭一(息子)といっしょに、これを始めると、旦那様、すごく怒るのよ。いやしいことを言うって、おっしゃるの。でも、いいじゃないの、ねえ? 思い出して、楽しんでるだけなんですもの、たとえば、そうねえ、コロンバンのショートケーキが食べたいわ」
 私はびっくりして奥様のお顔を見つめ、奥様はぷっと噴き出された。
「どうしたの、タキちゃん。だから言ったでしょ。楽しんでるだけよ。これから食べようって、話じゃないのよ」

急に涙腺が緩んでしまった。恥ずかしくて口には出せなかったけれど、頭の中でそういう自問自答していた昔を思い出したからである。母の婦人雑誌にある料理やケーキのカラーグラビアを眺めては楽しんでいた。

第一章から始まり話はすでに第七章まで進んでいる。昔を思い出すエピソードが適当に出てくるが、ここに至るまで物語はどちらかと言えば淡々と進められるものだから、一体どこがよくてこれが直木賞?との思いがちらちらと頭を掠めるようになった。それが最終章にいたって思いがけなく急激に展開し、上手に仕掛けられていた伏線に思い当たるようになる。そう思ってみると物語構成が結構論理的でよく計算されていることに納得がいく。ただそれにしては最終章がそれまでのテンポに比べて急ぎすぎのようにも感じたが、読み終わると、あれほど物語の中で生き生きとしていた人がもはやこの世にいないんだなと思い当たるにつれて、心地よい静かな感動が全身を浸していた。間もなく敗戦の日を迎えるこの季節、蝉の声に耳を傾けながら楽しむのにもってこいの小説のようである。


白鵬46連勝! そして新田一郎著「相撲の歴史」が講談社学術文庫に

2010-07-24 23:15:19 | 読書
大相撲名古屋場所14日目、横綱白鵬が大関日馬富士を倒して連勝記録を46に伸ばし、あの大横綱大鵬の45連勝を超えて昭和以降双葉山69連勝、千代の富士53連勝に次ぐ3位の座を占めた。ネットでニュースが伝えられるのを追うなどして、大相撲久しぶりの大記録の樹立に私も興奮した。連勝記録がどこまで伸びることやら、双葉山を超えて欲しくなる。

私がかって通っていた京城府公立三坂国民学校にはプールのほとりに相撲の土俵があり、大関名寄岩の一行が立ち寄って取り組みを行ったのを、当時3年生か4年生であった私が土俵際で見たことがある。最近の近畿三坂会で、その時褌を巻いて土俵に上がり、名寄岩と取り組んだという上級生にお目にかかり話しが弾んだ。相撲取りを目の当たりにしたことが切っ掛けとなって、相撲紙人形をこしらえて遊んだり、弟たち相手に相撲を取るぐらいではあったが相撲好きになってしまった。高校一年生の時、担任は体育大学を出た体操の教師であったが、体育の時間に相撲を取ることになり、私は足取りに徹することを決めてその教師に立ち向かい、見事勝利を収めた誇らしい?記憶がある。今にいたるも大相撲が始まると、ニュースでその日の取り組み結果を見ないことには落ち着かないのである。

名古屋場所が異例ずくめの経緯を辿っているが、それはそれなりに理由があってのこと。その一部は大相撲が変に国技に祭り上げられてしまったことにも由来すると思うが、私は日本相撲協会を「相撲特区」にすべしで持(暴?)論を展開しているので興味のある方はご覧いただきたい。

この記事の中で私は新田一郎著「相撲の歴史」(山川出版社)の一文を孫引きさせていただいたのであるが、その本が最近講談社学術文庫と装を改めて出版されたので手にすることが出来た。


先ず驚いたのが著者新田一郎氏の経歴である。こういう類の本を書かれるのだからかなり年配の方かと思ったら、なんとなんと、1960年生まれの方なのである。そして現在、東京大学大学院法学政治学研究科教授、日本法制史専攻、東京大学相撲部部長、日本学生相撲連盟理事とある。へぇ、と思うには当たらない。なんせこの著者は学生時代にはマワシを締めて蔵前国技館の土俵にも登っているのだから。巻尾の『二十一世紀の相撲―「学術文庫版あとがき」にかえて』にもあるが、この本はその著者をして次のように言わしめているまことに力のこもった作品なのである。。

 本書の原型は、一九九四年六月に山川出版社から刊行された。私の最初の著書であり(それゆえ、「相撲と法制史と、いったいどちらが本業なのか」という、立場上正直には答えづらい質問を受けることも多い)、相撲史の全体にわたる記述としては今もって他に代替品なし、との自負をもつ。

「あとがきにかえて」には次のような意見がすらっと出てくる。

「品格」を論ずるならば、昔日の(たとえば明治時代の)力士の無頼豪放ぶりは到底朝青龍などの比ではなく、だからこそ、まっとうな技芸としての社会的地位を獲得するためにことさら「品格」めいたものが唱えられなければならなかったのである。

その昔日の頃、人はいかにして「力士」となるのか。

 大相撲社会は、本格的な相撲経験のない生の素材を大量に仕入れ、不適格者を次々に淘汰することによって少数の適格者を析出し、上位にゆくほど細かくなる人口ビラミッドの形状を維持してきた。他のプロスポーツとは異なり、アマチュアの有力選手という既製品をスカウトするのではなく、未経験者から時間をかけてたたき上げることによってこそ、「ちゃんこの味が染みた」と形容される「力士らしい力士」が出来上がる。

