「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「萩」

2006-09-10 21:14:25 | 和歌


 九月に入るのを待ちかねて、「萩」が咲いた。

 古来、萩は秋の七草の名花である。
かつて萩は何処にでも見かけたが、昨今は野に咲く萩を探すのは容易ではないし、更には、萩を観に行くこころの余裕もないのが、大いに反省させられるところだ。

 秋のお彼岸に供える「おはぎ」餅は、「お萩」だと昔聞いたのを思い出して、「大辞林」をひもといた。「おはぎ・御萩」、もと女房詞で「萩の餅」。
うるちともち米を混ぜて炊き、軽く搗いて外側に餡・黄な粉をつけるとある。対比して「ぼたもち」は、「牡丹餅」。春のお彼岸のお供えだ。「おはぎ」には未だ穫れたての、皮の柔かな小豆を「粒餡」にしてまぶし、春の「ぼたもち」には、冬を経て小豆の皮が硬くなるので「さらし餡」を使う。現代ではその様な使い分けはしないだろうが、古人の驚くべき生活の知恵だ。

 田舎育ちの虚庵居士の子供のころは、「おはぎ」作りを良く手伝った。鉄釜で蒸かしたご飯を、軽く搗くのが役目だったが、「おはぎ」も「ぼたもち」も懐かしい「ごちそう」だ。






             流れ来る汗を拭きつつ歩み来れば
 
             さ枝に咲き初む萩の花かも



             長月を待ちかねつるに鄙の萩も

             同じ思ひかさ枝に花つけ



             夕されば萩と聴かましわぎもこの 
  
             琴の調べと虫の集きを


                                      


「イチモンジセセリ」

2006-09-09 17:11:04 | 和歌

 ペンタスの花を写していたら、蝶とも蛾とも思われる昆虫が、かなり素早い身のこなしで飛んできて、ペンタスの葉に止まって羽を休めた。





 蝶にしては頭も胴体も、蛾に似て大きめだ。蛾にしては飛び方も、羽を休めるときの仕草も蝶ににている。全体的には随分地味だが、よくみるとシックな装いにセンスがある。 ピンクのペンタスの花に止まったところを写そうと構えたが、葉に止まったまま動かない。いかにも「ボクも写してよ」と言わんばかりに、目の前でポーズをとった。彼にしてみれば、「花よりボクを!」との主張かもしれない。

 昆虫図鑑で調べたら、歴とした蝶の仲間で、「イチモンジセセリ」と判明した。図鑑にも「よく蛾と間違えられる」と注記がしてあった。

 イチモンジセセリの幼虫は、稲の葉を好んで食べる害虫らしい。横須賀のこの辺りには、田圃をほとんど見かけなくなったが、農家にとってはニックキ輩に違いあるまい。






             ペンタスの花写しおれば飛び来たり
 
             ボクも写してと イチモンジセセリは 



             蝶なるや 蛾にも見紛ふ姿なれど 

             イチモンジセセリは茶羽織を着て 



             ペンタスは花の出番を待ちつつも
 
             イチモンジセセリを葉に止まらせて 






「エンジェルズ・トランペット」

2006-09-08 11:24:18 | 和歌

  ご近所の「エンジェルズ・トランペット」が咲いた。





 「うつろ庵」の花は純白だが、このお宅の花は、花びらの先の部分だけがピンクに色ずいて、艶やかだ。別名「木立朝鮮朝顔・きだちちょうせんあさがお」とも呼ばれているが、漢字を六つも並べた固い名前よりは、「エンジェルズ・トランペット」が相応しい。「うつろ庵」の花は、どうしたことか今年は全く花を付けない。冬の間の剪定が、大胆すぎたのかもしれない。花時が長いので、そのうちにニョキニョキと莟が出てくるに違いあるまい。

 一月ほど前に姪から電話があって、その際に「上の娘が結婚することになりましたのよ」との朗報があった。子供の頃は「デブちゃん振り」が愛らしいお嬢さんだったが、成人式の振袖姿の写真では、見違えるようなスタイルのよい超美女に変身していて驚いた。

 心ばかりのお祝いを贈ったら、姪から早速お礼の電話があった。久しぶりに電話で話す明るい「花嫁」の声は、何時の間にか、子供のころ家族で遊びに来た当時の、「天真爛漫な女の子」の声と重なっていた。






             身をよじり恥らふ姿かエンジェルス
 
             トランペットの花咲きにけり 



             花嫁の準備にせわしきこの頃を
 
             噛みしめてますと 電話の向こうで 



             姪御にも「花嫁の母」への寿ぎを

             伝えたろうか 話が弾めば 






「白芙蓉」

2006-09-07 12:46:14 | 和歌
 
 白い芙蓉が、空き家の垣根からはみ出して、咲いていた。

 このお宅の芙蓉は、今は亡きご主人が丹精して育てられ、毎年、大輪の白芙蓉が咲いて愉しませて貰った。その後空き家になって、庭木の手入れも侭ならずに放置されたままだが、芙蓉は時を違えず花を付けた。背丈だけが伸び上がって、心なしか、花に大らかさが無くなった。花は慈しむ人がいなくなると、それを敏感に察知するのであろうか、貧相になったように思われてならない。

