今回は京都市内でも郊外の山科区へ出かけましたんや。
京都市営地下鉄の東西線 御陵駅(みささぎ)と読みまんねんで。
(京都市営地下鉄 御陵 駅名標)
この駅の近くに第38代 天智天皇の御陵がおますんや。
それで、この辺りは地名も御陵(みささぎ)と言うそうですわ。
地下道にパネルがおましたんで貼り付けておきまひょ。
今回は天智天皇の御陵を訪ねるんじゃおまへん。
反対側を南の方へ約2kmほど歩いて行きますんや。
(三条通り 日ノ岡交差点)
三条通りとは江戸時代の東海道に沿って出来た府道143号線で
ここから九条山の峠を越えたら粟田口に出てそのまま歩けば
東海道五十三次は三条大橋が終点ちゅうことになりまんな。
大石道と言うのは赤穂義士の大石内蔵助が山科に隠れ住んだ処へ
向かう道やそうで、ここから歩いたら1時間近く離れているんだって。
大石神社や大石寺などがおますんやけど今日はパスしまひょ。
(JR東海道本線 歩道用トンネル)
JR東海道本線が築堤の上を東西に通ってますんで人間さまは
トンネルで抜けるしか南へ行けないようになってますんや。
大石道はJR東山トンネルの方へ少しだけ遠回りしてますんでね。
京都市内は碁盤の目のように分かりやすいと言いまんねんけど
山科区は例外で細い道が入り組んで、分かり難いんでっせ。
このトンネルを探したもんで目標が分からんようになりましたがな。
この辺りの道は曲がりくねって行きたい方向へ出れまへんのや。
なんとなくこの方角だと歩いてたら道路標識と大石道に出ましたわ。
(大石道 北花山の道路標識)
此処が目的地の元慶寺(がんけいじ)の近くやと分かりましたで。
途中に案内表示がないもんでナビが無いとたどり着けまへんな。
まずは西国三十三ヶ所の番外札所へお参りしていきまっさ。
この細い道を入って行きますんやけどバスツアーなどはダメでんな。
国道1号線へでも駐車して歩いてここまで来るんでしゃろか?
西国三十三ヶ所の巡礼で訪れる人は多いはずなんだけどな。
駐車場は乗用車が2台ぐらいしか止められまへんで。
(元慶寺=がんけいじ 山門)
西国三十三ヶ所ではこんな竜宮造りの山門って初めてでんな。
黄檗宗の禅寺では時々は見かけまっけど。
ここは天台宗のお寺だったはず。
(元慶寺=がんけいじ 本堂) (京都市山科区北花山河原町)
このお寺は後で紹介しまっけど僧正遍昭さんが開基。
868年(貞観10年)に清和天皇の女御で藤原高子さんに
後の陽成天皇が誕生したのを祝って建立したんだって。
当時は「華山寺」と呼ばれて現在地より少し山手に寄った
街道に近い処にあったと記録されてるようでんな。
877年(元慶元年)に清和天皇の勅願寺となったので
寺名を年号から貰って「元慶寺」と成ったそうですわ。
それから約100年ぐらい経ってから歴史上に有名な
天皇出家事件がこの元慶寺で起きましたんや。
(花山天皇 御落飾の石碑)
986年(寛和2年)に花山天皇が藤原兼家・道兼の親子の
陰謀によって不本意な形で出家に追い込まれたお寺なんですよ。
藤原兼家の娘が生んだ皇太子を早く天皇にさせる為に
藤原道兼が花山天皇と一緒に出家しましょうと偽って
このお寺に連れ出したと歴史書は語ってますな。
道兼は出家する前に一目だけ父に挨拶をといって脱出
花山天皇は騙されたと分かったが、今は仕方がないと
静かに落飾されて花山法皇となられたそうですわ。
ここで2年ばかり過ごされてましたので、このお寺を
西国三十三ヶ所の巡礼を再興された花山法皇を賛えて
西国三十三ヶ所の番外札所と成ったようでんな。
花山天皇が退位されて後を継がれたのが一条天皇で
藤原道長の栄華と源氏物語などの時代に移る訳でんな。
(元慶寺=がんけいじ ご朱印)
普通は西国三十三ヶ所巡りは観音菩薩さんと
決まってるんでっけど、ここは薬師如来さまですな。
それではこのお寺を建立した僧正遍昭さんのお墓が
この近くに在るとのことで立ち寄って見まひょ。
(渋谷街道=しぶたにかいどう 大石道交差点)
この渋谷街道ちゅうのは鎌倉時代までは東国から
京都市内へ入る重要な道だったようでっせ。
この街道を東山で越えた清水寺の近くには幕府の
六波羅探題が置かれていたそうでんな。
当時はこの辺りが東山を越える鞍部では一番低く
街道を通すのに最適だったということでっかな。
現在は国道1号線や三条通りの渋滞を避けるために
地元の方が抜け道に使うだけになりましたけど。
大石道に面して僧正遍昭のお墓があるとは聞いたけど
見落して国道1号線の手前まで来ましたがな。
道を聞くためにこの辺りで昼飯にしまひょかな。
(うどんの 天 邑)
店員さんは僧正遍昭のお墓は知らないとのこと。
宮内庁管理のお墓として地図にも載っていたのにな。
困ったよ~ と思っていたら奥の席に居られたお客が
200mぐらい戻って右手の細い道を入ったらおます。
やはり地元でも年配の方はご存知のようでしたわ。
(食堂に飾ってある 団扇)
京都は先斗町の芸妓さんの名前入りの団扇でんがな。
一番上のお名前の方はテレビにも出ておられたはず。
鉄ちゃん爺やには、とてもじゃないけど立ち寄れない
超高級の料亭かな、尋ねるのは下衆なのでやめました。
(僧正遍昭=そうじょうへんじょう のお墓)
このお方は京都に遷都された桓武天皇のお孫さんですな。
六歌仙・三十六歌仙で有名な当時の歌僧でナンバー1
小倉百人一首でも、こんな歌を詠んでおられますな。
「天つ風 雲の通い路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」
この和歌はまだ出家される前の殿上人であった頃に
宮中で「五節の舞い」の美しさを天女に例えて詠んだとか。
鉄ちゃん爺やも、若い頃に真っ先に覚えた和歌でしたな。
でも宮内庁さんは雑草の駆除をサボってはりますな。
天皇陵なら綺麗に剪定したり雑草は刈り取られてるのに。
僧正遍昭さんが桓武天皇の皇孫とは知りまへんでしたわ。
この方は仁明天皇に仕えて正五位の蔵人頭に任じてたんですが
850年(嘉祥3年)3月に仁明天皇が崩御された折に
若くして出家されてますな。
父親は大納言まで昇進しておられるから、もしも出家せずに
宮中に残っておられたら中納言にはなっておられたかも。
(三十六歌仙 僧正遍昭)
僧正遍昭さんは遍照とも呼ばれているのを承知ですけど。
この僧正遍昭さんは70歳を超えて長生きされてますな。
今は小さいお寺ですが京都の雲林院やこの元慶寺などの
当時は大きかった朝廷の勅願寺の別当を務められてますんや。
この元慶寺も応仁の乱で焼失し江戸時代に再建されてますな。
僧正遍昭さんの和歌の弟子が光孝天皇だから出家されても
平安時代の前半を代表する歌人には違いはおまへん。
(JR山科駅舎)
行く前は東山から将軍塚を越えて知恩院や青蓮院へ出ようと
考えていたんですが夕立が来そうな雲行きなので地下鉄にして
京都東山区の青蓮院門跡へ行こうと考えましたんや。
次回は隠れた京都の名所である青蓮院を紹介しまっさ。
ほな、今日はこれでさいなら~♪
(追記) グーグルのソフトが又もやOCNフォトフレンドの
コピーが不能になる状態になっています。
画像が小さくて見辛いですがクリックして頂けば
