奈良大好き☆お勉強日記

奈良大学文学部文化財歴史学科(通信教育部)卒&奈良まほろばソムリエ検定のソムリエを取得したヒトの色々な勉強の日記です♪

浦和で奈良

2010年07月18日 | 色々・モシクハお勉強
そういえば、二週間前は奈良歴史地理の会の関東支部の講演会があったのでした。
お題は「仏都 平城京」

藤原京や平城京といえば、仏教が栄えた都という認識があるけど、
「古都」や「南都」という言葉はあれど
「仏都」という言葉は世の中に認識されてないのだそうな。
(広辞苑や日本国語大辞典にもないらしい)

講演してくれた吉川先生@京大教授は
仏都という言葉を『仏教の中心地という意味で使ってる』とのこと。
吉川センセは生駒在住だとのことで。
『職場は京大。京都の東の方で、偉いさんの墓地がたくさんあるところ。
住居は生駒。奈良の西の方で、奈良の貴人の墓地がたくさんあるところ。
ということで、奈良の墓地から、京都の墓地へ通勤していることになります』
と摑みはオッケー。
さすがは奈良県人ですね。

平城京は仏教が栄えていたというのが共通認識としてあるけど、
実は天武朝・持統朝の藤原京時代にもすでに仏教の都であったというのは
日本書紀その他を見ればすでに記してある。

持統天皇4年の七月には、官寺七寺に3363人の沙門がいて、その人たちに施しをした。
それとは別に、皇太子のための三寺の沙門329人にも施しをした。
とある。

これによれば四~五千の沙門(僧)に対して、その当時の人口は約25000人ほど。
いかに物凄い数の僧がいたんだってことに。
MAX5千人の沙門だとしたら、人口の1/5は僧だってことじゃない。
まじ?

あとびっくりしたのは、
復元された大極殿には高御座が置かれているけど、あの場は正月の間、
仏殿として使用されていたんだそうな。
正月の間、全国の国分寺では金光明最勝王経が唱えられていた。
その間、大極殿はそれらをたばねる存在として「仏殿」として使われていた。
思わず「え?」でした。

高御座は天皇というその地位の象徴だけど、正月にはその場を仏様に明け渡すんだって。
その明け渡すお相手は盧舎那仏さま。
普段は天皇のいる場所としての高御座だけど、その時ばかりは盧舎那仏さんがおわしまする場に。
ということで、この時ばかりは天皇といえども、大極殿の主は仏様ということに。

とはいうものの、三法の奴である聖武天皇ですから、天皇よりも仏様がエライに決まってます。
それが現われているのが、大極殿と東大寺大仏殿のデカさ比べ。
今の大仏殿じゃなくて、初代の大仏殿ではなんと、平城京の大仏殿よりも大きかったんだそうな。
それはやはり、仏の力によって世の中を治めようとした聖武天皇の考えから、
大極殿(天皇) < 大仏殿(仏)
を、その殿の大きさで表したんではないかと。
ほほー。

各寺は天皇のための仏教行事を行い、宮中では国家を治めるための祈りを行う。
天皇といえば神道みたいに思っているけど、その実、
宮中でも仏式でのお祈りは行われていた。
しかも、平城京の、平城宮の、大極殿で、仏式のお祈り。
こりゃ確かに「仏教の都」だわね>奈良。

前回の講演会は明日香ウォーキングでいけなかったけど、
こういう機会は狙って行かねば。

次回は9月24日(金)、白石太一郎先生で「邪馬台国からヤマト王権へ」だそうです。
講演会へは行こう!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする