1月11日(火)、1月度「信長公記」を読む会がありました。所用のため、11月、12月度の会は欠席したので3ヵ月ぶりの出席でした。
正月でいつもの第1火曜ではなくなったこと、阪急電車の武庫之荘駅での人身事故のため阪急電車が動かなかったこともあり、出席者はいつもより少なく7名でした。
砂川先生の到着も遅れ、30分遅れてスタートです。
開講の前に、
①「因幡鹿野城主亀井茲矩」について先生が執筆し出版される話
②NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人}の北条義時の話
があった。
前回、前々回に、(9)九鬼大船の事 の途中から最後まで (10)小相撲の事 は終了したらしい。信長の趣味である鷹、および相撲の話だ。
テキストは巻十一(11)大船堺津にて御見物の事 から。
要旨: 9月27日、信長公は九鬼嘉隆の鉄船を観覧するため京を出て八幡まで下る。翌28日は若江に宿泊。29日には早朝より天王寺を訪れて佐久間信盛の陣所でしばし休息し、住吉大社の社家に座を移した。この天王寺から住吉までの道中、信長公は道々で鷹狩を行った。そして30日、信長公は払暁より堺港へ入った。信長公には近衛前久殿(膳関白)・細川信良殿(管領)・一色義道殿(丹波守護)らが大船見物のため同行していた。
やがて、九鬼の大船が現れた。大船は幟・指物・幔幕などによりさまざまに飾り立てられて、浦々の武者舟もそれぞれに兵具で装飾していた。また堺は南庄・北庄一つとなって御座船を仕立て、おびただしい唐物で船を飾り立てた上に進物の数々を信長公へ献じてきた。 このとき堺南庄、北庄の僧俗男女は信長公を拝み奉るべく盛装し、芳香・焼香の香りを薫じさせて陸に群れ集まっていた。信長公はその中をただ一人九鬼の大船に乗り移り、船内を見物してまわった。そののち信長公は今井宗久のもとへ足を運んだ。
*御成など、将軍に使う言葉を使っている。将軍としてみていたことがわかる。
*近衛殿など摂関を従えている。将軍足利義政が摂関を従え兵庫津に船を見に行った事例を倣ったのか。
*船を飾り立てたのは、信長の好みに合わせたのか。
*大船には信長一人が乗り移った。信長の唯我独尊の気持ちが出ている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます