(橘寺を遠くから望む)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
このお寺は聖徳太子の生誕の地とされてますんや。
日本書紀によると垂仁天皇の時代に田島間守(たじまもり)が中国から
不老長寿の果物とされる橘を持ち帰ったんだけど
天皇は既に崩御され、仕方がないのでこの地に実を植えたとか。
だから現在も住所は奈良県高市郡明日香村大字橘と呼びまんねんで。
聖徳太子と言えば私らの年代は千円札や1万円札を思い浮かべますな。
高度成長の時代には聖徳太子さんは人気の点でも抜群でしたわ。
最近は人気も下がってしまいましたな。
それじゃ橘寺へ向かいまひょ。
(橘寺 西門)
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聖徳太子さんは第31代用明天皇と穴穂部間人皇女との第二皇子さんですわ。
当時は母親が違えば兄弟でも結婚が出来たそうでんな。
用明天皇も穴穂部間人皇女さんも第29代欽明天皇のお子さんでっせ。
さらに両方の母親も蘇我稲目の娘でこちらも実の姉妹でんな。
現在なら考えられない婚姻でっしゃろ。
(橘寺 太子堂=本堂) (読売新聞の書籍から拝借)
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聖徳太子さんが本尊になってますんで太子堂と呼びますんや。
中世に何度も焼けてしまい現在の建物は江戸時代の再建でおます。
何せ1400年も昔のお話でっさかいに色んな説がおますんや。
聖徳太子は居なかったとの学説を称える偉い先生もおられまっせ。
確かに伝説の人物で当時の権力者が持ち上げた感じもしまんな。
(橘寺 観音堂)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
聖徳太子さんが尊んだ如意輪観音坐像がお祀りされてますんや。
蘇我本宗家は乙巳の変で滅亡し蘇我氏の血統はどうなったのか?
実は第29代欽明天皇のお妃に蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)
と呼ぶお方が13人もの皇子や皇女を生んでおられますんや。
この時代に13人の方が全て成人したとは信じられないんですが
第6皇子に「桜井皇子」というお方がおられますんや。
最初に「猿石」で紹介した「吉備姫王」のお父様にあたります。
この吉備姫王のお子さんが第35代皇極天皇や第36代孝徳天皇で
第38代天智天皇を経て現在の皇室につながってますんや。
ご存知の通り奈良時代末に天武天皇系が断絶し光仁天皇から
京都へ遷都された桓武天皇へと続くんですわな。
この辺りの日本歴史は蘇我家との血筋の薄い方を主流にして
天皇家を万世一系に持っていくように工夫したような感じ。
捏造とは考えたくないが宝皇女と呼ばれた方が本来なら
天皇になれないのに皇極天皇に即位しその上に重祚され
斉明天皇と呼ばれる不思議なことが歴史上におますんや。
宝皇女さんは再婚して後に天皇になった珍しいお方でっせ。
それではこの宝皇女の子供さんの天武天皇陵へ向かいまひょ。
(第40代天武天皇・第41代持統天皇 合葬陵)
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日本歴史に詳しい方なら第40代天武天皇は壬申の乱で近江朝の
大友皇子(甥っ子)を滅ぼして飛鳥に新しい王朝を建てた方。
もっと不思議なのが兄の第38代天智天皇と同じ皇極天皇の
皇子で日本書紀では天智天皇の弟とされてますんや。
でも昔から天武天皇の方が年齢が上であるとの説がおます。
宝皇女さんは第34代舒明天皇に嫁ぐ前に高向王と結婚し
漢皇子(からのみこ)を一人だけ生んでおられますんや。
兄である天智天皇は四人もの娘を弟である大海人皇子と呼ばれた
後の天武天皇に与えているのも不自然な兄弟関係でっしゃろ。
その天智天皇の娘の一人が後に持統天皇になった皇后さんですよ。
だから最近の学説では天武天皇は舒明天皇の皇子じゃなくて
高向王と宝皇女の子供で漢皇子(からのみこ)だとの事。
だから極端な学説では宝皇女は天武天皇が作成させた
日本書紀や古事記で天皇にしなければならない理由があり
天智天皇や舒明天皇に結びつける工夫がなされたとの事。
(天武天皇・持統天皇 合葬陵)
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この御陵は古代の天皇で葬られた事が確実なお墓なんだって。
それと同時に、日本で初めて火葬された第41代持統天皇が
遺言によって夫の天武天皇陵に合葬されているんですわ。
持統天皇は亡くなって後に自分の醜い姿を夫である天武天皇に
見せたくないので火葬を命じて合葬させたのかしら?
