両国界隈を散歩
都営地下鉄森下駅から散歩しました。
歩いたルートは次の地図の赤線です。約8Kmです。
先ず、変な形に歪んでる五間堀跡から一回りしました。
この堀は江東区登録史跡によると
「五間堀は小名木川と竪川を結ぶ六間堀からわかれる入堀です。
五間堀という名称は川幅が五間(約9m)であるところから付けられ、六間堀とともに江戸時代から重要な水路でした。・・・
五間堀が開削され時期は、明暦の大火(1657)によって付近一帯の再開発がなされた万治年間(1658~60)ころか、それ以前と考えられます。・・・
昭和11年(1936)・昭和30年(1955)の二度の埋め立てにより、現在、五間堀は全て埋め立てられています。」
堀の跡は暗渠になって残っていますが・・・
そして、そこから鬼平で有名な高橋を渡り、小名木川沿いに東に歩きました。
対岸には、以前の船着き場がいまだに残っていました。
道に迷いながら、以前何回か来たことのある、江戸六地蔵で有名な霊巌寺に着きました。
どっしりした、静かなお寺です。
そのすぐ隣に、立派な構えの深川江戸資料館があります。
今は、大鵬関の特別展を開いていました。
そして、ゆっくり江戸時代の住まいの様子を見て回りました。
拙い説明は抜きにして、写真だけを載せます。
近いうち、上の階で開催している小劇場も覘いてみましょう。
いいものが見られそう。
さてお次は、清澄庭園です。
先に有料の庭園には何回も入園したことがありましたので、無料の清澄公園にだけ入りました。
広い公園で、本を読んでいる人、キャッチ・ボールを楽しんでる人、子供をあやしてる人、みんな平穏な様子です。
そこから、園内を一周して、清州通りへ戻り、高橋、森下駅を経て、両国の方へ向かいました。
そして次の訪れたのは、勝林太郎誕生の地、そして吉良上野介終焉の地です。
その吉良邸跡は、現在本所松坂町公園として残されています。
その公園由来の説明板を引用すると、
「この公園は『忠臣蔵』で広く知られる、赤穂義士の討ち入りがあった、吉良上野介義央(よしなか)の上屋敷跡です。
その昔、吉良邸は松坂町一、二丁目のうち約8,400平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、
年を経て一般民家が建ちならび、いまではそのおもかげもありません。・・・
周囲の石壁は、江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠塀(なまこへい)長屋門を模した造りで、
園内には、元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷社などの遺跡があり当時をしのばせております。・・・」
吉良邸で配られたパンフレッドの一部を引用すると、
「・・・忠臣蔵では悪役に仕立てられた上野介でしたが、領地の三河の吉良(愛知県吉良町)では評判が高く、
町の人は今でも『吉良様』と呼んで敬っている善政の殿さまでした。
新田の開拓や塩業の発展に尽力するなど、、・・・」
そして、最後に国技館から、回向院に回りました。
兄に連れられて見た相撲は、前の国技館でした。
よく覚えていませんが・・・
帰りに見た囲いの中には、当時あまり口に出来なかったバナナなどが残されていたのを覚えています。
そして、回向院の説明板を引用すると、
「明暦三年(1657)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、
犠牲者は十万人以上、未曽有の大惨事となりました。
遺体の多くが身元不明、引き取り手のない有様でした。
そこで四代将軍徳川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に、『無縁塚』を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。・・・
後に、安政大地震、関東大震災、東京大空襲など様々な天災地変・人災による・・・」
旧国技館跡にあるタイルの中庭には、土俵の位置が丸く描かれていますが、
意外と大きいのにおどろきました。やはり、大相撲ですね。
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