4月20日(土)14時から尼崎中央図書館で開催された4月度「平家物語を読む会」に出席しました。出席者は20名でした。
平家物語の講座は23年目に入りました。
3月の講座の最後は、平家物語巻五で「飛ぶ鳥を祈り落とすほどの刃の験者」とたとえられた文覚上人が頼朝が亡くなった後、隠岐国に流された(実際は佐渡島から対馬)ところまでだったが、砂川先生は冒頭、文覚について整理される。
*我々が読んでいるのは平家物語の「覚一本」で、頼朝挙兵の詳細、文覚出家の理由についてはほとんど記載がないが、「延慶本」「長門本」「源平盛衰記」などでは頼朝挙兵や、東国武士団の活躍が詳細に描かれている。また文覚がなぜ出家したか(中国の話の翻案?)についても詳細に描いてある。荒行を行い呪術を会得「刃の験者」と呼ばれるようになった文覚。
*年号が治承、養和、寿永、元暦、文治と次々と変わった平家物語の時代は安政、万延、文久、元治、慶応、明治と変わった明治維新前後とよく似ている。まさに文覚は時代の変わり目、革命に立ち会ったのだ。
その後、巻第十二 六代被斬 を最後まで読み通した。
文覚が無念に思い「後鳥羽を文覚が流される隠岐に迎え申そう」といったが承久の変のあとその通りになったこと、配流された院の前に亡霊(人にとりつき)となって物語をしたこと等が描かれている。
六代は「さる人の子なり、さる人の弟子なり。頭をはそったりとも、心をばよもそらじ」とて斬られてしまう。十二の年から、三十を過ぎるまで生きられたのは、ひとえに長谷の観音の御利生ということだった。それ以来平家の子孫は永遠に絶えてしまった。
「覚一本」では平家物語十二巻のあとに「灌頂巻」で女院の物語があるが、灌頂巻に該当する部分を本文の中に組み入れ、末尾は六代が斬られることをもって結びとする「断絶平家」の形を取ル平家物語も存在する。その形の方が「平家の子孫はながくたえにけれ」の部分が重くなっている。
尼崎城の天守閣が3月末に完成しましたね。写真を載せておきます。