現在大阪府や奈良県に在る天皇陵は日本書紀に基づいて明治に
宮内省が定めたのを守り続けているのが現状なんですよ。
そんな訳で天皇陵じゃない単なる丘ちゅうこともあるんだって。
だから明治の初めには、この御陵は第42代の文武天皇陵だと
地元でも宮内省に於いても信じられていたんですわ。
それが1881年(明治14年)に京都のお寺で古文書が発見。
「阿不幾乃山陵記」(おおきのさんりょうき)と呼ばれる物で
鎌倉時代の1235年(文暦2年)3月の盗掘された記録で
その顛末や事後調査が分かる凄い文書だったんですがな。
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藤原定家の「明月記」にも同じことが書かれていて盗掘者は
持統天皇の骨が収められた銀製の骨壷から、恐れ多くも骨を
地上の墳丘にばら撒いてから骨壷だけを持ち出したんだって。
天武天皇の遺骨は石室内にばら撒いたけど、残っていて白髪の
一部が見られたとも書かれていますんや。
そして盗掘者の証言から上円下方八角の当時の天皇を象徴する
お墓のスタイルだったことも記録されてましたんや。
そこまで立証されれば当時の宮内省も誤りを認めてこの御陵は
天武天皇・持統天皇 合葬陵だと断定して変更をしたんだって。
(飛鳥の 聖なるライン)
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図面を見て頂けば藤原京の都から南へ引いた中軸線が飛鳥の
ここ檜隈地区を通過し天武天皇家の聖なる王陵の地とされ
前回の高松塚古墳や現在の文武天皇陵も含まれてまっしゃろ。
このライン上に天武天皇と持統天皇の子孫が葬られている
そんな学説をわても聞いたことがありまっせ。
高松塚古墳の被葬者が「高市皇子」と言う説もおますんや。
「高市皇子」は壬申の乱では若年ながら軍事の全件を委ねられ
持統天皇の時代には太政大臣の位に付いておられた方です。
天武天皇の第1皇子ながら生母が尼子娘(あまこのいらつめ)で
豪族の娘なので天皇にはなれないが数多い天武天皇の子息の中で
天武・持統の両天皇にも一番信頼された方のようですね。
この方の子供が奈良時代に藤原氏の陰謀で悲運な最後を遂げた
長屋王で最近になって住居跡が発掘されているようでっけど。
(特別史跡 藤原京跡) (奈良県橿原市)
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蛇足ながら「藤原京」は天武天皇が計画された宮殿ながら
崩御されてから持統天皇の時代に完成した経緯がおますんや。
続いて画像をもう2枚貼り付けて置きまひょ。
(牽牛子古墳=けんごしつかこふん)
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上記の聖なるラインから左側へだいぶズレてますがこの古墳
八角形の基壇を持つ天皇陵だとの学者の間では評判です。
現在は偉い学者さんが発掘調査をやられていて近くに
愛娘の墓がありそうで、もし発掘に成功すれば斉明天皇陵だと
宮内庁の誤りが又もや発表されるかもしれませんよ。
先程から何度も登場した宝皇女さんで崩御された時には
第37代斉明天皇で朝鮮半島の百済を復興させようと
中大兄皇子=皇太子や大海人皇子と遠征されたとか。
遠征先の九州は朝倉宮で亡くなられたとされています。
飛鳥の一帯にはまだまだ発掘したい古墳が多いそうですよ。
飛鳥巡りのブログはこれでお仕舞いにさせてもらいま。
最後に、我が家の庭の花を貼り付けておきま。
(紫陽花の仲間 アナベル)
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最初は緑色で次に純白に変わり最後はまた薄緑色に戻りますよ。
原産地はアメリカで手鞠のような30cmぐらいの花を咲かせます。
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次回は京都の元慶寺と青蓮院門跡などを
3回ぐらいに別けて紹介しまっさ。
ほな、今日はこれでさいなら~
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このお寺は聖徳太子の生誕の地とされてますんや。
日本書紀によると垂仁天皇の時代に田島間守(たじまもり)が中国から
不老長寿の果物とされる橘を持ち帰ったんだけど
天皇は既に崩御され、仕方がないのでこの地に実を植えたとか。
