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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「2人~」へ(5)

2010年07月08日 | Weblog
いまは、会議と会議の合間(16:30)。ちょっとの時間ですが、できたので更新してみます。

秋葉原で会ってから約半年後、2008年の9月、港の方では横浜トリエンナーレが華々しく展開されているなか、別の横浜(寿町)では、遠藤一郎が淡々と、おじさんたちとおしゃべりする「未来カフェ」を運営していた。それを見学し、インタビューした模様は、『クイック・ジャパン』に掲載された。抜粋してみます。

「九月某日。コンクリに寝そべるおじさんたちの脇で恐る恐る電話をかけると、待ち合わせの場所に遠藤はあらわれた。
 「未来に進む気持ちとか、次につなげる気持ちとか、精一杯やるって気持ちとか、生命の誕生から変わらないもので、なければ現在の人類は存在しないと思わせる、当然あるはずのフラットなもの、莫大な広さの肯定する自然の力」――遠藤によれば、そうした「力」をストレートに見る者と共有することこそ、アートと呼ぶにふさわしい活動なのだという。職安の壁に目をやると、そこには斜めに上昇する人型の切り抜きが無数に貼ってあった。九州在住・浦田琴恵が数日前に残していった作品は、遠藤のいう未来への「気持ち」を可視化しているように見えた。「…これはつまり「上る」ってことなんだな?」とあるおじさんに話しかけられて「その通り!」と答えた、なんて嬉しそうにエピソードを話す遠藤にとってみれば、作家の仕事とは、みずからの技量の誇示などでは毛頭なく、ただただ自然の力を目に見えるものへと変換することに他ならないのである。
 そんな遠藤の目には街もそうした変換の運動のひとつに映る。「街は重要。ひとがつくった人工的なものではあるけれど、街の移り変わりとかすごい自然な気がする。雨が降ってコンクリに染みができるみたいに。ひとは自分たちが街を作っていると思い込んでいるけど、もっと大きな力が作動しているはず。そこにねじれがあると気持ち悪い街だなって感じる」。」

真ん中を少しはしょって、後半。

「話を聞いて分かってきた。こうしたひとやものをつなぐ装置を作ることこそ彼のアート(技)なのだ。システムが稼働し続けるなら、後々「未来カフェ」や「遠藤」の名が消えしまって構わない、むしろ匿名化していく方が望ましい、遠藤はそう話してもくれた。「可能性は自分の内側じゃなく外側に広がっている。自分のなかに可能性とかセンスがあるって思うからどんどん閉じて、で小さくなる。そうじゃない。外にあるものを吸収して自分は大きくなるし、外の可能性を拾って、自分をもっと高めることが出来る。そういうこと、偉そうに聞こえるかもしれないけど、みんな知らない気がする。」
 国際的展覧会からはぐれた世界で、もうひとつのアートが作動しようとしていた。別れ際、豪快な笑顔でぎゅっと握手され、手を振り横断歩道を渡って数歩、不意に振り返ると、上昇する浦田の人型みたいに、駆け戻る遠藤の脚は驚くほど高々とホッピンしていた。」


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