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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

I日記

2010年04月20日 | I日記
パンダが五頭たわむれるモビールがともかくお気に入りで、天井から吊した彼らをベビーベッドから見上げてIはひたすらにこにこしている。ときには声をきゃっきゃっと上げて大喜びする。そんなにパンダが好きなのか!とくま好きのぼくは嬉しく思うが、考えてみれば、Iはようやく妻とぼくの区別ができてきたくらいで(Iにとっておそらくぼくは「おっぱいのないもの」程度の存在でしかない)、モビールの図を見て「これはパンダだ」などと理解できているはずはない。実物はもちろん知らない。そうであるならば、Iはなににこんなに興味をひかれているのだろう。ものの運動に?そうかもしれない。ともかく車に乗っているあいだはご機嫌で、車窓の景色を見たり寝ていたり、泣くことはほとんどない。スピード好き?運動好き?空気の移動で揺れるパンダたちが大好きなIは、だからまだ自分の好みでそれが好きなわけではない。IというよりはIの脳がきゃっきゃっいっているわけだ。

Iというよりも脳が笑っている。

まだ人格も自己もない。あるのではと見る側が努力して見ることで、あるような気がするという程度にはある、のだけれど。

この感覚が不思議なのだ。笑顔がはっきりと出てきた二ヶ月目以降、次第に顔を見合わせて笑いを交わすようになってきた。とても幸福な気持ちになるのだけれど、同時に、この笑顔の交換はほんとうに「笑い合っている」といえる類のものなのか判然としないところがある。Iにとってぼくがどんな存在なのかよく分からないというところに、そもそもの原因がある。Iにとってぼくは誰なのか。いや、そもそも「誰」(ひと)というものをどれだけ認識しているのか、それが分からない。

Iの「笑顔」がよく分からない。「笑う」というのがもっぱら喜びの表現だとして、しかし表現というよりはただひたすらこぼれ出ているというのがIの「笑顔」だろう。笑顔はこうだと教えたわけではない。

脳が笑っている。

満3ヶ月が近づいてきている。一週間くらい前から手をつなぐ感じが出てきた。ぼくの手でIのこぶしを包むとIはこぶしをひらいてぼくの指を一本握る。最初、握る力が弱くてすぐに離してしまったのが、最近は力強くしっかりと握り続ける頻度が増えた。握りが断続的ではなく持続的になってくると、なんだかそこに「意志」のようなものを読みとりたくなる。「もっとここにいて」とか「ぼくはこの指掴んでいたいよ」とかメッセージしている気がしてくる。真意は分からない。分からないけど(分からないので)思うのは、持続的な動作に、「思い」を感じる、ということだ。

まだIの身体は充分に統合されていない。思わず腕が大きく動いて顔を強くひっかいてしまうなんてことがときどきある(思いと動作がまったくとはいわないまでもかなりの程度適合していないのだから、Iの動作のほとんどは「思わず」起こっている)。小さい傷が顔のどこかにひとつはある。泣くと全身が砲弾のように固まり(エネルギーがこもっている気がしてそんな喩えをしたくなる)、中心に向かって全身が縮まる感じになる。笑うと全身がばらばらに動いたり、伸びようとする動きからリズムが生まれたりもする。あとは寝ているか、ものをぼーっと見ているか。ものを両手で掴むなんてことはまだできない。首がまだふらふらしているので、すわることもできない。すわると「前」が生まれて、寝そべっているときよりも両手が自由になることもあって、前にあるものを掴むとかそんなことがはじまるのだろう。身体の位置がすべて他人によって決められてしまういまの状態では、上下や左右や前後ろは、きっとIのなかでとても曖昧な状態なのだろう。
(2010/4/14)

顔が少しずつ少しずつはっきりしてくる。「はっきりしてくる」とは、ディスプレイに使う色の数が多くなってゆくさまに似ていて、顔に表情が出てくるということだ。生まれた瞬間はモノトーンのようだったのが、かなりの色を感じるようになってきた。同じことが泣き声にもいえる。泣き声にうっとりすることがある。レインボー・カラーのように感じられる哀しい訴えに、手をさしのべつつ聞き入ってしまう。うーん、このカラフルさは、とくに泣き声の豊かな表情は、成長するにつれて訴えがより意図的になりまた社会的なコードへと変換されてしまうと失われてしまうものなのかもしれない、などと思ってしまう。どこへと向けたらいいかわからぬまま、不安で、不快で、体が泣く。その響きは結構美しい。

いまIはリクライニング・チェアーに腰をかけている。そういえば、同じ年頃の妻がここに坐った写真を見せてもらったことがある。仰向けに寝そべった姿勢から徐々に状態を持ち上げて、そうして直立にまで至る、すると人間のできあがり、ということになるのだろうか。なんて思って見ていたら、突然泣き出した。あやしてみると、にこにこに。しばらく手をつないでみる。手をつなぐことはいま笑顔を交わすことと同じくらい深いコミュニケーションのひとつになっている。握ると安心するようだ。顔が海になぞらえたら「凪」の状態になる。安定したと思って、手を離してパソコンに向かう。と、また訴えだした。訴えは、胸のあたりからうねりとなって哀しみが溢れてくるといった風にあらわれる。「うっ、うっ」とこらえつつこらえきれない気持ちが体の起伏と泣き声になって表出される。「わー」っと泣き出した。さざ波が大津波へ。もうこの欲求は、ぼくを通り越して妻へと向かっている。お母さんの柔らかい優しさが欲しいみたいだ。といっても、お父さん/お母さんの明確な区別はおそらくまだない。2人の輪郭は成就したい欲望のかたちとしてIのなかにセットされているのであって、いまのところそれ以上でもそれ以外でもきっとない。
(2010/4/19)

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