先日小さい頃からお世話になってたおばちゃんが亡くなりました
この方は私、または私たち一家に取っては特別な存在でした・・・なぜ特別かと言うと・・・
物心付いた頃から一緒に家に居て、私たちとは血縁関係のない方だったが、身の回りの世話から何からしてくれていた
事情があり一時期母親と離れて暮らしてた時はこのおばちゃんに私は預けられていた
小学生の高学年に差し掛かった時にやっと母親と兄と暮らせるようになったけど、身寄りのないおばちゃんも一緒に暮らしてた
はたから見れば奇妙な関係かも知れないがそれは私に取ってごく自然だった
父親の居ない私は母親が働いて家計を支え、早くから独立をしていた年の離れた姉が仕送りで援助してくれていたが、掃除に洗濯に買い物からご飯の支度に到るまで家の中の全ての事はこのおばちゃんが支えてくれていた
時がそのまま流れ、兄も結婚し家を出て私と母親とおばちゃんの3人暮らしになり、私も社会人になってから母親もおばちゃんも体調を崩しがちで私が生活の一部を支えるようになってきた
特に母親が体調が悪くなり、認知症を患わせた時に仕事でなかなか思うように出来ない私たち兄弟に変わり母親の介護も献身的にして頂いた
母親は最終的には家に置いとけないくらい認知症が進み、おばちゃんも体調崩して入院したりもし、また脚を悪くし満足に歩けなくなった
様々な方々のサポートを得て母親は介護施設に入所出来、少しおばちゃんの負担も軽減出来たかなと思ってたが、入所して一年ほどして平成14年の年末に母親は亡くなりました
以後、とうとう2人だけになった私とおばちゃんの同居生活が始まり、母親が亡くなって張り合いが無くなったんかして、今度はおばちゃんが幻覚や幻聴といった認知症らしき症状も見えてきた・・・
それから現在に到るまでの10年 満足に動けなくなっていくおばちゃんに周2回のディサービスや訪問看護、またヘルパーさんにも来て貰ったりして出来るだけ苦労かけないようにしてあげようとした
それでも相変わらず洗濯や掃除はしてくれていた・・・
平成24年3月13日 午前7時54分 そのおばちゃんが永眠しました
亡くなった原因などはこの際省きますが、前日お見舞いに夜に寄った時は会話もしたし、しんどそうではあったがまさか亡くなるとは・・・朝に病院から連絡を貰い駆け付けた時は呼吸も停止していてお別れすら出来なかった
そして “大好きなおばちゃんが逝った夜“になるのですが・・・
ご遺体を見つめながら通夜の夜に様々な思いが去来するのであります
仮通夜と通夜と寝ずの夜伽を二晩過ごしたのだが、特に通夜の後の夜は一人おばちゃんと向き合い朝まで過ごしたが長年一緒に住んでいて明日の今頃はこの姿がないと思うと、今過ぎているこの時間の“貴重さ“と生きていた時の時間の“大切さ“がヒシヒシと胸に迫ってきます
生前の頃を思いだしながら静寂の中に柩を見つめてると、過ぎた日々の懐かしさと後悔の念が胸によぎる
40数年生きてきて今までこんな事を考えたり感じたりした事はありませんでした
冷たい冬でもいつも洗濯をし、足痛いといいながら掃除もしてくれた。
また寒い時期は服やズボンをこたつに入れて温めてくれていた・・・
私に腹を立てて口もろくに聞いてくれない時もあったが、そんな時でもこたつに服が入っていた...いい歳をした私は自分で全てすれば良いのだが、このおばちゃんに年甲斐も無く甘えていたのだろう
亡くなってから気づいたが、これだけ一緒に居て2人で撮った写真が無かった...
かろうじて私が1~2歳くらいのときに一緒に撮った写真が1枚あっただけでした
晩年は入院や退院を繰り返したが、私が出張で長期に家を空ける時は入院させて貰う時が多かった
病院から帰る時いつも窓から手を振って見送ってくれるのだが、私が車中から振り返すと更に振ってくれた
視力はそんなに良くないのに見えてるのが不思議に思ったが、でもあの時間は結構好きやった...
車イスを借りてきれいになった天王寺動物園にいつか行こかと言ってたんだけど、その約束も果たせなかった
亡くなる前日、今までそんな事した事なかったんだが、しんどそうなおばちゃんの手を何気なく握った
そしたら力強く握り返してくれた...これが最後の思い出となってしまいました
出来る事なら一ヶ月か二ヶ月ほど前に時間が巻き戻ってほしい...そして色々なとこに連れて行って上げたい
せめて亡くなる前日でも良いからもう一度おばちゃんに会いたい...そしてもう一度手をしっかり握ってキッチリとお礼を言いたい...