これをまた学問的?に言い直している。

 力士養成員たちは大相撲社会への「正統的周辺参加 legitimate peripheral participation」 によって修業を始め、生活のすべてにわたり先達に倣いつつ「状況的学習 situated learning」を深め、やがて「十全参加 full participation」へと歩を進める。相撲が強くなることと大相撲社会への適応とかがほぼ同期することが、予定調和として想定されている点に、この仕組みの特徴があり、そこでは、長い時間をかけて受け継がれてきた「伝統」をより深く体得した先輩が常に優位に立ち、未熟な下積みに課せられる厳しい修業が正当化されることになる。

この昔日の「力士養成法」が、すでに何かの技を身につけた外国人はやって来るし、また「アマチュア相撲経験者」も入ってくるという現在といかにぶつかり合い、その結果どのような変貌が生じるかをすでに我々は目にするようになっている。そして一方、

 丁髷・化粧マワシ・土俵入り・行司・呼び出し等々の演出装置を欠いた、いささか単純な(?)挌闘競技としてのアマチュア相撲は、相撲人気の蚊帳の外におかれており、国技館で開催される学生相撲の大会でさえ、世間の話題になることはあまりない。(「はじめに」から)

そしてこの問題は「相撲の国際化」とともに深刻さを増していく。

日本文化の伝統に根付いた大相撲の行方がはたしてありうるのかどうか、相撲ファンがじっくり考え直すに当たって、まずこの本が熟読玩味されるべきである。

百田尚樹著「永遠の0(ゼロ)」を戦争を知らない世代に

2010-07-14 16:02:52 | 読書


朝日新聞日曜の読書欄に、売れてる本としてこの本が紹介されていた。あの有名な海軍戦闘機零戦の文字が目についたのと、三面に広告が大きく出ていたので読んでみる気になった。本屋の書棚には一冊も見当たらないので店員さんに尋ねると、なんと平台の上に山積されていた。ふだんなら鳴り物入りの本は敬遠するのであるが、せっかく探し求めてきたことだしと買ったところこれが大当たり、あっという間に読んでしまった。

私はとてもよく出来た戦記、そして反戦の書だと思った。読む人の心に戦争の不条理がじんわりと浸透し、読後には戦争の愚かしさが重く沈潜する。著者は1956年生まれだからもちろん戦争は知らない。だからこそ戦記、歴史に多くを学んだのであろう、末尾に28冊の主要参考文献が挙げられている。このうち私が目を通したことがあるのはほんの数冊に過ぎない。だから未読の本のどこかに語られているのか、それとも著者が自分の思いを登場人物に語らされているのか分からないが、心を痛く打つ場面が幾つもあった。特攻隊員として戦死した祖父の軌跡を孫が調べて、祖父を知る何人かの生存者に戦争と祖父を語らせているのである。気になっほんの一部を取り上げてみる。

祖父は飛行機乗りで、当時世界で無敵と言われた海軍戦闘機零戦の操縦士であった。それほどの名機であるのに、戦争中、零戦のことを私は何一つ知らなかった。何故その名前を耳にしなかったのか、気にはなるがそれはさておき、高性能の一つとして挙げられるのが長い航続距離である。敵地を爆撃する長距離攻撃機を護衛したときは、2000キロを往復して敵地上空で交戦する。これを毎日繰り返すのが戦闘機乗りにどれほどの過重な負担を強いるものか、今のわれわれでも想像出来ることであろう。これを可能にした零戦の図抜けて高い航続距離で、世界に大いに誇るべきことだったのである。ところがかっての部下から次のような祖父の言葉が語られる。

 宮部小隊長がある時、零戦の翼を触りながら言った言葉が忘れられません。
「自分は、この飛行機を作った人を恨みたい」
 私は驚きました。なぜなら零戦こそ世界最高の戦闘機と思っていたからです。

そして航続距離の話に入る。

「たしかにすごい航続距離だ。一八〇〇浬も飛べる単座戦闘機なんて考えられない。八時間も飛んでいられるというのは凄いことだと思う」(中略)
「広い太平洋で、どこまでも何時までも飛び続けることが出来る零戦は本当に素晴らしい。自分自身、空母に乗っている時には、まさに千里を走る名馬に乗っているような心強さを感じていた。しかし―」(中略)
「今、その類い希なる能力が自分たちを苦しめている。五百六十浬を飛んで、そこで戦い、また五百六十浬を飛んで帰る。こんな恐ろしい作戦が立てられるのも、零戦にそれほどの能力があるからだ」
 小隊長の言いたいことがわかりました。
「八時間も飛べる飛行機は素晴らしいものだと思う。しかしそこにはそれを操る搭乗員のことが考えられていない。八時間もの間、搭乗員は一時も油断は出来ない。我々は民間航空の操縦士ではない。いつ的が襲いかかってくるかわからない戦場で、八時間の飛行は体力の限界を超えている。自分たちは機械じゃない。生身の人間だ。八時間も飛べる飛行機を作った人は、この飛行機に人間が乗ることを想定していたんだろうか」

私にはガツンときた。小隊長が語っているのか(著者に)語らされているのかそれはどうでもよい。元軍国少年の零戦に対する賛美とノスタルジアが一挙に吹っ飛んでしまったのである。「それを操る搭乗員のことが考えられていない」、私にはまったく欠けていた視点であった。そのエンジン作りでも思いがけない話が出てくる。零戦も開戦二年目に入ると質が落ちてきた。その事情を元整備士に語らせている。

「発動機は非常な精密機械ですから、百分の一ミリ単位で金属を正確に削る工作機械が必要なんです。いい工作機械がなければ、いい発動機は出来ません。その工作機械が消耗していけば生産が落ちます」
「その工作機械は日本製ではないのですね」
 わたしは黙った頷きました。(中略)
「でも零戦の『栄』発動機は日本製です。米国の工作機械を使おうが、この優れた発動機を作ったのは日本人です。それにこの『栄』発動機をつけた零戦は日本人が作りました」

これがまさかフィクションではあるまい。「ふぅ~」と大きなため息が洩れた。元軍国少年も知らなかったというか目を開かされたことが随所に出てくる。私がここに取り上げたのは、この本を読んでいて何度も何度も頷いたところのほんの一部である。戦争を知らない世代の方々にはぜひ目を通していただいて、かっての戦争の実相がどのようなものであったのかを学んでいただき、戦争について考える切っ掛けにしていただきたいと思う。涙を流すのはそれからでも遅くない。




守屋武昌著 「普天間」交渉秘録 は面白い ついでに沖縄科技大のことも

2010-07-10 21:21:09 | 読書

昨日この本を買ってから350ページほどを一気に読み上げた。それほど面白かったし、とくに日米合意に達したキャンプ・シュワブV字案にいたる経緯が分かってよかった。

守屋武昌氏のことは以前、なんと卑怯な小池百合子防衛大臣「罪の巨塊」とは守屋武昌前防衛事務次官のことか そしてシーメンス事件で取り上げたことがあるので、ほぼ3年ぶりのご登場である。氏は防衛事務次官を最後に2007年8月に防衛省を退職したが、その11月に在職中の収賄容疑で逮捕され、一審・二審とも有罪判決を受けて現在は最高裁の判決を待つ身であるとのことである。

守屋氏は、防衛が国の重要な問題となり、それを当事者がどのように考え、どう対応したかを記録に残したいと考えて在職中に日記を記していたが、それを元にこの本書が出来上がった。在日米軍再編の流れで、鳩山内閣の命取りともなった米軍普天間基地移設問題が起こったが、前自民党政権時代、「キャンプ・シュワブV字案」で日米が合意するに至った経緯を当事者として具に知る守屋氏が生々しく語った実録だけに、見逃すわけにはいかなかった。各人各様の受け取り方があるだろうが、私の受けた感じを思いつくままに述べることにする。

まず、沖縄の人はなかなかタフ・ネゴシエイターなんだ、と思った。「キャンプ・シュワブV字案」に落ち着くまでにいくつもの案が浮かび上がってはもみくちゃにされる。巻尾に【参考】普天間飛行場代替移設案の比較としていくつかの案が次のように示されている。

  海上ヘリポート(桟橋式、浮体式)
  軍民共用飛行場 辺野古沿岸
  キャンプ・シュワブ陸上案 演習場内
  名護Lite案 辺野古沿岸
  キャンプ・シュワブ宿営地案(L字案)
  キャンプ・シュワブX字案
  キャンプ・シュワブV字案

たとえばL字案を日米政府が合意するとさっそくそれに反対の動きが起こる。沖縄大手ゼネコンの一人の社長が守屋氏に語ったように、基地問題にはかならず裏がある。

「沖縄全体が日米両政府が合意したL字案に反対で、政府がL字案を修正して地元の推す浅瀬案に少しでも近づけば賛成にまわると、中央の政財界の人たちに思い込ませるのが狙いです。しかし浅瀬案のように海に作るのは、環境派が反対し実現不可能というのが沖縄では常識です。沖縄の一部の人々は代替飛行場を作るのが難しい所に案を誘い込んで時間を稼ぎ、振興策を引っ張り出したい。作るにしても反対運動が起きて時間を稼げるようにしたい。それで修正案を国に提示している。国を誤った方向に誘導しようとしているんですよ。地元は疲れ果てて、とちらでもいいと思っている」(104ページ)

そして大きくお金が動く。

小渕恵三総理が1999年12月に行った閣議決定で、翌年から2009年までの10年間、「普天間飛行場移設先及び周辺地域の振興」「沖縄県北部地域の振興」として「特別な予算措置」が組まれることになった。これが「北部振興策」だった。その額は毎年度百億円に上った。
 これを含めた国庫支出金により、沖縄北部12市町村は潤っていた。国庫支出金には基地関係の周辺対策費、基地交付金、「沖縄米軍基地所在市町村活性化特別事業費」なども計上されているが、その総額は1996年から2005年までに2066億円に上っていた。そのうち名護市には846億円(41%)が投入されていたが、このうち北部振興対策事業費として148億円が振り分けられている。(161ページ)

そしてこのような記述が続く。

 沖縄県にはこの北部振興策を含め、「沖縄振興開発事業費」として年間3000億円前後が支払われている(2009年度は2784億円)。(中略)
 普天間移設は8年経っても何も進まないのに、北部振興策だけは毎年予算がついていた。
「政府は沖縄に悪い癖をつけてしまったね。何も進まなくてもカネをやるという、悪い癖をつけてしまったんだよ」
 以前、太平洋セメントの諸井虔相談役からそう言われたことを、私は思い出していた。(164ページ)