 この街に、「うつろ庵」を構えてかれこれ三十年余になるが、住人は随分と替わった。不動産屋に言わせると「人気のある住宅街」ゆえ、彼らは売買物件を鵜の目鷹の目で探しているが、ここのお宅のように、ご家族が何れ戻って来ることを前提にした、空家のままのお宅はごく稀である。

 それにつけても、住人のいない庭の草木は人恋しげで、哀れを催させられるのは虚庵居士だけであろうか。






             如何ばかり思ほしめせか白妙の
   
             芙蓉の花を逝きにし主は   



             白妙の芙蓉の花は哀しけれ 
  
             過ぎにし人に捧げて咲くらし   



             何時ならめ住み人再びいつくしむ
   
             芙蓉の花を観まくほしけれ      






「野牡丹・のぼたん」

2006-09-06 15:17:42 | 和歌
 
  「野牡丹」が、紫紺色濃く咲いていた。




 車で出掛ける際に、綺麗に咲いているのを見かけたので、昼過ぎに帰宅してそそくさと観に行った。花びらの周辺がすでに縮み始めていて、写真に写すのは気の毒だったので、日を改めて午前中に訪ねた。「お待ちしてました」という雰囲気で、見事であった。紫紺の花びらは、光線の加減で赤味を帯びたり、青味が勝ったり、微妙な色合いを見せて愉しませて呉れる。

 花びらも美しいが、大きな釣り針のように湾曲して、先の鋭く尖った蕊も面白い。少年のころ鰻釣りをして遊んだが、鰻針そのものといった感じである。





 紫紺野牡丹を観て、鰻釣りを思い出すのも誠に不粋だが、少年がそのままジイサマ・虚庵居士になったのだから、仕方あるまい。






             野牡丹と刻を契るにあらねども
 
             あわれ花びら縮みて待ちにし 



             日を代えて野牡丹朝に訪ひしかば

             紫紺に咲きて待つぞいとしき



             大いなる蕊のつり針 野牡丹は
 
             たぎるこころを釣らむとするにや  


                                  



「チキチキバッタ」

2006-09-05 17:50:32 | 和歌

 「うつろ庵」の庭は、夕暮れともなると、随分賑やかになった。

 日中のせみ時雨は、何時の間にか法師蝉に代わり、蜩が鳴き始めるには未だ間があるようだが、夕べの庭の主は、集く虫達にとって代わった。虚庵居士は、集く虫の声を聞き分けられる程の虫博士でないが、「こおろぎ」「チキチキバッタ」それに、虫かごから逃げ出した「鈴虫」などが誠に賑やかだ。鈴虫は鳴き始めはしたが、まだ弱々しい。あの冴えた音色に到達するには、十分な「お稽古」が必要のようだ。

 たまたまアガパンサスの葉に止まっている、「チキチキバッタ」、別名「精霊バッタ」を見つけた。八センチ程もあろうか、メスはゆったりと物怖じしない。カメラを取ってくるまで、ジッと同じ場所で構えている姿は、大物モデルの風格すら感じさせた。それに引きかえ毎朝見かけるオスは、体もメスの三分の一程度で、動きがせわしない。人間社会には、「ノミの夫婦」という揶揄した表現があるが、チキチキバッタもこの類らしい。

 夕暮れのあの甲高い鳴き方は、多分オスのものに違いあるまい。






             スマートなチキチキバッタに逢いしかな
   
             「あたしを写すの? このポーズどう~」  



             幼き日 チキチキバッタか いや違う
   
             キチキチバッタと争ひしかも   



             あの時も「おなご」はゆたに構えしが
   
             あはれ「おのこ」は争ひしかな    


                                 


「ひょうたん」

2006-09-04 16:16:27 | 和歌

 「瓢箪」が幾つか生って、吊下がっていた。






             いと長き産毛は稚けき瓢箪を
 
             いたわり包むや陽に輝きて



             稚けなき産毛の瓢箪はしきかな
 
             枯れ花残して逆立ちのまま 



 昼の時間帯だったので、あの白い花は咲いていなかったのが残念だった。夕暮れ近くに花を咲かせる瓢箪であるが、夕顔と同じ仲間だかららしい。花には産毛があって、夕陽にキラキラ輝いていたのが思い出される。産毛は瓢箪の実にも受け継がれて、実が大きくなるに従って、自然に産毛は消え失せる。勝手な想像だが、瓢箪の産毛は害虫から身を守る自衛手段かもしれない。瓢箪に虫食いを見かけないのは、産毛の効用だろうか。

 淡路島の義兄宅を訪ねたら、大きな瓢箪が棚からぶら下がっていたっけ。しかも、随分長い瓢箪であった。瓢箪棚の下で、瓢箪の実からどの様にして中味を取り出すか、身振り手振りよろしく説明してくれた義兄であったが、今頃は冥土の何丁目辺りであろうか。

 盆栽、人形浄瑠璃の頭創りなど多趣味の義兄であったが、それぞれに一流であった。奥方の点てて下さるお薄を頂きながら、もう一度ゆったりと語り合いたい義兄であった。






             懐かしき瓢箪の実に逢いしかな
 
             義兄と語りし夏を偲びぬ
     

                                



「プランパーゴ」

2006-09-03 17:31:29 | 和歌

 一月ほど前から、「プランパーゴ」が涼やかに咲いている。





 花房は、次つぎと花が咲きあがるので、横須賀周辺では晩秋まで愉しませてくれる。花図鑑では、南アフリカ喜望峰が原産と書いてある。行ったことがないので想像であるが、緯度から判断すれば、ちょうど赤道を挟んで南北反対であるが、関東地方とよく似た気候ではなかろうか。このあたりに馴染みやすいのであろう。

 和名を「瑠璃茉莉・るりまつり」と呼んでいるが、花名から判断すれば、白花は亜種なのかもしれない。一般には瑠璃色一色だけ、或いは白だけの株を見かけるが、二種の株を合せ植えたセンスには、目を瞠るものがある。

 お互いに「響きあい」、双方がより美しくなるような、調和の取れたコンビネーションは、花でも人間のカップルでも大切だ。虚庵夫妻はそろそろそう在らねばならぬ歳であるが、相変わらず足の引っ張りあいを続けていて、お恥しい限りだ。






             相ともに響く風情ぞとうとけれ
  
             花に訓えを受けにし今日かな 



             白妙と瑠璃いろ響き咲きわたる 

             プランパーゴは睦まじきかな



             歳嵩ね髪白妙のみょうとこそ
 
             花の響きを共に見てしか  





「花センナ」

2006-09-02 18:31:44 | 和歌

 この辺りでは余り見かけない「花センナ」が、咲き始めた。

 莟が大小無数に付いているので、これから暫らくは色鮮やかな黄色の花を愉しませて貰えそうだ。花図鑑によれば南米原産で、「カッシア」、或いは別名「アンデスの乙女」とも紹介されている。アンデス山脈の何処かに、この花の故郷があるに違いない。明るい乙女の笑顔が偲ばれる。





 お隣に住み始めた外人さんが、数日前に「ゴジバ・チョコ」を携えて挨拶に来て下さった。
こちらからの挨拶代わりにとて、虚庵夫人は生後十ヶ月の女の子に、ニットのサマーベストを差し上げた。人形に着せる程度の小さなものだが、孫の璃華ちゃんに編んで経験済みゆえ、たちまちに編み上げたものだ。

 虚庵夫人の同伴命令に従って、共に玄関先に伺った。若いお二人は女の子を抱っこして、裸足のまま降り立って来て、大喜びであった。名前はお互いに聞き取り難いので、メモに書き留めて交換した。シドニーちゃんも声をあげて「ごきげん」であった。






             アンデスの山の乙女の笑みたるや
 
             輝く金色 カッシアの花 



             緑濃き群葉に埋まりてアンデスの
 
             乙女の花は咲きわたるかも



             お隣の稚児に与ふと妹の編む 

             姿を見れば孫恋ふるかも 

                              



「台湾連翹・たいわんれんぎょう」

2006-09-01 17:02:08 | 和歌


 かなり以前から花を付けていたが、ここに来て幾分涼しくなったら、再び「台湾連翹」が鮮やかな花を咲かせている。

 白い花もあるが、紫に白い縁取りのあるこの花は、なかなかのオシャレさんだ。縁取りの無い種類も見かけるが、木の葉と花房の色が溶けあって、シャキッとしない。何れも枝垂れて咲くので、どことはなしに藤の花を思わせるが、藤は棚に咲く手のとどかぬ存在だ。
こちらはごく身近で、親しみ易い。

 世の中に「台湾○○」と、台湾名の付く草木の数はかなりある。それらの殆どは台湾原産のものが多いようだが、「台湾連翹」は台湾原産ではないらしい。台湾経由で渡来して、花に台湾の名を留めたのだろうか。

 人間は苗字、或いはファミリーネームで、氏素性をある程度辿れるが、花もその様な名前のものが多いようだ。「台湾連翹」は、台湾にどの様な物語を秘めているのであろうか。






             垣根越えて台湾連翹の枝垂れ咲けば
 
             花房よけつつ見惚れる人あり



             いと細き白の縁取り引きしめて 
 
             台湾連翹は 花房「むらさき」



             紫の花房の名に何ゆえか
 
             邦の名とどめる 台湾連翹