だから現在も住所は奈良県高市郡明日香村大字橘と呼びまんねんで。
聖徳太子と言えば私らの年代は千円札や1万円札を思い浮かべますな。
高度成長の時代には聖徳太子さんは人気の点でも抜群でしたわ。
最近は人気も下がってしまいましたな。
それじゃ橘寺へ向かいまひょ。
(橘寺 西門)
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聖徳太子さんは第31代用明天皇と穴穂部間人皇女との第二皇子さんですわ。
当時は母親が違えば兄弟でも結婚が出来たそうでんな。
用明天皇も穴穂部間人皇女さんも第29代欽明天皇のお子さんでっせ。
さらに両方の母親も蘇我稲目の娘でこちらも実の姉妹でんな。
現在なら考えられない婚姻でっしゃろ。
(橘寺 太子堂=本堂) (読売新聞の書籍から拝借)
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聖徳太子さんが本尊になってますんで太子堂と呼びますんや。
中世に何度も焼けてしまい現在の建物は江戸時代の再建でおます。
何せ1400年も昔のお話でっさかいに色んな説がおますんや。
聖徳太子は居なかったとの学説を称える偉い先生もおられまっせ。
確かに伝説の人物で当時の権力者が持ち上げた感じもしまんな。
(橘寺 観音堂)
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聖徳太子さんが尊んだ如意輪観音坐像がお祀りされてますんや。
蘇我本宗家は乙巳の変で滅亡し蘇我氏の血統はどうなったのか?
実は第29代欽明天皇のお妃に蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)
と呼ぶお方が13人もの皇子や皇女を生んでおられますんや。
この時代に13人の方が全て成人したとは信じられないんですが
第6皇子に「桜井皇子」というお方がおられますんや。
最初に「猿石」で紹介した「吉備姫王」のお父様にあたります。
この吉備姫王のお子さんが第35代皇極天皇や第36代孝徳天皇で
第38代天智天皇を経て現在の皇室につながってますんや。
ご存知の通り奈良時代末に天武天皇系が断絶し光仁天皇から
京都へ遷都された桓武天皇へと続くんですわな。
この辺りの日本歴史は蘇我家との血筋の薄い方を主流にして
天皇家を万世一系に持っていくように工夫したような感じ。
捏造とは考えたくないが宝皇女と呼ばれた方が本来なら
天皇になれないのに皇極天皇に即位しその上に重祚され
斉明天皇と呼ばれる不思議なことが歴史上におますんや。
宝皇女さんは再婚して後に天皇になった珍しいお方でっせ。
それではこの宝皇女の子供さんの天武天皇陵へ向かいまひょ。
(第40代天武天皇・第41代持統天皇 合葬陵)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
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日本歴史に詳しい方なら第40代天武天皇は壬申の乱で近江朝の
大友皇子(甥っ子)を滅ぼして飛鳥に新しい王朝を建てた方。
もっと不思議なのが兄の第38代天智天皇と同じ皇極天皇の
皇子で日本書紀では天智天皇の弟とされてますんや。
でも昔から天武天皇の方が年齢が上であるとの説がおます。
宝皇女さんは第34代舒明天皇に嫁ぐ前に高向王と結婚し
漢皇子(からのみこ)を一人だけ生んでおられますんや。
兄である天智天皇は四人もの娘を弟である大海人皇子と呼ばれた
後の天武天皇に与えているのも不自然な兄弟関係でっしゃろ。
その天智天皇の娘の一人が後に持統天皇になった皇后さんですよ。
だから最近の学説では天武天皇は舒明天皇の皇子じゃなくて
高向王と宝皇女の子供で漢皇子(からのみこ)だとの事。
だから極端な学説では宝皇女は天武天皇が作成させた
日本書紀や古事記で天皇にしなければならない理由があり
天智天皇や舒明天皇に結びつける工夫がなされたとの事。
(天武天皇・持統天皇 合葬陵)
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この御陵は古代の天皇で葬られた事が確実なお墓なんだって。
それと同時に、日本で初めて火葬された第41代持統天皇が
遺言によって夫の天武天皇陵に合葬されているんですわ。
持統天皇は亡くなって後に自分の醜い姿を夫である天武天皇に
見せたくないので火葬を命じて合葬させたのかしら?