正直なところ、このような話を聞かされるといい気がしない。沖縄は米軍の軍事基地があることを逆手にとって、政府から実に上手にカネを引き出しているようにすら感じるからである。政府(守屋)は最初キャンプ・シュワブ陸上案(演習場内)から出発した。そうすると沖縄はいろんな障碍を言い立てて、沿岸部の海の方へ引きずりこもうとする。沿岸部に最も近い最小限の埋め立てでいったん話がまとまると、次は出来るだけ沖の方に引き出そうとする。そこで政府がもし承知するとこんどは環境派の出番で、絶対反対を叫ぶ。移転策が頓挫し解決が長引けば長引くほど沖縄には毎年政府からカネが流れ込む。それが沖縄の狙いである。その間、一方では米軍が本当に出ていったら金づるがなくなるから、ジェスチャーだけで米軍基地を県外にとか叫んで、沖縄が虐げられている姿を世間にアピールする。これではまるで沖縄の人たちが一丸となってそれぞれの役割を演じ、政府から毎年多額のカネを上手に巻き上げているようにも見える。もしかしてかっての沖縄戦のリベンジを本土に対してこのような形でやっているのかな、とげすが勘ぐりを始めるくらいである。これでは鳩山前総理に本気で「ヤンキーゴーホーム」を叫ばれたら大変である。沖縄が米国が手を結び、鳩山さんを窮地に追い込んだという図式もあり得ることかなと思った。というのも、沖縄と米国がつるんでいる証しとして、沖縄の民間建設業者が作った「名護Lite案」を米国が自分の案として日本政府に主張してきた事実のあることを守屋氏は(54ページに)指摘しているからだ。

この本を読んでいるとさすが沖縄、一筋縄ではいかないこと覚らされる。現在の沖縄県知事・仲井真弘多氏が2006年11月の選挙で選ばれたのは守屋氏がまだ現役のころで、両者が直接相まみえていたのである。仲井真氏は旧通産省の技官で副知事を経てから沖縄電力社長・会長となり、県商工会議所連合会長を務めていた。日米両政府が合意した「キャンプ・シュワブV字案」の修正を選挙に掲げていたが、一方、県内移設は容認していた。そこで次のような下地幹郎議員から守屋氏への電話の話が出てくる。

「国場組の国場(幸一郎)元会長が訪ねてきた。自分のことを仲井間知事の使者と言っていた。仲井間知事は『V字案で二月の県議会で受け入れを表明する。受け入れ条件は、那覇空港の滑走路の新設、モノレールの北部地域までの延伸、高規格道路、それからカジノである』と」
 条件次第ではあるが、沖縄県はV字案を了解するというのであった。(248ページ)

いやはや、お見事である。そしてこれに続いて出てくる話が私にピンと来た。

 国場組は沖縄南部のゼネコンだが、尾身幸次衆議院議員(2001年の第一次小泉内閣で沖縄担当大臣)の後援会「沖縄孝政会」を支持していた。「沖縄孝政会」の設立者は仲井真氏(当時、沖縄電力社長)、支持母体は沖縄電力グループ「百添会」、砂利採取事業協同組合、それから国場組グループ「国和会」だった。国場組は仲井真氏の選挙応援もしていた。
 国場組は米軍施政下の沖縄で、1950年代から60年代にかけての米軍基地建設ラッシュ時にそれを一手に引き受け成長した沖縄最大のゼネコンだった。沖縄ではゼネコンの地域的棲み分けができていて、南部地域の国場組は北部振興には関係がなかったが、仲井真知事の提案通りになれば沖縄全体の話であり沖縄で最も技術レベルが高い国場組が受け持つ事業が多いことになる。(248ページ)

基地を人質に政府から巨額の身代金を引きずり出そうとする図式にぴったりと納まるではないか。ところでここで強調した尾身幸次衆議院議員であるが、なんとこの方は昨日の沖縄科技大、初代学長にスタンフォード大教授とはを書くときに調べた独立行政法人 沖縄科学技術研究基盤整備機構でお目にかかったばかりなのである。その始めの方を転載する。


この尾身幸次氏がそもそも沖縄科学技術大学院大学構想の提唱者なのである。一橋大学商学部卒業の尾身氏が誰にどう吹き込まれたのか知らないが、「世界最高水準の科学技術に関する研究及び教育を実施する大学院大学」の提唱者とは恐れ入った。この一番下にもある通り「沖縄振興計画において、本構想を沖縄の振興施策の大きな柱として位置づけ」ているのである。設立の真の動機が何であるかは自ずと明らかではないか。ハコモノさえ作れば後は野となれ山となれなのである。

つい脱線したが、このように読む立場によってなるほど、と頷ける話がこの本の随所に出てくる。とにかく基地問題に関心を持つ方にはぜひ一読をお勧めしたい。


金賛汀著『韓国併合百年と「在日」』を読んで

2010-05-27 11:00:15 | 読書

韓国併合条約が公布された1910年8月29日を以て韓国は国号を朝鮮とあらためて日本の植民地となった。今年2010年はその100年目にあたる。著者の「在日」二世金賛汀(KIM Chanjung)さんは1937年京都生まれなので、戦前の日本の空気を吸っている私とほぼ同じ世代の方であり、このことだけで読む前から親近感を抱いてしまう。それはともかく、私自身日本で生まれて朝鮮に渡り、戦前、戦中をそこで暮らした在朝日本人であるので人一倍朝鮮問題に関心は持っているものの、この本を読み終わった今、新に学んだことが思いの外多いことに驚いたというのが、率直な気持ちである。

