日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

辰濃和男著「ぼんやりの時間」を読んで

2010-04-19 11:54:03 | 読書


私はぼんやりというか、ぼけーっとしているのが大好きである。現役を離れて隠居の身となった今、なんの気兼ねもなくぼけーっとしまくっている。だから私のハンドル名も自然とlazybonesになった。lazybonesとは怠け者、そう、もともとぼんやりとしているのが好きなのである。私にとってぼんやりは無為に通じる。ところが著者の辰濃さんは「ぼんやりの時間」だけで、なんと新書本を一冊書き上げてしまっている。こんな勤勉な「ぼんやりの時間」てあるものか、とだまされたような気がしたが、著者の経歴を奥付きで見て納得した。辰濃さんは1975年から88年にかけて、朝日新聞の「天声人語」を担当された方なのである。歴代の天声人語子はそれこそ万巻の書を渉猟しつくした博識の権化のようなものとの思い込みが私にはある。となると答えは出たようなもの、「ぼんやりの時間」にまつわるアンソロジー、または私の大好きなゴシップ集なのでもある。迷わず買い求めたが期待は裏切られなかった。そのほんの一部だけを紹介する。

私の好きなぶらぶら歩き、すなわち散歩の名人として朝永振一郎博士の話が出てくる。

 教授時代、大学へ行く途中、ふつうは御茶ノ水駅で地下鉄に乗り換えるのだが、ふと気を変えて御茶ノ水駅から千葉行きの電車に乗ってしまうことがあった。房総の海辺をぶらぶらしたうえ、千葉の町に引き返し、名物「焼きはまぐり」をさかなに一杯やるという具合で、一日を気ままに過ごす。学校をさぼってふらふら歩きをして一日を送るというのが朝永の「心の鬱屈を解消する術」だったのだろう。(49ページ)

 たとえばまた、京都に学会があって、神戸の親戚の家に泊めてもらうことがあった。朝、出かけてから、ふと気が変わり、学会をさぼって、京都とは逆の方向の明石に出てしまう。船に乗り、淡路島に渡る。そして一日中、島のあちこちをぶらぶらして、夕方帰ってくる。ということもあったそうだ。(49ページ)

湯川秀樹博士のこれに似たような行動を以前、小沼通二編「湯川秀樹日記」を読んでで紹介したが、お二人とも専門が理論物理というところを割り引いたとしても、昔の大学の先生はこのようにして上手に気分転換をはかり、仕事への活力を養ったのである。そういえば実験家の私ですら、時間を見つけては自転車で京都ロイヤルホテルにかけつけ、地下の理容室で懶惰なひとときをエンジョイしたものである。このような自由があってこその大学だと思うが、現状はどうなんだろう。

アメリカの絵本作家ターシャ・テューダの次のような言葉も出てくる。

 「急ぐことがいいとは思いません。
 わたしは何でもマイペース。
 仕事も、スケジュールを決めず、
 納得するまで時間をかけます」(119ページ)

世間でいう仕事とは少し違うだろうが、私が本を読もうとぶらぶら歩きしようと、庭仕事をしようと歌を歌おうと、一弦琴を奏でようとブログ書きをしようと、その他もろもろ、何事もまさに彼女の言葉通りではないか。私はすでに達人の域に達しているらしい。

谷崎潤一郎の『懶惰の説』という随筆も出てくる。

 谷崎は、西洋の人びとがいかに活動的であり、精力的であるかを例示し、これに対して、東洋の人びとがいかにものぐさで、面倒くさがり屋であるかを対照的に書いている。懶惰な日本人の代表はだれか。物語の中の人物ではあるが、谷崎は物臭太郎(三年寝太郎)の名をあげている。

なんと、私のことをいってくれているので嬉しくなった。その「懶」とは心の余白との説明までついて。

「常に時間に追われ、効率を追い求める行き方が、現代人の心を破壊しつつある。今こそ、ぼんやりと過ごす時間の価値が見直されてよいのではないか」の問いかけに心が少しでもゆれ動く方がた、ぜひこの本に目を通して、自分に合った活力の源泉を見つけて頂きたい。


最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
共鳴するものがありました (カーク船長)
2010-04-24 16:08:54
私も「忙中閑あり」は良い生き方だと思いつつ、時間に追われた時は、「外に出て悠揚と空を見る」、「好きなクラシックをBGMにする」、「スケッチして油絵を描く」等を座右銘として、人生を過ごして来ています。
「直球勝負では無く、少しすねてゆっくりする」そんな生き方を主張する筆者には共鳴するものがありました。
返信する