Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

野田努『ブラック・マシン・ミュージック』

2006年09月08日 | Weblog
この三日くらいはひたすら家に引きこもってノート・パソコンの前で唸っているのですが、時間は作っているのに進むべきものが進まなかったりしてます。体が滞っていると思考も滞るんですよね。運動しに行った方がいいんだろうなーと思いつつ、やけに熱をもっちゃってるパソコンの前で余計なことばかりしています。

ひとついま楽しみになっているのは、野田努『ブラック・マシン・ミュージック』(河出書房新社、2001)を読むこと。素晴らしい。六十年代後半から九十年代にかけてのディスコ、ハウス、デトロイト・テクノのことをまとめた、超大作。一人で書いた本で500頁弱もある!すごい、頭が下がる。でも、尊敬してしまうのは分量だけではなく、本当はかなりマニアックな話だろうことをロジカルに整理し、実に読ませるのだ。こういう本、なぜダンス研究の中から出てこないのだろう!哀号!

それでも、やはり音楽本を読んでいると出てくる音楽が聴きたくなる。そんなときに本当にi tuneとかって便利だよなーと思う。サンプルが聞けるだけで理解がぐーっと広がっていく。すごい時代だ。十年引きこもり状態で自分の好き勝手な研究して人を驚愕させるような本を書いてしまったなんて話、あってもおかしくないですね、今の時代。可能性ばかりダダ広がりしている。

さっきも「チャールストン」ってダンスのジャンルが気になったのでYou Tubeで検索してみるとやんなるくらい出てくる。ダフトパンクがPVでチャールストンのダンスシーンをリミックスして使っているのが出てくれば、しばらく調べているとその元ネタのビデオも出てくる。
これが元ネタ、Al Minns & Leon James
こっちがダフトパンク
見ていてほんとにチャールストンて力が抜けてて(とくにこのAl Minns & Leon Jamesのなんか、何という繊細な腕のダンス!何というブロークンな脚のダンス!)いいダンスだなあと思う。

で、野田本に戻ると、この本の冒頭で語られているのは「キル・ディスコ」のこと。ディスコは音楽を汚している、そういう非難をダンス・ミュージックは受けていたと言うんです。例えば、ジェームス・ブラウンは、こう言っているそう。

「ディスコは私がやってきたと彼らが考えていることや、私がやってきたことの多くを単純化したものだ。ディスコはファンクのほんの部分でしかないんだ。何よりもそこには歌ってものがないし、反復に過ぎない。男をたらしこめる妖婦のようなものだ。ファンクとの違いで言えばグルーヴに入り込めるかってことだ。ディスコは表面的なんだ。彼らは私が教えたことをやっているが、私が教えたすべてをやっているわけではない。ディスコは私をさんざん傷つけた」(18)

ディスコの快楽主義は音楽の意味性を無視して機能性のみに着目した。

「意味性を欠いた機能的で快楽的なふたつの大ヒット曲[註 マッコイ「The Hustle」とドナ・サマー「Love to Love You Baby」。そう言えば、この曲のタイトルからハッスル・ダンスを調べている内に「チャールストン」へと流れていったのだった!]によって、本格的にディスコ・ヒットの時代がはじまった。」(62)

このディスコ批判は例えばさらにこういう言葉へと繋がっていくんですね。

「アーティストの自我が滲み出た実存主義的なロックよりも、当たり障りのない歌詞の匿名的で快楽主義的なダンス・ミュージックのほうがやがて売れるようになってしまったのは、先に引用したナイル・ロジャースの発言が物語っているように、裏を返せばリスナーがもはや音楽のなかに変革への期待や社会参加を望まなくなったからだった」(62)

でも、音楽の意味性、自己表現性を無視するダンス・ミュージックは、社会変革を全然望まないノン・ポリ保守層の音楽ではなく、むしろマイノリティが意味の呪縛から解かれてただただ忘我的に、ダンスする快楽を貪るための解放区を生み出す音楽だったらしい。ゲイカルチャーがディスコ創出に大きく荷担していたことをチェキしながら野田さんはこうこの辺りのことを整理しています。

「そもそもこの文化は絶望的状況から発したものなのだ。自分たちにとっての自然である状態が異常と見なされる世界に絶望しないゲイなどいるのだろうか。たとえそれが消費の快楽であり刹那的なものだとしても、この世には刹那的な美しさというものもあり、その一瞬の快楽のなかに人生のすべてを賭けることもあり得る。そして、その刹那性は、ダンス・ミュージックと呼ばれる音楽を確実に磨いてきた。痛みから徹底的に遠ざかろうとするこの音楽は、長い年月のなかでいくつもの煌めいた瞬間を生み出し、多様な音楽性を獲得してきた」(24)

刹那的にその瞬間のダンス的快楽だけに希望を持つという絶望に端を発したカルチャーがディスコだ、というわけです。

このこともすごく面白いのだけれど、ぼくにとってさらに気になるのは、ディスコ・ミュージックの反復性とミニマル系のアートやダンスの反復性がほぼ同時代的に生じていると言うことです。つい数日前、「あっ、そうじゃん!」と気づいたのです。前者はサブ・カル(アンダーグラウンド)、後者はハイ・アート(でもマイナー)、分野やそこに集う人たちは異なれど、反復性に活路を見出しているのは共通しているのです。しかも、この反復性によって自ずと否定されていくのが意味性(あるいは自己表現性、また物語性)ということも共通しているのですよ。

「反復とシンコペーション、ブレイクの使い方や音の抜き差しなどは、まったくその後のダンス・ミュージックを予見しているようだ。」(47)

考えてみれば、ターンテーブルの発明というのは、一曲を全体として捉える発想から自由になって、いつまでもある曲のあるフレーズをひとつのユニットとして切り出してきてただひたすらそれを反復して流すことが出来ないかという欲望に端を発しているのであり、ミニマル・アートのもつセンスと接することは大いにあるはずなのだ。て、思うと(すごくマニアな議論展開になっていますが)、現代美術批評家マイケル・フリードが『芸術と客体性』(1967)で取り上げたトニー・スミス(ミニマル・アーティスト)のセンス、高速道路をただひたすら疾走する経験にそれまでの既存の芸術経験以上の何かを感じ取るセンスに似たものを、次の文章に感じてしまうのです。

「突然わかったんだ、完璧な音楽とは何かってことがね。それは夜明けから日没への流れのように、いかに真昼を創出するのかということでもあるんだ。そこには時間があり、その時間は強くもなり、柔らかくもなるだろう。日没がやって来て静かになるとコオロギが鳴くように、ぼくはそれをリズムの感覚とした。そう、感覚の知識とね」(43)

サウンドシステムに最初に興味をもったDJとして紹介されているデヴィッド・マンキューソのこの言葉はぼくにとって、ディスコからクラヴやレイヴへと繋がっていくカルチャーとジャドソンダンスシアターからローザスやほうほう堂などへと繋がっていくカルチャーとの「重なり」を意識させてくれるもの。60年代に生まれたミニマルのセンスが、ひとつは快楽主義的な傾向へともうひとつはアート=批評主義的傾向へと分岐していった、、、なんて考えられるのだったら、これ、ずいぶん面白くないですか?

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