「はじめに―韓国併合条約が締結された日」から話が始まるが、その8月29日のある出来事を次のように記している。

 朝鮮半島が沈痛な感情に覆われているとき、日本国内は祝賀気分が満ち満ちて、夜には提灯行列が繰り出され、群衆は「万歳! 万歳!」と叫んで町街を練り歩いた。

これ以上提灯行列について踏み込んだ記述はない。当時の人はいったいどのような気持ちで提灯行列をしたのからして私には分からない。朝鮮相手に戦争をして勝ったわけでもなしと思うのに、当時の日本では桃太郎よろしく鬼ヶ島征伐をして宝の山を持ち帰ったような気分になっていたのだろうか。何のための「万歳!」なのか、これは調べてみる価値があるな、と最初から課題を突きつけられた思いであった。その時代背景すら私がまともに把握していなかったからである。

全体は「I 植民地支配の幕開けと在日」と「II 植民地時代の終焉と在日社会」に大きく分けられる。なぜ朝鮮人が日本にやって来たのか、その歴史的経緯がまず述べられているが、大きな流れは『没落農民を安い労働力として企業が誘引』したことになっている。朝鮮農民の耕作地が次々に日本人地主や農業経営会社の手に渡っていったことが没落農民を産んだのであるが、その「土地収奪」の手口たるや日本人として読んでいてあまり気持ちのよいものではない。そして日本での劣悪な労働環境下での悲惨な就業情況などが書き連ねられると、細井和喜蔵著「女工哀史」に記された日本人女子労働者の労働条件や生活状況などを並び立てて、朝鮮人だけのことではないんだけれどな、とつい叫びたい心境になってしまう。それだけに少しでもほっとするような話題を見つけると気が休まるのである。ちなみに金さんは『(本文中の「朝鮮人」という言葉は、国籍を指すのではなく、民族名として使った。)』と断っているが、私もそれを踏襲している。

その一つ、「在日」は望むと望まざるにかかわらず日本帝国臣民であった。1925年5月に公布された普通選挙法の「帝国臣民たる男子にして年齢25年以上の者は選挙権を有する」との定めにより、本土に在住する「在日」はたとえタコ部屋で酷使されていようと、いかに才媛の大和撫子ですら手にしえなかった選挙権を行使できたのである。1932年の東京における衆議院選挙で、朴春琴が対立候補の浅沼稲次郎を破ったなんて話が出てくる。ところが在日の票に目をつけた浅沼が巻き返しに出て、その後の選挙で朴を破ったというから面白い。しかし残念ながらこのような話は後が続かない。

私が目を開かれたのはおもに「II 植民地時代の終焉と在日社会」のところである。在日団体として「在日大韓民国民団」(民団)と「在日本朝鮮人総聯合会」(朝鮮総聯)の存在がよく知られているが、その実態については韓国もしくは北朝鮮に親近感をいだく在日朝鮮人が加盟している任意団体ぐらいに私は思っていた。ところがこれらの団体が出来はじめてから現在に至るまで、それぞれが支持する南北朝鮮政府のご用組合であるかのように描かれている。まず出来はじめの頃であるが、

 このように在日社会に左右の思想的基盤を持つ二つの組織が全国に張り巡らされるようになり、在日社会に大きな影響を及ぼしていくことになる。ただ民団が結成された時期、在日の支持は圧倒的に朝連にあった。これらの左右の思想的基盤を持った在日の組織は何れも同胞の権益の擁護と朝鮮半島での新国家の建設のための活動方針を採択していた。しかし、双方の団体とも幹部たちは在日同胞よりも本国に目が向き、本国での新国家建設に参加したいという欲求が強かった。(中略)このような本国志向の想いは民団、朝連(後には朝鮮総連)の幹部たちの体質になって根を張り、現在に至るも、両組織の幹部たちは、在日よりも南北の両政権に視線が向き、ともすれば在日を無視する姿勢になっている。
(150、151-152ページ))

さらに

 在日が定住を意識し、祖国志向のしがらみから解き放たれようとしていた1960年から1970年にかけて、在日を代表する二つの組織は在日を見捨てたかのように本国政府の政策遂行に目の色を変えて取り組んでいた。とくに朝鮮総連の変貌が激しい。(中略)
 在日の視点を無くしていたのは民団も同様である。(中略)
 一概に言えるのは、総連も民団も、在日同胞問題は眼中になくなっていた、ということである。こうして両団体がそれぞれの政権の抗争のお先棒をかついでいるうちに、組織を見放した無党派とも言うべき在日の人たちの運動が起き始めていた。
(226、228、231ページ)

 在日の定住意識が明らかになるに従い、これまで重要視してこなかった日本での生活に必要なさまざまな権利獲得に働く人たちが現れてきた。民団、総連組織と関係のないところで、在日の人々は、生活上の必要から、日本政府が在日に認めていなかった、政府系金融機関から融資を得る運動や、公団住宅などへの入居資格の獲得に動き、担当部局とのこごの交渉で認めさせていった。
(231-232ページ)

なるほど、と思ったのは次の一節である。

 在日の定住化が、揺るぎなくなった大きな要因に、在日の婚姻問題がある。
 在日の結婚統計が取られるようになった1955年、在日の結婚は81.4%が同族同士の結婚であった。それが1965年には78.8%、1975年には67.1%、1985年には43%、1995年には28.7%、そして2001年には11.4%になり、最新の統計である2007年には9.6%とわずか9%台にまで落ち込んでいる。結婚の相手はほぼ日本人である。
(238ページ)

この数字の物語るところは大きい。若い世代はすでに日本人、朝鮮人を隔てていた大きな壁の一つ、偏見をすでに乗り越えてしまっているのである。

注目すべきは最近の話題である定住外国人の参政権問題との関わりである。

 在日の市民グループがたどり着いた結論が、「日本社会との共生」という目標である。日本は仮の住まいで、いずれ朝鮮半島に還ると考えていたときは、自分たちが日本社会の一員で日本社会の繁栄と発展を願い、住みよい社会建設に努力するという発想は生まれてこない。在日が日本社会の一員と認識した時から日本社会との共生という意識が育ち、日本社会に自分たちの意志を反映させる場として選挙権を保持すべきだとの意見が多くなっていった。
(258ページ)

私にも分かりやすい論旨である。それならば外国籍のまま参政権を要求するのではなくて、十分にその資格があるだろうから日本国籍を獲得すれば、この参政権問題は素直に解決するように思う。もちろん外国籍のままの参政権要求の動きは当分消えないだろうが、上の結婚問題の場合と同じように、もう少し時間を置けばよいのである。ただ日本国籍の取得に際して次のようなことが事実であったとするなら、これは遺憾としか言いようがない。誰が日本政府にそんなお節介をする権限を与えたというのだろう。

 1980年代まで多くの在日が、日本国籍取得を拒否した姿勢は極めて異常である。それは「同化」を強要する政策を日本政府が取り続けたからだ。その一例は、金だとか李、崔などの民族名では日本国籍取得は絶対に許可されず、改名した日本名での申請しか許可はでなかったことからでも理解出来るであろう。
(255ページ)

1990年代に入ると、日本政府も民族名で日本国籍を取得することを許可するようになっていったとのことである。

また権利の行使ということで参政権とは異なるが、「住民権」が現実的な取り扱いを受け始めていることを知った。

 1990年代に入り、各自治体では地域住民の生命と財産に関わる問題 ― 原子力発電所の建設問題や、産業廃棄物の大規模処理施設導入などの是非を全住民の賛否による、住民投票で決定する傾向が強まった。この時期、この住民投票の「住民」に在日は含まれていなかった。
(261ページ)

しかし、である。

 その後、「在日」は住民でないのかという真摯な問いかけに、三世代、四世代に亘り、地域に永住している在日を「住民」と認めないのはおかしいという、極めて常識的な判断をする自治体が現れ、2002年3月、滋賀県米原町の町村合併の賛否を問う住民投票に、町議会は永住外国人の投票を認める決議をした。(中略)
 米原町の動きは各地の自治体に影響を与え、在日に住民投票権を与える自治体は増加していった。これらの自治体は在日定住外国人に選挙権を付与する決議でも賛成に転じ、2009年現在、全国に2213ある自治体の半数以上が参政権を認めるという意見書に賛成決議をしていて、参政権問題、住民権問題は少しずつ前進している。
(262ページ)

住民権問題に関して私はまったく同意見であるが、参政権問題に関しては憲法に則って欲しいと思っている。

急ぎ足で、しかも限られたテーマについての感想を述べるにとどまったが、著者の第三者的視点からの抑制的な記述が印象的であった。ここを出発点として私なりの探求を続けようと思う。

深田祐介著「歩調取れ、前へ!」を読んで

2010-05-06 23:33:14 | 読書


「歩調取れ、前へ!」とか「大東亜戦争」とか、昭和一桁生まれには昔懐かしい言葉がこの文庫本の表紙を飾る。手を出してしまった。昭和19年、戦争の只中に暁星中学一年生となった深田祐介氏の少年時代を描く自伝的小説である。

 大東亜戦争の戦局悪化がいわば決定的になったのは昭和十九年だが、その正月を私たち一家は妙高の赤倉観光ホテルで迎え、ちゃんと三食、それもかなり本格的な洋食を食べ、スキーを楽しんでいたという話になると、一世風靡の美男俳優にして、エッセイストの池部良氏なども、
 「あれだけは許せねえな。おれが南方はハルマヘラ島で野草の汁を飲んで生きていたときに、君はステーキを毎日食っていたのか」
 とご機嫌が悪くなる。

これが小説の冒頭である。私などはご機嫌が悪くなるというより、ただ呆気にとられるのであるが、こういう資産階級が日本にもちゃんと存在していたのかと思うと、誇らしげな気分にもなるのがまた不思議である。恒産あれば恒心あり、の高潔な人種を思い浮かべるからであろう。

一口に言って私が好きなゴシップ話がふんだんに出てくる。資産階級ならではのアンテナの張り巡らしようが浮かび上がるのが面白い。さらに主人公が少年であっただけに、その時がたまたま戦争の最中だったという状況下で、雑草が勝手に逞しく育っていくように、少年少女がその時代を正面に見据えて生き抜く姿がが、丹念に語られているのがよい。今夜、たまたまNHKの番組で草食系若者についての議論が交わされていたが、あんなもの戦争がないせいや、とつい言いたくなってしまった。しかしその一方、この本に描かれた次のような場面を思い浮かべると、戦争のあまりの残酷さに軽口をたたくのを躊躇する。

