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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

スキゾ・キッズ(浅田彰)

2009年08月08日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
「おたく」を理解しようとすると「新人類」を理解せねばならず、「新人類」を理解しようとすると「神々」を理解しなければならない、どうもそうなようだ。

そして、「神々」のなかでも、その連載(筑紫哲也が「朝日ジャーナル」で行った)のトップバッター「浅田彰」が誰よりも重要だろう。そして、なかでも「スキゾ」ないし「スキゾ・キッズ」とは誰だったのか、ということを知ることは、目下このノートのもっとも興味のそそられる事柄だ。

どんなに捜しても『逃走論』(1984)が自宅の本棚から出てこないので(研究室だ!)、さしあたり『構造と力』と『若者たちの神々』を紐解いていこう。まず『構造と力』より。

「ジャーナリズムが「シラケ」と「アソビ」の世代というレッテルをふり回すようになってすでに久しいが、このレッテルは現在も大勢において通用すると言えるだろう。そのことは決して憂うべき筋合いのものではない。「明るい豊かな未来」を築くためにひたすら「真理探究の道」に励んでみたり、企業社会のモラルに自己を同一化させて「奮励努力」してみたり、あるいはまた「革命の大義」とやらに目覚めて「盲目なる大衆」を領導せんとしてみたりするよりは、シラケることによってそうした既成の文脈一切から身を引き離し、一度すべてを相対化してみる方がずっといい。繰り返すが、ぼくはこうした時代の感性を信じている。」(p. 5)

と、シラケ世代と若者をくくるジャーナリズムのやり方を、あえて誤読するような仕方で、積極的に解釈してゆく。「既成の文脈」を一途に信じるよりも、そこから離れて(=それにシラケて)「一度すべてを相対化してみる方がずっといい」と浅田が思っているからだ。ここに、「パラノ」と「スキゾ」という二つの流行言葉が生成する。ただし、この「スキゾ」的な「すべてを相対化してみる」ことは、「既成の文脈」から自由になる軽さにその特徴があるのではない。むしろ過酷なまでに軽くあることこそ浅田が想定していることなのである。

「むろん、それは最終的な到達点といったものではない。腰を落ち着けたが最後、そこは新たな《内部》となってしまうだろう。常に外へ出続けるというプロセス。それこそが重要なのである。憑かれたように一方向に邁進し続ける近代の運動過程がパラノイアックな競争であるのに対し、そのようなプロセスはスキゾフレニックな逃走であると言うことができるだろう。このスキゾ・プロセスの中ではじめて、差異は運動エネルギーの源泉として利用されることをやめ、差異として肯定され享受されることになる。そして、言うまでもなく、差異を差異として肯定し享受することこそが、真の意味における遊戯にほかならないのだ。第二の教室にいる子供たちが目指すべきは、決して第一の教室ではなく、スキゾ・キッズのプレイグラウンドとしての、動く砂の王国なのである。」(p. 227)

「差異を差異として肯定し享受すること」は、「おれはあいつとは違う」と何かある商品の購入を通して他者と自分を差異化することなどとは相当異なる事態である。自己表現とか自己アイデンティティの確立とは似て非なるものであって、「ノマド」(遊牧)などというキーワードもここに要請されるように、定住を徹底的に拒む振る舞いこそが、浅田の想定していた「スキゾ・キッズ」像であった(はずだ)。

この「スキゾ・キッズ」でありつづけることの過酷さが『若者たちの神々』(以下ここから引用)で筑紫が浅田と議論しようとする中心的トピックである。考えてみれば、そもそもそのタイトルからして「若者たち」と「神々」との関係こそ、この連載で筑紫が問題にしようとしたことなのかも知れない。まず浅田は、「普通の」あるいは「いまの若い子」をこう同定する。

「浅田 普通のというか、いまの若い子--と、ぼくがいうのも変ですけど--なんかだったら、タテマエとしての「真理」に没入することのバカらしさがわかっていると同時に、本音まる出しでいくカッコ悪さにも耐えられない。じゃ、そこをどういうスタイルで突っ切っていけばいいのか、その方法を求めていたのとぼくの本とが、ある意味でフィットしたんだろうというのが”公式見解”ですね」(p. 9-10)

その上で、「タテマエとしての「真理」」にも「本音まる出し」にも「どこにも足を着けるな」と呼びかける浅田のように生きることは、若者にとって「大変シンドイ」ことなのではないかと筑紫は問うている。

「筑紫 その[軽薄短小と重厚長大の]まんなかに、相当イタズラっぽくあなたが出てきたわけね。
 浅田 一言でいって、ぼくは、どこにも足を着けるなといっているわけです。
 筑紫 しかし、それは大変シンドイね。
 浅田 そうなんです。だからね、ぼくに対するある種の批判はよくわかるんですよ。つまり、ぼくのいう「どこにも足を着けるな」というのは自己の複数の可能性を常に開いておけということだけど、あえてシステムへの没入を選び取るしかないんだという現実主義的な立場の人からは当然批判が来るし、それとは逆に、システムに背を向けて密室の中で自分自身を見つめるんだという主体主義的な立場の人からも当然批判はくる。どっちもよくわかるんです。だけど、それはある意味でものすごく怠惰だと思うんですね。どこにも足を着けないで逃げ道を用意するというのは、膨大なコストがかかるわけで、それを全然払ってないんだから。」(p. 110-11)

ぼくが、「神々」としての浅田を理解することで「新人類」を理解してみようとしているのは、過酷な「スキゾ・キッズ」を誤解した存在として「新人類」を考えてみることは出来ないかと、予想を立てているから。例えば、浅田は、自分の本を誤解する若者たちをこう表現している。

「ぼくの本を変に褒めるやつというのはもっと気持ち悪いんですよ。矮小なモラトリアム空間内に囲いこまれた「ひよわなボクちゃん」たちが、自分たちのミーイズムを正当化する理論が出てきたというので、ぼくの本を歓迎するという現象があって、それこそ冗談じゃないぜと思う。確かにぼくは、モラトリアムでいいんだ、それで突っ切れとはいってるけど、それはいずれ外に出ることを前提として内にこもっているというのとはまるで違うんで、そのためには、常に間にいるための下部構造をきちっとつくれといってるわけ。」(p. 12)

「ひよわなボクちゃん」たちの「ミーイズム」とは、なにやら宮台が整理した新人類の「商品が語りかける「これがあなたです」という〈物語〉に、「これってあたし!」と反応した世代」のあり方に重なり合う気がする。「モラトリアムでいいんだ」ではなくモラトリアムしかないんじゃないかという逃げ道なき逃走(逃走以外に生きる道のない逃走)こそ浅田=スキゾ・キッズの実存なわけだ。
故に浅田は、「ヤケクソのがんばり」こそが生きる道と言っている。これと「新人類」との落差には考えるべきところがある気がする。

「ブラックユーモアの極限で、叫んでいるのか笑っているのかわかんないようなところを出したいと思っているわけ。まあ、なかなかそうはなっていないですけれどもね。たとえば、ぼくは戦争直後の焼け跡闇市派みたいな感覚がすごく好きなのね。ああいうヤケクソのがんばり方しかないと思ってる。」(p. 13)

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