大きくして観れますのでご容赦くださいね。
京都市営地下鉄の東西線 御陵駅(みささぎ)と読みまんねんで。
(京都市営地下鉄 御陵 駅名標)
この駅の近くに第38代 天智天皇の御陵がおますんや。
それで、この辺りは地名も御陵(みささぎ)と言うそうですわ。
地下道にパネルがおましたんで貼り付けておきまひょ。
今回は天智天皇の御陵を訪ねるんじゃおまへん。
反対側を南の方へ約2kmほど歩いて行きますんや。
(三条通り 日ノ岡交差点)
三条通りとは江戸時代の東海道に沿って出来た府道143号線で
ここから九条山の峠を越えたら粟田口に出てそのまま歩けば
東海道五十三次は三条大橋が終点ちゅうことになりまんな。
大石道と言うのは赤穂義士の大石内蔵助が山科に隠れ住んだ処へ
向かう道やそうで、ここから歩いたら1時間近く離れているんだって。
大石神社や大石寺などがおますんやけど今日はパスしまひょ。
(JR東海道本線 歩道用トンネル)
JR東海道本線が築堤の上を東西に通ってますんで人間さまは
トンネルで抜けるしか南へ行けないようになってますんや。
大石道はJR東山トンネルの方へ少しだけ遠回りしてますんでね。
京都市内は碁盤の目のように分かりやすいと言いまんねんけど
山科区は例外で細い道が入り組んで、分かり難いんでっせ。
このトンネルを探したもんで目標が分からんようになりましたがな。
この辺りの道は曲がりくねって行きたい方向へ出れまへんのや。
なんとなくこの方角だと歩いてたら道路標識と大石道に出ましたわ。
(大石道 北花山の道路標識)
此処が目的地の元慶寺(がんけいじ)の近くやと分かりましたで。
途中に案内表示がないもんでナビが無いとたどり着けまへんな。
まずは西国三十三ヶ所の番外札所へお参りしていきまっさ。
この細い道を入って行きますんやけどバスツアーなどはダメでんな。
国道1号線へでも駐車して歩いてここまで来るんでしゃろか?
西国三十三ヶ所の巡礼で訪れる人は多いはずなんだけどな。
駐車場は乗用車が2台ぐらいしか止められまへんで。
(元慶寺=がんけいじ 山門)
西国三十三ヶ所ではこんな竜宮造りの山門って初めてでんな。
黄檗宗の禅寺では時々は見かけまっけど。
ここは天台宗のお寺だったはず。
(元慶寺=がんけいじ 本堂) (京都市山科区北花山河原町)
このお寺は後で紹介しまっけど僧正遍昭さんが開基。
868年(貞観10年)に清和天皇の女御で藤原高子さんに
後の陽成天皇が誕生したのを祝って建立したんだって。
当時は「華山寺」と呼ばれて現在地より少し山手に寄った
街道に近い処にあったと記録されてるようでんな。
877年(元慶元年)に清和天皇の勅願寺となったので
寺名を年号から貰って「元慶寺」と成ったそうですわ。
それから約100年ぐらい経ってから歴史上に有名な
天皇出家事件がこの元慶寺で起きましたんや。
(花山天皇 御落飾の石碑)
986年(寛和2年)に花山天皇が藤原兼家・道兼の親子の
陰謀によって不本意な形で出家に追い込まれたお寺なんですよ。
藤原兼家の娘が生んだ皇太子を早く天皇にさせる為に
藤原道兼が花山天皇と一緒に出家しましょうと偽って
このお寺に連れ出したと歴史書は語ってますな。
道兼は出家する前に一目だけ父に挨拶をといって脱出
花山天皇は騙されたと分かったが、今は仕方がないと
静かに落飾されて花山法皇となられたそうですわ。
ここで2年ばかり過ごされてましたので、このお寺を
西国三十三ヶ所の巡礼を再興された花山法皇を賛えて
西国三十三ヶ所の番外札所と成ったようでんな。
花山天皇が退位されて後を継がれたのが一条天皇で