米国の空軍戦略の狡猾なところは、日本側の犠牲者を増やすために、必ず囮機を使ったことだろう。
 これは東京大空襲から広島原爆投下まで一貫していた。いかに一般市民の虐殺を増やすか、という一点から考え出されたもので、その残虐ぶりはほとんど世界戦史に例を見ない。(中略)
 あらかじめ先導機が深川、浅草を中心に隅田川を挟む四地点を最重点目標に選び、先導機がここにナパーム系焼夷弾を投下、次いでこの四地点をつなぐ長方形の火の壁を作った。後続のB29集団はその火の壁の中に集中的に焼夷弾を押し込むように落とし、大虐殺を行ったのである。(194-5ページ)

そして戦後をひたすら生き抜いてきた日本人の姿が続く。草食系若者に朗読して聞かせたくなる。

車谷長吉著「世界一周恐怖航海記」を読んだばかりに

2010-04-23 14:28:24 | 読書

船に心惹かれる私ゆえ、表紙を見ただけで買ってしまった。「恐怖」も面白そうだし。

知らなかったがこの著者は直木賞作家なのである。そういえば受賞作「赤目四十八滝心中未遂」のタイトルはどこかで目にしたように思うが、これまでこの作者の作品は一つも読んでいない。ご縁がなかったのだろう。ところがこの航海記、風変わりで読み始めたら面白い。この作家がそうなのか、書いていることがそうなのか、要するにはちゃめちゃなのである。だから一気に読み上げた。

「嫁はん」の高橋順子さん、詩人の新藤涼子さんを引き連れて?三万一千五百トンのトパーズ号で横浜港を出港し、100日間世界一周航海に出かけて戻ってくるまでの話であるが、まずこの夫婦が変わっている。

新婚旅行の帰りに嫁はんに「東京へ帰ったら、本郷に家を買ってね」と言われたからといって、5年はかかったものの家を買ってしまう。すると今度は「いずれ船で世界一周旅行に連れて行ってね」と言われて乗り出したのがこの航海なのである。この浮世離れぶりにふと鳩山由紀夫さんを連想する。さらにふつうの大人なら隠しておくのが当たり前のような、いわゆる私生活の中身をあれこれとさらけ出してくるので、横浜に戻ってくるまでにこの二人がどのような夫婦なのか、自然と分かってしまった。

 順子さんは、洗面所の洗面台でパンティ、ブラジャー、靴下をいっしょに洗っている。(中略)
 ゆうべ、順子さんが洗っていたパンティ、ブラジャーが、シャワー室の天上に吊してある。嫁はんは「いまが極楽。」なのだそうである。

その順子さん、

 晩飯に鮪丼の二段重ねを喰い、興奮して、ベッドの上で脚をばたばたさせている。いますぐにもまぐわいをして欲しい、という所作。

船で世界一周とはなんと優雅なことと思っている読者には、まあその通りなんであろうがこれは、これはなのである。でもこれは序の口で、私ですら紹介するのを躊躇するような話ばかりなので、つい引用が限られてくる。

順子さんに躯を拭いてもらうとか足を洗ってもらう、とは随所に出てくる。車谷さんは風呂嫌いで臭くなるものだから順子さんが耐えかねての自衛手段のようである。それだけではない、

 昼食、帆立クリーム・コロッケ。午後、雨。朝から便秘。ところが突然、下痢。ズボンの中で出してしまう。汚れた下着を、順子さんが洗って下さる。

こういう所にしか目の行かない私も私であるが、作家のこの幼児性がなんとなく可愛い。順子さんにしたらそこがたまらなく愛おしいのだろうな、と想像するが、なんとこのお二人、並みのお人ではない。順子さんが詩人であることは分かってきたが、その順子さんがかっては東京大学女子寮にいたとか話がでてきて、東大出であることが分かる。また車谷さんも、私が慶應義塾独文科にいた頃は、主任教授は相良守峯氏であったと話に出てくるので、こちらも慶応出なのである。二人ともれっきとした高等遊民、しかし俗物であることも隠さない。とくに車谷さんは芥川賞、直木賞が死ぬほど欲しかったようである。その執念が実り、直木賞に加えて三島由紀夫賞、芸術選奨文部大臣新人賞、平林たい子文学賞、川端康成文学賞などで、その身を北朝鮮の将軍の軍服を覆い隠すワッペンよろしく飾り立てている。

この周航三人組、とくに車谷さん夫婦の有り様に興味を引かれて本を読み進んだものだから、肝腎の紀行の内容はほとんど頭に残っていない。それよりも車谷さんが今時珍しい私小説作家であることが分かってきて、まともな?作品に目を通してみたくなった。そこで昨日外出ついでに近くの本屋で買ったのが「飆風(ひょうふう)」(文春文庫)である。数編収められているが、確かに私小説。それもゴシップ大好きの私を満足させる質の高い話を出し惜しみしないのがよい。

車谷さんが心臓発作に襲われて日本医科大学付属病院高度救命救急センターにタクシーで赴いた時の話である。

 一週間の全身検査の結果、私の心臓の差し込みは、心臓の臓器そのものに障碍のある内因性の痛みではなく、さまざまな内力(ストレス)による心因性のものだという診断が下された。医者の話では、あなたは文章を書く人です、しかもあなたの小説を読んで見たら、読む人が読むだけで自分が人間であることが厭になるような内容です、そんなものをあなたは書いているのだから、心臓に差し込みが来る内力が溜まるのは当然でしょう。(「飆風」)