身寄りもないおばちゃんが結果的にきっちりした形で様々な人にお見送りされて旅立てるのは、やはり私の母親と若くして出会いそれから長い年月を得て、いろいろなご縁により色んな出会いがあったからではないか?
亡くなった日の夕方にデイサービスでお世話になった養護老人施設のスタッフのお兄さんやお姉さんたちが沢山勤務の途中に顔を見に来てくれたり、訪問看護で担当して頂いた看護士の皆さんやヘルパーさん、そして主治医の先生と長年担当して貰ったケアマネージャーさん・・・多数の人たちがおばちゃんの死を惜しんで泣いてくれました
何よりも私はおばちゃんの為に介護関連の方々が殆どとはいえ、これだけの方々が会いに来て下さった事がとても嬉しかった
また小さい頃からおばちゃんを知ってる私の友人たちも忙しい最中駆け付けてくれて、取り分け三日連続遠方から通って来てくれた友人にはおばちゃんもきっと感謝してるであろう
私たち一家と知り合ったのがこの人に取ってよかったのか?または別のもっと良い人生があったのか?それは判らないけど少なくとも私たちとの出会いから始まり、今のこの場面があるのなら決して悪い事は無かったんではないでしょうか?
この三日間でご縁による様々な人との出会いがその人の人生にいかに影響を与え、そして人の情の重たさがヒシヒシと感じた事は無かったですね~
おばちゃんが私にまたは私たちにしてくれた全ての事、温情の大きさはとても返せるものではない
今振り返っても、して挙げたかったけど出来なかった後悔が強いです
よく言われるのは親を亡くして親の恩を知ると言うが、親を亡くした後に何の後悔も残らないなんて有り得ないのではないか?
必ず何らかの後悔が残るような気がします
それほど親が子供に対する愛情ははかり知れなく大きく、子供ごどきに簡単に返せるものではないのかも知れない
周りの方々は皆さん「あんた良く面倒見て上げたね きっと喜んではるよ」と言ってくれますが、私たち家族と出会いこの人の人生が良い方向になったと言うより、今の私の気持ちは逆におばちゃんとの出会いが複雑な家庭だった私たちが救われたんではないかと言う思いでいっぱいです
まさに私たちに取って恩人と言えます
生きてる間に何にも恩返しできなかったけど私の恩返しは私が死ぬまで続きます
何かあるごとにおばちゃんの事を思い、時折おばちゃんとの思い出を振り返ってみる
そして生前受けた感謝に対して手を合わす・・・
引きずるのでなく忘れないと言う事がおばちゃんへの何よりの恩返しでもあり、そして何より生前おばちゃんが望んでいた自分になる事ではないでしょうか?
子供も頃から私に「ちゃんとしいや~」というのが口癖だったおばちゃん...がんばってちゃんとするわな...
ただ残念なのは法律の決まりで、戸籍上身寄りの無かったおばちゃんの遺骨は家に連れて帰れずに無縁仏として葬られ、火葬場でお別れした後の骨上げに立ち会うことさえ許されなかった
それに関してはとても最後の最後に不義理をかいたようで申し訳ない気持ちですが、でも帰ってくるときは家に帰ってきてくれるはずです
これほど大事に思ってる人たちが実際沢山居るんですからね
ここ10年ほど仕事の後おばちゃんの為にご飯買って帰ったり、または病院に顔だしたりの日々だったんで、どちらも無くなった今は正直夕方になるとおばちゃんが居ない事を実感する毎日ですが、近いうちにおばちゃんが安心して貰えるよう元気になります
そして心から感謝を込めて毎日心の中でこう言います「ありがとう!おばちゃん」
亡き天国のおばちゃんに感謝と共に捧ぐ... 合掌
今回は私的な出来事で色々思うところあったんで、亡きおばちゃんに捧げる記事を書きました。
本来は3.11「大日本プロレス 鶴見緑地大会」のレポートの順番だったんんですが、このような訃報があってとてもそんな気分ではなかったんですが、そろそろ気持ちも切り換えて次回は阿鼻叫喚の蛍光灯デスマッチと爆笑必至?の大乱劇戦鶴見緑地式エニウェアーマッチを書きます
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます