地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

日本百名山 47、鹿島槍岳(2890m)

2014-06-21 | 日本百名山

日本百名山 47、鹿島槍岳(2890m)

「鹿島槍は私の大好きな山である。

いところに立って北アルプス連峰が見えてくると、
まず私の眼の探すのは、双耳峰を持ったこの山である。

北槍と南槍の両峰がキッとせりあがっていて、その二つをつなぐ、やや傾いだ吊尾根、
その品のいい美しさは見飽きることがない。」

この山を愛していた三好達治氏は、

  “ 昼の雲 舟のさまして動かざる 鹿島槍てふ 藍の山かな ” 

と読まれています。

 

  赤岩尾根の高千穂平から見た鹿島槍岳

(カシバード)
設定: カメラ:PRO、レンズ:35mm、風景:北アルプスの初夏、高さ強調1.5倍。


「鹿島槍岳という名前は明治以後で、山麓の鹿島の名を採ったものである。
このは平家の落武者の住んだ所と伝えられ、
更にその奥の、鹿島槍北面の岸壁の下にはカクネ里と云う地名さえ残っている。
カクネ里はカクレ里の転訛であろうか。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用)


そこで、周辺図を示すと、

 

さて、登山者の登る後立山縦走路の一部は次の地図の赤線です。

  

3000m級の山を、テントを担いで4~5日をかけて歩くのですから、

よくやるよと云うのが、私の正直な感想です。

 

先日、仲間に勧められて、映画 『青春を背負いて』 を見に行きました。

素晴らしい自然美と、厳しく立ちはだかる自然の驚異を見せつけられました。

山は若くないと楽しめませんね。

 

 


日本百名山 46、五竜岳(2814m)

2014-06-13 | 日本百名山

日本百名山 46、五龍岳(2814m)

この辺りから、個々の百名山だけでなく、
その周辺の山々との相互位置関係も探ってみます。

先ずは、北アルプス=飛騨山脈(日本アルプスの中の一つ)の北部地帯から。

五龍岳は、同じ百名山の鹿島槍ヶ岳(2881m)と白馬岳(2932m)の間にある山で、標高はほぼ同じです。

さて、五龍岳ですが

「北安曇から後立山連峰を眺めると、
高さは特別ではないが、山容雄偉、岩稜峻、根ばりのどっしりした山が目につく。

それこそ大地から生えたようなガッチリしていて、ビクとも動かないと云った感じである。
これが五竜(龍)岳だ。・・・

それはまるで岩のコブだらけの、筋骨隆々といった状態を現している。
他の山々のように美しくてスマートではない。
ゴツゴッスした荒々しい男性的な力強さをそなえている。」

 (すぐ東隣の小遠見山より望む)
設定: カメラ:CAN、レンズ:35mm、風景:初春の残雪、高さ強調1.5倍。

「・・・藩政時代の絵図にも後立山という名はあった。
しかしそれは立山(りゅうざん=立山を昔は“りゅうざん”とも呼んだ)から見て、
黒部川の対岸の山を後立山(ごりゅうざん)と称したのである。」

と云う説も紹介しているが、筆者は素直には受け入れていないようです。

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

さて、筆者の登山ルートは、下の地図のようです。

    (中央のAA0030が五龍岳です。文字変換がうまくいきませんでした。

                         AA0040は白岳、AA0048は大黒岳です。)
 

 「一般に五龍岳だけに登ろうとする人は少なく、多くは後立山縦走中にこの峰を踏む。」そうです。

私とは、大分レベルが違うようです。

ではこの辺で・・・。明日は甲府の裏山へハイキングです。

 


日本百名山 45、白馬岳(2933m)

2014-05-29 | 日本百名山

日本百名山 45、白馬岳(2933m)

「・・・白馬岳は、槍ヶ岳と共に北アルプスで最も賑わう山である。・・・

私はこの山を東西の横から眺めるよりも、南北の縦から望んだ姿が好きである。
縦から望んだ白馬岳は、横から見たのと、別人の観がある。
東側が鋭く切れ落ち、キッと頭を持ち上げたさまは、怒れる獅子といった感じをいつも私は受ける。
颯爽たる姿である。」

下は、南側の唐松岳から見た白馬岳のカシバードです。


設定: カメラ:STD、レンズ:35mm、風景:初秋の新雪、高さ強調1.5倍。

画面中央が白馬岳、それから右へ、小蓮華岳、乗鞍岳と続いています。


「・・・私は四季を通じて白馬に登った。

積雪期には栂池(つがいけ)の方から登り、頂上で腹匍になって東面岸壁の氷雪の殿堂を覗いた。
新緑の候にはまだ残雪多量の大雪渓を登りながら、両側の尾根のダケカンバのようやく芽ぐんで来た美しい色彩を眺めた。
紅葉を観に行った秋には、小雨に降られて、ただ一人頂上で濛々たる霧に巻かれるに任せた。・・・


スキー大衆といえども、白馬、杓子、鑓の、いわゆる白馬三山が白銀に輝いているのを仰いでは、
その気高い美しさに打たれずにはおられないだろう。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 
 

この文章を読んで、積雪期の登山路を探ってみることにしました。

  

筆者は、この行程・往復約11kmを一日で走破したようです。

「当時の元気のよかったことが察せられる。」と、本人も語っています。

 



日本百名山 44、筑波山(876m)

2014-05-05 | 日本百名山

日本百名山 44、筑波山(876m)


「筑波山を日本百名山の一つに選んだことに不満の人があるかもしれない。・・・」

標高わずか876m。百名山の中で千メートルにも達しない山はここと鹿児島の開聞岳(924m)だけです。

この山を選んだのは、その歴史の古いことにあるそうです。

「昔、御祖(みおや)の神が所々の神の許を廻った際、日が暮れて富士山へ着いた。

宿を求めると、富士の神は物忌(ものいみ)のゆえをもって断った。
御祖の神は大変怒って
『今後はお前のいる山は夏を問わず雪や霜に閉じ込めてやるぞ』 と言い残して
東の方に行くと筑波山があった。

そこの神はあたたかく迎え、食事の用意をして歓待した。
御祖の神の喜びはこの上なく、
『そなたのいる山は日月と共に幸あれ。
今後人々が集い登り、飲食の物も豊かに捧げるであろう。・・・』 とことほいだ。・・・

わが国では宗教登山が最初のように言われるが、
筑波山のような大衆の有楽登山も早くから行われていたのである。」

という訳だそうです。

私は、関東平野に悠然とあるこの山の姿にその理由があるように思えますが・・・。

  (東北線の小山駅と間々田駅の間の車窓より)
設定: カメラ:PRO、レンズ:28mm、風景:浅春の山々、高さ強調1.5倍。

スモッグで汚れた東京で、時々見えるのは、この筑波山と富士山くらいなものです。

私も二度登りました。

一度は、彼女の車でケーブル下まで行き、楽々と頂上の男山と女山を徘徊したことがあります。 
往復2Kmぐらいか?

男山の頂上は、岩がごつごつして以外と登り難かったように記憶しています。 
 

もう一度は、サイクリングで行きました。頂上へは登らず、ケーブル下の宿屋で泊りました。

初日は、取手駅から走り、次の日は霞ケ浦駅まで、関東鉄道線路跡の自転車専用道路を走るのです。
向かい風に悩まされたのを覚えています。二日とも相当な距離でした。
なんたって、半プロ の東京サイクリング協会の連中と一緒ですから。

いい思い出の場所です。

 

 


日本百名山 43、浅間山(2542m)

2014-04-25 | 日本百名山

日本百名山 43、浅間山(2542m)

小諸駅前からのカシバードです。

前掛山が阿蘇山頂です。
普通、ガスが立ち込めていて、ここまでしか登れません。
左隣の高い山が、黒斑山です。

設定: カメラ:PRE、レンズ:35mm、風景:奥秩父の森、高さ強調1.5倍。

 

 「わが国で火山の代表といえば、浅間と阿蘇である。

いつ頃から噴き始めたか知らないが、それは今日に至るまで絶えることなく煙をあげている。・・・

中でも有名なのは天明三年(1783年)の大爆発で、数粁にわたる溶岩を流して、山麓地帯に大災害を与えた。
今は名所となっている鬼押し出しはその名残である。」

筆者の登山コースは次の赤線です。

  

 

「私が初めて浅間に登ったのは、高等学校一年生の夏であった。
小諸から夜をかけて登った。

普通峰ノ茶屋からの登りは、ザクザクした砂礫を踏んで行く単調な道だが、
小諸からの登山は、牙(キッパ)山や黒斑(くろふ)山などの岸壁を見上げ、高山植物の咲き乱れる湯ノ平高原を通って、変化の多い楽しい道であった。
そこから頂上のドームにかかって、絶頂の火口壁で噴煙に襲われて逃げまどったことを今でも覚えている。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

私も、浅間山には、途中までですが、何回も登りました。
お隣の黒斑山は素晴らしい山でした。
しかし、結構きつかったです。もう登れないでしょうが・・・。 

他人様の別荘を利用させてもらい、鬼押し出しにも何回か行きました。

下の写真は、2,008年の夏に、山の連中と登った湯の平(賽の河原)のものです。
素晴らしい眺めでした。後ろの崖が浅間山です。

 

別の日、その先に進んで、浅間の頂上を目指しましたが、霧が深く、ただただ牛乳瓶の中をさまよっているようで、
あと少しを残してUターンしたことがあります。 
今想うと、惜しいことをしたと残念です。もう、私には無理ですから・・・。 

 

 

 



 

 


日本百名山 42、四阿山(2333m)

2014-04-01 | 日本百名山

日本百名山 42、四阿山(2333m)

 

「四阿山と根子岳。あれがなかったら菅平の値打ちはなくなる。・・・
上越国境では、浅間を除けば、最高の山である。

日本武尊が東征からの帰り、鳥居峠の上に立って東を振り返り、弟橘姫を偲んで、
『吾妻はや』と歎かれた。
そこで峠のすぐ北にそびえる山を吾妻山と名付けた、と言われる。…

 (鳥居峠から見た四阿山)
設定: カメラ:PAN、レンズ:35mm、風景:八ケ岳の風景、高さ強調1.5倍、仰角-30度。

上州の吾妻山は信州では四阿山と呼ばれる。

四阿という名前もなかなかいい。
山の形があずまや(四方の柱だけで、壁がなく、四方葺きおろし屋根の小屋。庭園などの休息所とする)の屋根に似ているところから、その名が由来したと云われる。・・・」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

『吾妻はや』とは、 “吾が妻恋し” という意味だそうです。
私も、叫んでみようかな~、 広島の山で・・・。

私は、この山には裏側の浦倉山から登ったのと、別の日に、表側から根子岳まで登ったことがあります。
表側からの時は、帰りに小根子岳にも寄りました。

  

その小根子岳は花の名山らしく、仲間はいろいろ名前を呼んで喜んでいました。
私には、チンプンカンプンで、きれいだな~と、思うだけ。

仲間のファミリー一家が別行動で来ていました。
何時も朝のラジオ体操で見かけるボーヤも一緒でした。
家族で山登りもいいだろうな~。と、思うだけ・・・。

今でも、思い出すのですが、小根子岳分岐点から峰の原宿舎までの足元の悪いこと。
勾配もさることながら、小石が多く、歩きにくかった。それも、延々と長いのです。

最初は、避難小屋から牧場横を歩きましたので、なおさらでした。

でも、渋谷区の宿舎でゆっくり休憩で来て、よかったです。

これからも、何回も行きたいですね。そうゆうところです。


日本百名山 41、草津白根山(2162m)

2014-03-27 | 日本百名山

日本百名山 41、草津白根山(2162m)


「白根と名のつく山は、南アルプスの白根三山(北岳、間ノ岳、農鳥岳)のほか、日光白根と草津白根がある。・・・

(その中の一つ、この草津白根山は) 志賀高原から渋峠を越えて草津に出る途中、芳ケ平あたりで、眼の前にこの山を大きく見あげる。・・・」

天保の頃の儒者・安積艮斉(あさかごんさい)の『白根山に登るの記』によると、、
「(池を環ル)諸峰皆硫気ノタメニ薫蒸スル所トナリ、或ハ黒ク或ハ赭ク、骨立無皮、絶エテ草木ヲ生ゼズ、・・・」
とあり、

特に「この骨立無皮と云う形容が面白い。
全山焼けただれて、骨だけになり、皮膚の肉が無くなったという意味だろう。」
とあります。

同感です。
私も3回ほど草津から登りましたが、芳ケ平の横の断崖絶壁はスゴイ!

今でも、黄色い硫黄の煙がもうもうと立ちのぼり、その匂いは、もう生きて帰れないのではと思うほどでした。
現在でも、噴火警戒のため、(湯釜の)火口から500m以内の立ち入りは禁止されているようです。

「本白根山の頂上は匐松(ハイマツ)やコケモモの生茂っている高山帯で、まず何より、そこから見下ろした六里ヶ原の大観におどろく。
眼の届く果てまで、大原野がさまざまの屈曲をみせて伸び拡がっている。
そしてその向こうに、浅間山が帝王のようにそびえている。

ここの頂上も大きな火口をもっているが、とっくの昔活動を止めて、灌木や岩石に覆われている。・・・
それは自然の円形劇場のさまを呈している。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

 

今は、高山植物のコマクサが珍重され、保護されています。

 

 

ここでは、渋峠から白根山の方角を見たカシバーを掲示します。


設定: 対地高度500m、カメラ:STD、レンズ:28mm、風景:草つきの岩、仰角:-10度、高さ強調1.5倍。

 

地図は以前登ったコース図を掲示しました。

   

 

 


日本百名山 40、赤城山(1828m)

2014-03-13 | 日本百名山

日本百名山 40、赤城山(1828m)

「赤城山は、登山というより逍遥(しゃうよう)という言葉のあたる、大きなプレイグランドであって、その中心は、山上の火口湖の大沼(おの=おおぬま)である。

それをめぐって、黒桧(くろび)山、地蔵岳、鈴ヶ岳の三つが、鼎の形に立っている。
黒桧山が最高といっても、湖畔から二時間とかからずその頂上に立つことが出来る。
頂きは草山で眺望は素晴らしい。・・・

上野から高崎までの車窓で、一番私たちを楽しませてくれるのは赤城山である。
見事なのは、伸び伸びと裾野へ引いた稜線であって、おそらくこれほど大きな根張りは、他に例が少なかろう。」

 (高崎駅より)
設定: カメラ:PAN、レンズ:50mm、風景:浅春の山、高さ強調1.5倍。

 

登山コースは赤線です。

  

  

 「今は箕輪から簡単に入れるようになったが、当時は普通水沼から鳥居峠を越えて大沼湖畔に出た。

黒桧山に登ったり湖畔を散策したりして、帰路は敷島に出たこともあった。
二本楢を経て片品川の方へ降りたこともあった。・・・」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

赤城山といえば、国定忠治を連想します。
新国劇で演じられた名セリフは

赤城の山も今宵限りか、
かわいい子分のてめえ達とも別れ別れになる旅出だ。

この名セリフを残して、幕府の役人に追われ、赤城の山を下りて行ったそうです。


本名は長岡忠次で、群馬県伊勢崎市国定町の豪農の生まれとか。
家督は弟の友蔵に譲り、本人は渡世の世界で暴れまわったようですが、。
最後は東吾妻町大戸で磔の刑に処せられたそうです。享年41。

天保の飢饉の時は周囲の百姓たちのいのちのつなにもなったとか・・・。


日本百名山 39、武尊山(2158m)

2014-03-02 | 日本百名山

日本百名山 39、武尊山(2158m)

日本武尊(やまとたけるのみこと)から来た名前で、「ほたかやま」と読みます。

しかし、日本武尊東征の故事とは関係ないようで、単に修験者達が霊山として尊崇された山のようです。

 

「上越国境から、例えば谷川岳の上からでもいい、東の方を望むと、長大な障壁のような山が見える。
それは一つの抜きんでたピラミッドとか特異の独立峰として注目されるのではなく、
その大きな壁全体として私たちの眼を驚かすのである。」

  (谷川岳の頂上より)
設定: カメラ:PAN、レンズ:85mm、風景:奥秩父の森、高さ強調1.5倍。
 

「中年を過ぎた私たち夫婦は、強行登山は望まない。
一日で縦走するのは無理であろうから、途中で日が暮れてもいいように簡単な野宿の準備をして行った。

少しでも楽なように、出発点は標高の高い上ノ原の国鉄山の家を選んだ。
いわば武尊岳の裏から登るのである。

健脚の人の二倍も時間をかけて、まず私たちは最高峰の沖武尊(穂高岳)の頂上に立った。
沖武尊はおそらく奥武尊の転じたものであって、表口から登ると、ここが一番奥の峰になる。
その頂上で展望を楽しんでから、長い尾根伝いにかかった・・・

そこから剣ヶ峰(前武尊)を越えるまでが、痩せた岩稜で、所々鉄の鎖がついている。
私にとっては大した所ではないが、素人登山者の家内の心胆を寒からしむに充分であった。・・・」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

  

登山コースは赤線です。

 

ところで、筆者・深田久弥氏の奥さんですが、5~6歳くらいは年下ですが、よく一緒に登山を楽しんでおられたようです。

ここでも「登山の素人」と呼ばれていますが、「所々鉄の鎖がついている」岩場を登ったり、無人の小屋で一夜を共にしたり、よくぞ山登りをされたものよと、感心します。

でも、山登りを一緒に楽しむ夫婦なんて、うらやましいですね。

筆者は、1971年(昭和46年)登山中に 、茅ヶ岳で脳卒中で死去されました。68才でした。
私も,その山に登り、その碑を拝ませていただきました。
ほぼ、同じ年頃です。 

何故か、奥さんも七回忌を済ませた後、輪禍により他界されたそうです。
なにか、つながりを感じますが・・・。 


 

 


日本百名山 38、皇海山(2144m)

2014-02-26 | 日本百名山

日本百名山 38、皇海山(2144m)

この山名の読み方¥は、「すかいやま」(皇海山)だそうです。
そしてその所在は、栃木県と群馬県の境、足尾(日光)山地にあります。

あの有名な足尾鉱毒事件の渡良瀬川の源流です。

 (沼田市中心部より)

設定: カメラ:PEX、レンズ:35mm、風景:日本アルプスの朝、高さ強調1.5倍。

 

 

 

登山コースは赤線です。

 「まず庚申山に登り、それから十ほど小さなピークを越えて鋸(のこぎり)岳へ達する。

ピークに一々名前のついているのは信仰登山の名残である。
鋸から一たん深く鞍部へ下って、それから皇海の頂上まで一途の登りになる。・・・

皇海山は、南は六林班(ろくりんはん)峠を経て袈裟丸山に続き、
北は三俣山を経て宿堂坊山、錫ヶ岳、白根山へ伸びている。
この長い山稜も道が開かれているのは一部で、あとは籔と戦わなければならない。
それだけにまた原始的自然美を保っている山城であって、
『埋れた山』を探し求める人たちにとって、これから興味の多い舞台となるであろう。」

(新潮社刊、深田久弥著『日本百名山』より引用) 

百名山を読んでいて、いつもこうした難行苦行して未知の世界を訪ねる気持ちを探っていますが、
いまだにハッキリしない。
ここでは、『原始的自然美を保っている山城』といっていますが・・・。

修験者たちの、命ギリギリまでを挑戦する気持ちは・・・、
何かを求めて挑んでおられるのでしょうが、結果は?

結果ではなく、多分、挑戦する心に意味があるのでしょう。

もう私には、その気力はないです。