近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
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岡本かの子『老妓抄』読書会

2013-01-08 02:41:21 | Weblog
あけましておめでとうございます。

1月7日、新年最初の例会は、岡本かの子『老妓抄』の読書会を行いました。司会は藤野が務めさせていただきました。

この作品は岡本かの子の晩年の作品であり、発表当初から高い評価がされました。


読書会ではまず、「この物語を書き記す作者」として、老妓が和歌を学ぶこととなる人物が作品の序盤と最後に現れる、作品上に作者が登場人物として現れていることについて意見が交わされました。
この作品の最後に「最近の老妓の心境が窺へる一首」として作品を締めくくる和歌、それを象徴的にするために老妓に和歌を教えた作者が老妓の和歌を紹介する形で、自然と作品に出し、また強調する働きがあるのではないか、という意見。また、登場人物としての作者ではでは知りえないことを、神の目のような視点で語ることのできる作者、これには語りの不可解なものがあるが、これは作者=岡本かの子という読みを避けるようにな働きがあったのではないか、という意見。知りえないことを語る登場人物としての作者は、自身が知っている老妓のことと、作品の最後の和歌から最近の老妓のことを想像して書かれていということではないか、という意見などがでました。


その他には、この作品の人物が持つ二面性ともいえるものに着目した意見に、発明を志す柚木をパトロンのように面倒をみる老妓だが、決して発明のことに頓着しない様子が中途半端ではないか、という意見、老妓が「何となく健康で常識的な生活を望むようやうになった」にも関わらず、いまだに男性を囲い込むようなことをする老妓はやはり、芸妓としての生き方から離れられずそのことは養女・みち子にも影響を及ぼしているのではないかという意見。冒頭で、老妓の本名・職業上の名(小その)を挙げたのちに「老妓といつて置く方がよからうと思ふ」とあるが、作中老妓は小そのとも記される、そういった人称の違いの問題も、いまだ芸妓として生きているからではないかとも思われる。
作中の文法に関する意見で、作品終盤の老妓が柚木に自分の考えを伝える場面で、「」の外の地の文に会話文として老妓の言葉が記されていることに着目した意見がでました。この老妓の言葉には作者(岡本かの子)の意見が含まれたものではないか、という意見が出されました。
この地の文の中にも自分と私という人称の違いがあり、そこに作者(岡本かの子)が老妓の言葉に作者が介入したものといえる登場人物との近い距離にあるからこそ、私という人称が使われるのではないか。

このような、作品中にみられる人物の地の文にみられる言葉(老妓と柚木が同じ言葉を使用している例がみられる)には、人物の心情を作者が巧みに操作しているのではないか。

最後に、岡崎先生からこの作品には、芸妓ならではの愛への憧れがあり、けれど芸妓として生きることしかできない老妓の物語である、それが作品名の『老妓抄』にも表れているのではないか。そして、この作品にはある種の構造上の破綻がみられるが、そこにある種のリアリティが存在しており、これは女流文学に多くみられることでもあるとおっしゃっていました。
そして、多く意見が出された作中に老妓に和歌を教え人物として現れる作者は、最後に紹介する和歌は「もっとも原作に多少の改削を加へたのは、師弟の作法というより、読む人への意味の疎通をより良くするために外ならない」という断りがわざわざ入っている。これは作品に作者による改削が存在していることを、作品中に作者を登場人物としてみせることで、その存在を強調しているとおっしゃっていました。

『老妓抄』は、最後の短歌が先に作られたという作品の成立過程があり、その短歌に込められた作者の想いが見事に作品の中の人物達を介し、表現されていました。そこには、決して簡単には表現できない人の内面が見事に描かれていました。


来週は成人式ということもあり、例会はありません。次回は1月21日に、夏目漱石『それから』卒業論文の報告会を行います。
                                                           4年 藤野








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