ぼくと大谷さんが、今回のDC2で批評文を募集するのは、それによって弟子を育てようとか、それによって自分たちの企画に賛同する者を増やそうとか、そうした動機からではない。
大谷さんがぼくとの会話のなかでよく使う表現を流用するなら、「ただ」見て、見たものについて「ただ」書いたものが集まったとき一体何が起こるんだろうという期待と不安を実現させたい、という気持ちが、この呼びかけの動機でありそれ以外ではない。
作品が内側に作る波紋と外側に作る波紋、そして作品が2つ並んだことでうまれる波紋の乱れ、そうした出来事の一々と総体について、観客となった各人が「あれは一体何だったのか?」と消えつつある感触を手繰って主体的に言葉を紡ぐこと、そしてその言葉たちがさらに複数の波紋を引き起こして乱れていくこと、そうした芸術の運動をめぐるありうべきだがそうは上手く転ばないことしばしばな事態を期待してのこと、なのである。
「ただ」とは、作品に向き合う者の態度を指す。第一次テクストである作品こそ尊重されるべきであり、批評文は作品に向き合った身体が作品と衝突したそのショック体験から決して離れてはいけない、ということが「ただ」の意味内実をなす。無防備な「ただ」見る行為の直中では、ぼくたちは「何が何だか分からない!」という戸惑いを何らかの第二次テクスト(他人の批評や身の回りに漂っている批評的言説)によって中和し解消することが叶わず、いつまでも戸惑っているに相違なく、その戸惑いとともに書くことこそ「ただ」書くということだろう。
批評は自己満足でもその裏返しの他者批判/称賛でもなく、自分が当の作品と出会ってしまったこと、その出会いが引き起こしてしまった両者の接合と分離あるいは痙攣状態を吟味すること、「ただ」それだけである。書くことは見たことに条件付けられていて、見たことで揺るがされたアイデンティティを回復するプロセスが書くことでもある。そこに新たな批評のフレームが生まれたり、既存のフレームが鋳造し直されたりすることだろう。その道程が不安に満ちていればそれだけ、批評は見たことのディテールの内に呪縛され、そしてそれだからこそ固有の輝きを保ち続けるだろう。自分語りの魅力も、分析する技術の誇示も、この「ただ」見た経験の細部から離れていってしまうなら、批評と呼ぶべき何かではとくにない。
ところで(唐突に話題が飛びます)、自分の書いた小説よりも評論の方に十倍影響力があると嘆息しつつ、東浩紀はその理由について「本当に語りたい対象があまりに複雑で、こちらに沈黙を強いてくるだけのときに、その緩衝材として立ち現れ、人々にネタを提供し、おしゃべりを円滑にする」(東浩紀「なんとなく、考える」『文學界』9月号)のが評論だから、と最近書いていた。「ネタ」(あるいは「超訳」といってもいいか)としてしか評論の意義はないとする東にとって興味は評論の「力」(波及効果)である。「ブログ論壇」「サブカル論壇」の「隆盛」を論じることで「論壇」なるものを再生産させようする東が考えるような、対象(作品)のネタ化を促進する類の言葉とは別の言葉は、ないのだろうか。「沈黙」(分からない)と「ネタ」(分かる→消費の対象となる)の間に言葉を立ち上がらせてみることは、出来ないのだろうか。その苦しい楽しみは、ぼくたちのものではないのだろうか。「円滑」な「おしゃべり」以外のコミュニケーションは、ぼくたちにもう出来ないのだろうか。
大谷さんとぼくとの企画ということについて、ひとは様々な憶測(先読み)をするのかもしれない。「何故この秋山・大橋という二組なのか?」あるいは「何故大谷と木村なのか」という企画意図について推測するメタ批評が投稿されることもあるかもしれない。けれども、あらかじめ断っておくと、当人たちは「ただ」企画しているのである。ミシンならぬ大橋可也&ダンサーズとこうもり傘ならぬ秋山徹次を解剖台ならぬ月島のギャラリーに並べてみたらどうなる???とギャハハ笑いながら、背筋をぞくぞくさせながら膝を付け合わせているだけなのである。何が起こるか当人たちだって分からないよ。分かるわけないじゃん。
例えば、そもそも、大谷さんのこと、ぼくはよく分からない。分かることより分からないことの方がずっと多い。ひとつの肉体に収まっているのは、むちゃくちゃ謎めいた多様体なのだから当然。大谷さんにとってのぼくも、そうしたものだろう。そんで、互いがわけ分からないからこそ出会うってことの意味はあったりして、その直接的な衝突に賭をするっていうようなことが、このDCだったり、批評文の募集だったりする(とぼくは考えている)。
批評執筆を予定している方は、招待します!奮ってご参加を!
↓
批評文募集 要項
大谷さんがぼくとの会話のなかでよく使う表現を流用するなら、「ただ」見て、見たものについて「ただ」書いたものが集まったとき一体何が起こるんだろうという期待と不安を実現させたい、という気持ちが、この呼びかけの動機でありそれ以外ではない。
作品が内側に作る波紋と外側に作る波紋、そして作品が2つ並んだことでうまれる波紋の乱れ、そうした出来事の一々と総体について、観客となった各人が「あれは一体何だったのか?」と消えつつある感触を手繰って主体的に言葉を紡ぐこと、そしてその言葉たちがさらに複数の波紋を引き起こして乱れていくこと、そうした芸術の運動をめぐるありうべきだがそうは上手く転ばないことしばしばな事態を期待してのこと、なのである。
「ただ」とは、作品に向き合う者の態度を指す。第一次テクストである作品こそ尊重されるべきであり、批評文は作品に向き合った身体が作品と衝突したそのショック体験から決して離れてはいけない、ということが「ただ」の意味内実をなす。無防備な「ただ」見る行為の直中では、ぼくたちは「何が何だか分からない!」という戸惑いを何らかの第二次テクスト(他人の批評や身の回りに漂っている批評的言説)によって中和し解消することが叶わず、いつまでも戸惑っているに相違なく、その戸惑いとともに書くことこそ「ただ」書くということだろう。
批評は自己満足でもその裏返しの他者批判/称賛でもなく、自分が当の作品と出会ってしまったこと、その出会いが引き起こしてしまった両者の接合と分離あるいは痙攣状態を吟味すること、「ただ」それだけである。書くことは見たことに条件付けられていて、見たことで揺るがされたアイデンティティを回復するプロセスが書くことでもある。そこに新たな批評のフレームが生まれたり、既存のフレームが鋳造し直されたりすることだろう。その道程が不安に満ちていればそれだけ、批評は見たことのディテールの内に呪縛され、そしてそれだからこそ固有の輝きを保ち続けるだろう。自分語りの魅力も、分析する技術の誇示も、この「ただ」見た経験の細部から離れていってしまうなら、批評と呼ぶべき何かではとくにない。
ところで(唐突に話題が飛びます)、自分の書いた小説よりも評論の方に十倍影響力があると嘆息しつつ、東浩紀はその理由について「本当に語りたい対象があまりに複雑で、こちらに沈黙を強いてくるだけのときに、その緩衝材として立ち現れ、人々にネタを提供し、おしゃべりを円滑にする」(東浩紀「なんとなく、考える」『文學界』9月号)のが評論だから、と最近書いていた。「ネタ」(あるいは「超訳」といってもいいか)としてしか評論の意義はないとする東にとって興味は評論の「力」(波及効果)である。「ブログ論壇」「サブカル論壇」の「隆盛」を論じることで「論壇」なるものを再生産させようする東が考えるような、対象(作品)のネタ化を促進する類の言葉とは別の言葉は、ないのだろうか。「沈黙」(分からない)と「ネタ」(分かる→消費の対象となる)の間に言葉を立ち上がらせてみることは、出来ないのだろうか。その苦しい楽しみは、ぼくたちのものではないのだろうか。「円滑」な「おしゃべり」以外のコミュニケーションは、ぼくたちにもう出来ないのだろうか。
大谷さんとぼくとの企画ということについて、ひとは様々な憶測(先読み)をするのかもしれない。「何故この秋山・大橋という二組なのか?」あるいは「何故大谷と木村なのか」という企画意図について推測するメタ批評が投稿されることもあるかもしれない。けれども、あらかじめ断っておくと、当人たちは「ただ」企画しているのである。ミシンならぬ大橋可也&ダンサーズとこうもり傘ならぬ秋山徹次を解剖台ならぬ月島のギャラリーに並べてみたらどうなる???とギャハハ笑いながら、背筋をぞくぞくさせながら膝を付け合わせているだけなのである。何が起こるか当人たちだって分からないよ。分かるわけないじゃん。
例えば、そもそも、大谷さんのこと、ぼくはよく分からない。分かることより分からないことの方がずっと多い。ひとつの肉体に収まっているのは、むちゃくちゃ謎めいた多様体なのだから当然。大谷さんにとってのぼくも、そうしたものだろう。そんで、互いがわけ分からないからこそ出会うってことの意味はあったりして、その直接的な衝突に賭をするっていうようなことが、このDCだったり、批評文の募集だったりする(とぼくは考えている)。
批評執筆を予定している方は、招待します!奮ってご参加を!
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批評文募集 要項