
S12型シルビアの主要モデルと当時のアイデアスケッチ。トミカ1/62はハードトップ、トミカダンディ1/43と後年登場した精密なトミカリミテッド1/43はハッチバック、チョロQはハッチバック、プラモは混在、といろいろなモデルになっています。少し残念なのはトミカ1/62。S110型が1/61なのでせめてスケールをそろえて欲しかった・・。それにしてもトミカはなぜこんなにスケールがばらばらなのでしょう。大中小と3種類くらいにするといいと思いますが・・。
クレイモデルに移行する際、イメージの中心になったスケッチは当時大流行のヴェラムペーパー(厚手のトレーシングペーパーみたいなもの)にマーカーやパステルを使って描いたもの。マーカーを裏側から塗ってハーフトーンにするとか、パステルや色鉛筆のノリがいいという特徴がありましたが、インクのにじみが広がり長期保存には全く向いていない紙だということが25年を経てわかりました。
クレイモデルに移行する際、イメージの中心になったスケッチは当時大流行のヴェラムペーパー(厚手のトレーシングペーパーみたいなもの)にマーカーやパステルを使って描いたもの。マーカーを裏側から塗ってハーフトーンにするとか、パステルや色鉛筆のノリがいいという特徴がありましたが、インクのにじみが広がり長期保存には全く向いていない紙だということが25年を経てわかりました。
あれもkobatadsさんのデザインなのでしょうか?
これまた 貴重なウラ話、ありがとうございましたm(__)m
ちなみに このkobatadsさんが描かれた 黄/白ツートンのイメージは Gr・5のシルビア・シルエット、星野さんカラーでしょうか・・・?
私は父親の影響か(呪縛か)同じ轍を踏んでおりまして、デザイナーをやっております。そしてインハウスで仕事を続け、30代も後半になり、あらためてPAOという車の【プロダクトとしてのやりきりの凄さ】に気づき、購入を決意、某ショップのフルレストアメニューによって新車のように蘇ったPAOを入手して、日々PAO生活を楽しんでおります。
日々インハウスで仕事をしていると、kobatadsさんが、、一連のパイクカーのお仕事をされ→そのまま会社を出られ→地方の地場とかかわりを持たれながらお仕事をされている流れ・・というか、お気持ち、よくわかる気がします。あの時代、まさにあの時期の(・・わたしは中学生でしたが、、)様々な要素とあいまって、あのような奇跡的なプロダクトを生み出す事ができたのだと理解できます。
当時の【Be-1の社長プレゼンの話】は、今でも伝説として耳にします。。(デザイン・オリエンテッドだった時代の凄まじい勢いを感じます)
わたしも現在、日々奮闘しておりますが、【会社が傾かずして、コストを抑えたモノづくり】をしようとすると、どうしても【効率重視の流れ】を変える事がなかなかできせん。そんな中、どうやったら【上を煙に巻いて、いいモノを作れるか】日々画策しております。(笑)
PAOはこれから末永く付き合って味わいを刻んでいきたいと思ってます・・・。
ブログには日々好き勝手なことを刻んでおりますが、よろしかったらお立ち寄りいただければ幸いです。
バーコードなお父様って誰かなあ?
当時の仕事ですが、一番否定的だったのは数多くの内輪のデザイナーや企画担当者でした。あたまカチカチのデザインオタクや評論家を煙にまくと素敵なモノができるかもしれませんね。
当時Be-1は部内ではすごく否定的な空気だったのだが、いざフタを空けたてみたら社会現象にまで・・。その途端に手のひら返しで、当時の上位者が自分の手柄にしてメディアに露出していった・・・と。
それに怒ったkobatadsさんはきっと会社を飛び出したのだと思う、、と聞いてます・・・。(笑・・すみません。勝手なジジーの想像だと思いますが・・・。)
その1
過激な3台、プラス最後のFIGARO対抗計画的超過激ボツ案を最後まで楽しむことができ、これ以上楽しいプロジェクトは以後発生しないと確信したから。
その2
ネーミングやロゴ、関連商品、販売戦略、プロモーションなどクルマをとりまくすべての事象をコントロール、体験でき、インダストリアルデザインの狭い世界に満足できなくなったから。
その3
幼少よりの念願だったプラモやミニカーが間違いなく手に入ることが確信できたから。バンダイを狙っていた時期もありましたが、どうせならミニカーの元をデザインすればいいじゃん・・という壮大な回り道。パーフェクトな京商モデルの監修にたどりつくまで30年かかりましたけどね。
その4
当時の広報部の仲間のひとこと。「朝日新聞の顔欄に載った人はみんなやめちゃうっていうジンクスがあるんだよねえ。」ジンクスを継続させました。
バーコード(今は全く無い)にも言っておきます。(笑)
今後ともよろしくお願いします。