なぜそこまでやるのかがここに収められている「私の小説論」に出てくるが、私に言わせると私小説作家が「小説論」を発表すること自体、言い訳がましくて見苦しい。そう思ってみると、この作家、なんとなく中途半端でもある。過去三度の姦通事件が「赤目四十八滝心中未遂」の下地になり、女を「芸のこやし」にしたことが心の「棘」となったともっともらしく書いているが、戦前、姦通罪があった頃の北原白秋に比べると底が浅く感じてしまう。「もっとどでかいことをさらせ」とハッパをかけたくなるが、そうは言いながらも他の作品を読んでみたくなるのが不思議である。「読む人が読むだけで自分が人間であることが厭になる」ことをもっと経験したがっているのだろうか。これが「世界一周恐怖航海記」に隠された「恐怖」なのかも知れない。だからこそ、これまで車谷長吉を知らなかった人、とくに前途遼遠の若い方は「世界一周恐怖航海記」から遠ざかった方が無難である。

それにしても「世界一周恐怖航海記」の印税でその費用が賄えただろうと思うと、羨ましくなる。私小説作家ならたとえ後書きにでもその内訳を書き残すべきである。


辰濃和男著「ぼんやりの時間」を読んで

2010-04-19 11:54:03 | 読書


私はぼんやりというか、ぼけーっとしているのが大好きである。現役を離れて隠居の身となった今、なんの気兼ねもなくぼけーっとしまくっている。だから私のハンドル名も自然とlazybonesになった。lazybonesとは怠け者、そう、もともとぼんやりとしているのが好きなのである。私にとってぼんやりは無為に通じる。ところが著者の辰濃さんは「ぼんやりの時間」だけで、なんと新書本を一冊書き上げてしまっている。こんな勤勉な「ぼんやりの時間」てあるものか、とだまされたような気がしたが、著者の経歴を奥付きで見て納得した。辰濃さんは1975年から88年にかけて、朝日新聞の「天声人語」を担当された方なのである。歴代の天声人語子はそれこそ万巻の書を渉猟しつくした博識の権化のようなものとの思い込みが私にはある。となると答えは出たようなもの、「ぼんやりの時間」にまつわるアンソロジー、または私の大好きなゴシップ集なのでもある。迷わず買い求めたが期待は裏切られなかった。そのほんの一部だけを紹介する。

私の好きなぶらぶら歩き、すなわち散歩の名人として朝永振一郎博士の話が出てくる。

 教授時代、大学へ行く途中、ふつうは御茶ノ水駅で地下鉄に乗り換えるのだが、ふと気を変えて御茶ノ水駅から千葉行きの電車に乗ってしまうことがあった。房総の海辺をぶらぶらしたうえ、千葉の町に引き返し、名物「焼きはまぐり」をさかなに一杯やるという具合で、一日を気ままに過ごす。学校をさぼってふらふら歩きをして一日を送るというのが朝永の「心の鬱屈を解消する術」だったのだろう。(49ページ)

 たとえばまた、京都に学会があって、神戸の親戚の家に泊めてもらうことがあった。朝、出かけてから、ふと気が変わり、学会をさぼって、京都とは逆の方向の明石に出てしまう。船に乗り、淡路島に渡る。そして一日中、島のあちこちをぶらぶらして、夕方帰ってくる。ということもあったそうだ。(49ページ)

湯川秀樹博士のこれに似たような行動を以前、小沼通二編「湯川秀樹日記」を読んでで紹介したが、お二人とも専門が理論物理というところを割り引いたとしても、昔の大学の先生はこのようにして上手に気分転換をはかり、仕事への活力を養ったのである。そういえば実験家の私ですら、時間を見つけては自転車で京都ロイヤルホテルにかけつけ、地下の理容室で懶惰なひとときをエンジョイしたものである。このような自由があってこその大学だと思うが、現状はどうなんだろう。

アメリカの絵本作家ターシャ・テューダの次のような言葉も出てくる。

 「急ぐことがいいとは思いません。
 わたしは何でもマイペース。
 仕事も、スケジュールを決めず、
 納得するまで時間をかけます」(119ページ)

世間でいう仕事とは少し違うだろうが、私が本を読もうとぶらぶら歩きしようと、庭仕事をしようと歌を歌おうと、一弦琴を奏でようとブログ書きをしようと、その他もろもろ、何事もまさに彼女の言葉通りではないか。私はすでに達人の域に達しているらしい。

谷崎潤一郎の『懶惰の説』という随筆も出てくる。

 谷崎は、西洋の人びとがいかに活動的であり、精力的であるかを例示し、これに対して、東洋の人びとがいかにものぐさで、面倒くさがり屋であるかを対照的に書いている。懶惰な日本人の代表はだれか。物語の中の人物ではあるが、谷崎は物臭太郎(三年寝太郎)の名をあげている。

なんと、私のことをいってくれているので嬉しくなった。その「懶」とは心の余白との説明までついて。

「常に時間に追われ、効率を追い求める行き方が、現代人の心を破壊しつつある。今こそ、ぼんやりと過ごす時間の価値が見直されてよいのではないか」の問いかけに心が少しでもゆれ動く方がた、ぜひこの本に目を通して、自分に合った活力の源泉を見つけて頂きたい。