現在大阪府や奈良県に在る天皇陵は日本書紀に基づいて明治に
宮内省が定めたのを守り続けているのが現状なんですよ。
そんな訳で天皇陵じゃない単なる丘ちゅうこともあるんだって。
だから明治の初めには、この御陵は第42代の文武天皇陵だと
地元でも宮内省に於いても信じられていたんですわ。
それが1881年(明治14年)に京都のお寺で古文書が発見。
「阿不幾乃山陵記」(おおきのさんりょうき)と呼ばれる物で
鎌倉時代の1235年(文暦2年)3月の盗掘された記録で
その顛末や事後調査が分かる凄い文書だったんですがな。
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藤原定家の「明月記」にも同じことが書かれていて盗掘者は
持統天皇の骨が収められた銀製の骨壷から、恐れ多くも骨を
地上の墳丘にばら撒いてから骨壷だけを持ち出したんだって。
天武天皇の遺骨は石室内にばら撒いたけど、残っていて白髪の
一部が見られたとも書かれていますんや。
そして盗掘者の証言から上円下方八角の当時の天皇を象徴する
お墓のスタイルだったことも記録されてましたんや。
そこまで立証されれば当時の宮内省も誤りを認めてこの御陵は
天武天皇・持統天皇 合葬陵だと断定して変更をしたんだって。
(飛鳥の 聖なるライン)
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図面を見て頂けば藤原京の都から南へ引いた中軸線が飛鳥の
ここ檜隈地区を通過し天武天皇家の聖なる王陵の地とされ
前回の高松塚古墳や現在の文武天皇陵も含まれてまっしゃろ。
このライン上に天武天皇と持統天皇の子孫が葬られている
そんな学説をわても聞いたことがありまっせ。
高松塚古墳の被葬者が「高市皇子」と言う説もおますんや。
「高市皇子」は壬申の乱では若年ながら軍事の全件を委ねられ
持統天皇の時代には太政大臣の位に付いておられた方です。
天武天皇の第1皇子ながら生母が尼子娘(あまこのいらつめ)で
豪族の娘なので天皇にはなれないが数多い天武天皇の子息の中で
天武・持統の両天皇にも一番信頼された方のようですね。
この方の子供が奈良時代に藤原氏の陰謀で悲運な最後を遂げた
長屋王で最近になって住居跡が発掘されているようでっけど。
(特別史跡 藤原京跡) (奈良県橿原市)
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蛇足ながら「藤原京」は天武天皇が計画された宮殿ながら
崩御されてから持統天皇の時代に完成した経緯がおますんや。
続いて画像をもう2枚貼り付けて置きまひょ。
(牽牛子古墳=けんごしつかこふん)
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上記の聖なるラインから左側へだいぶズレてますがこの古墳
八角形の基壇を持つ天皇陵だとの学者の間では評判です。
現在は偉い学者さんが発掘調査をやられていて近くに
愛娘の墓がありそうで、もし発掘に成功すれば斉明天皇陵だと
宮内庁の誤りが又もや発表されるかもしれませんよ。
先程から何度も登場した宝皇女さんで崩御された時には
第37代斉明天皇で朝鮮半島の百済を復興させようと
中大兄皇子=皇太子や大海人皇子と遠征されたとか。
遠征先の九州は朝倉宮で亡くなられたとされています。
飛鳥の一帯にはまだまだ発掘したい古墳が多いそうですよ。
飛鳥巡りのブログはこれでお仕舞いにさせてもらいま。
最後に、我が家の庭の花を貼り付けておきま。
(紫陽花の仲間 アナベル)
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最初は緑色で次に純白に変わり最後はまた薄緑色に戻りますよ。
原産地はアメリカで手鞠のような30cmぐらいの花を咲かせます。
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次回は京都の元慶寺と青蓮院門跡などを
3回ぐらいに別けて紹介しまっさ。
ほな、今日はこれでさいなら~