藤原道長の栄華と源氏物語などの時代に移る訳でんな。
(元慶寺=がんけいじ ご朱印)
普通は西国三十三ヶ所巡りは観音菩薩さんと
決まってるんでっけど、ここは薬師如来さまですな。
それではこのお寺を建立した僧正遍昭さんのお墓が
この近くに在るとのことで立ち寄って見まひょ。
(渋谷街道=しぶたにかいどう 大石道交差点)
この渋谷街道ちゅうのは鎌倉時代までは東国から
京都市内へ入る重要な道だったようでっせ。
この街道を東山で越えた清水寺の近くには幕府の
六波羅探題が置かれていたそうでんな。
当時はこの辺りが東山を越える鞍部では一番低く
街道を通すのに最適だったということでっかな。
現在は国道1号線や三条通りの渋滞を避けるために
地元の方が抜け道に使うだけになりましたけど。
大石道に面して僧正遍昭のお墓があるとは聞いたけど
見落して国道1号線の手前まで来ましたがな。
道を聞くためにこの辺りで昼飯にしまひょかな。
(うどんの 天 邑)
店員さんは僧正遍昭のお墓は知らないとのこと。
宮内庁管理のお墓として地図にも載っていたのにな。
困ったよ~ と思っていたら奥の席に居られたお客が
200mぐらい戻って右手の細い道を入ったらおます。
やはり地元でも年配の方はご存知のようでしたわ。
(食堂に飾ってある 団扇)
京都は先斗町の芸妓さんの名前入りの団扇でんがな。
一番上のお名前の方はテレビにも出ておられたはず。
鉄ちゃん爺やには、とてもじゃないけど立ち寄れない
超高級の料亭かな、尋ねるのは下衆なのでやめました。
(僧正遍昭=そうじょうへんじょう のお墓)
このお方は京都に遷都された桓武天皇のお孫さんですな。
六歌仙・三十六歌仙で有名な当時の歌僧でナンバー1
小倉百人一首でも、こんな歌を詠んでおられますな。
「天つ風 雲の通い路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」
この和歌はまだ出家される前の殿上人であった頃に
宮中で「五節の舞い」の美しさを天女に例えて詠んだとか。
鉄ちゃん爺やも、若い頃に真っ先に覚えた和歌でしたな。
でも宮内庁さんは雑草の駆除をサボってはりますな。
天皇陵なら綺麗に剪定したり雑草は刈り取られてるのに。
僧正遍昭さんが桓武天皇の皇孫とは知りまへんでしたわ。
この方は仁明天皇に仕えて正五位の蔵人頭に任じてたんですが
850年(嘉祥3年)3月に仁明天皇が崩御された折に
若くして出家されてますな。
父親は大納言まで昇進しておられるから、もしも出家せずに
宮中に残っておられたら中納言にはなっておられたかも。
(三十六歌仙 僧正遍昭)
僧正遍昭さんは遍照とも呼ばれているのを承知ですけど。
この僧正遍昭さんは70歳を超えて長生きされてますな。
今は小さいお寺ですが京都の雲林院やこの元慶寺などの
当時は大きかった朝廷の勅願寺の別当を務められてますんや。
この元慶寺も応仁の乱で焼失し江戸時代に再建されてますな。
僧正遍昭さんの和歌の弟子が光孝天皇だから出家されても
平安時代の前半を代表する歌人には違いはおまへん。
(JR山科駅舎)
行く前は東山から将軍塚を越えて知恩院や青蓮院へ出ようと
考えていたんですが夕立が来そうな雲行きなので地下鉄にして
京都東山区の青蓮院門跡へ行こうと考えましたんや。
次回は隠れた京都の名所である青蓮院を紹介しまっさ。
ほな、今日はこれでさいなら~♪
(追記) グーグルのソフトが又もやOCNフォトフレンドの
コピーが不能になる状態になっています。
画像が小さくて見辛いですがクリックして頂けば
大きくして観れますのでご容赦くださいね。