こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

そうは続かないもので・・・

2012年09月15日 | 鎌倉暮らし
目が回ってしまったほど、あれこれやっていたのだが、今朝起きたら体が動かなかった。仕事というか、そういったものはぶっ続けではできないものだ。
一応、オンコールで待機している状態なので、完全にフリーというわけではないのだが、家でじっとしていることにした。こうなることはあらかじめ(うすうす)わかっていたので、来週の学会の準備と10月初めの講演の準備資料は家に持ち帰っておいた。

これはこれでいいもので、裏庭のジンジャーの香りにつつまれ、モーツアルトのピアノ協奏曲を聞きながらの仕事、意外と捗るものだ。

昼前後には、とてもまぶしい天気雨。
日照り続きだっただけに、天然の水やりはありがたい。

雨上がりの虹を拝むことは残念ながらできなかったけれど、雲間の青空はいつも以上にきれいで印象的だった。

zzz…


久しぶりに昼寝もして、気がついたら。もう5時。暑さとは裏腹に夕暮れは早い。

今日は一日家にいることを決め込んでいたのだが、夏バテで家にこもっていた高三の受験生の息子から、「焼き肉食べたい」のリクエスト。
かれこれ、三月は食べていないなどということで、急きょ駅前の焼き肉屋、鎌倉で一番おいしい『天柳(てんりゅう)』へ。
ちょうど、鎌倉は鶴岡八幡宮の秋の例大祭。

お囃子の音が夜まで町に響いていた。
明日は流鏑馬だ。

今日は、来月の講演の抄録ができたし、学会資料の論文を読むことができた。
なにごとも、良しとする気持ちが大切大切。

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あのとき、死んでいたら・・・自殺しようとしているあなたへ

2012年09月14日 | 生き方について考える

自殺は人生の目的にはならない

 

 

 

9月10日は世界自殺予防デーで、これにあわせて毎年、9月10日からの一週間を自殺予防週間として設定しているそうだ。日本ではここ十年以上、毎年3万人以上の人が自殺していている。日本人の約3千人に1人が1日で80人前後、十年で30万人以上が自殺している勘定になるだろうか。

 

 

自殺について、私自身これまでに何度となく考えてきた。このブログ(こんきも)でもなんどか記事(生きろという方が酷かもしれないがほか)にしてきた。原因の一つは日本の社会システム(爆発させてしまう社会)があると思うが、自殺しようと考えている人にとって、そんなことはもうどうでもいいことかもしれない。

 

 

 

 

30代の一時期、人間関係に悩み、疲れ、自殺を考えたことがあった。

私は、何かあるとすぐクヨクヨする性格で、自己肯定感がほとんど無く、口ほどに無く弱虫だ。ホトホト、人生が面倒になった。

その頃は、どこで、どんな方法で自殺するのがいいのか。痛みが少ない方法、まわりに迷惑をかけないで゛ラクに゛自殺できる方法はないか、毎日そんなことばかり考えていた。それでも、どれも実行するにはいたらなかった。

 

結果、私は今日も生きている。

 

それでも、死に近づいたことが一度だけあった。

駅のホームでのことだった。近づいてくる電車の下を見やったときに目が釘付けになった。

「あ、あそこに入れば楽になれるかもしれない」、一瞬そう思った。今でもその時の感情はたしかに覚えている。

でも、その時はそんな考えが脳裡をよぎっただけで、電車はあっという間に私の目の前を通り過ぎていった。

そのあと、私はしばらくの間、ホームのベンチにへたり込んでいた。

 

あのとき、自殺していたら。

 

あのとき、自殺していたら、どうなっていただろう。

その瞬間から、これまで続いている私の人生というものは無かった。

 

 

 

私は、あれから10年以上生きている。

その時の問題がその後、直ちに解決したわけではない。

遊び暮らせるほど楽に生きているわけではない。

嫌なことはいくらでもあるし、昔を思い出すこともある。

けれども、それほど苦しい人生ではなかった。

 

あのとき、自殺しないでよかったと思う。

 

なぜ、あのとき自殺しなかったのか、多分、少し躊躇したのだと思う。

向こう側に飛んでいくことに、目的を感じなかったのかもしれない。

 

何のために自殺するのか。

 

そのとき悩んでいたこと(その時の私の場合、人間関係)が自殺に値するものなのか。そう思ったのだろう。

 

自殺を考えながら、この記事をたまたま目にして、最後まで読んでくださった方がいたら、自殺の場に赴く前に今一度考えて欲しい。

 

 

自殺することそのものは人生の目的にはなり得ない。

人生はそこで終わってしまう。

あなたが次に踏み出す一歩は、終わりへと向かうものではないはずだ。

 

そのことを自殺する前に考えて欲しい。

 

生きているほうが、今死ぬよりは多少は良い。

私はそう思って生きている。

あなたにもそう思って欲しい。

 

 

 

 

 

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寄せ植え鉢と私たちの世界

2012年09月13日 | 日々思うこと、考えること
先週末、妻と一緒に寄せ植え鉢を作った。



オミナエシ、ワレモコウ、コスモス、リンドウ、ナデシコ。
少し大きめの鉢に3、4株ずつ植えた。
恥ずかしながら、オミナエシという植物があることは知っていたが、このような少し背の高い黄色の花をつけるものとは、初めて知った。
他の花々も、色んな種類があって、花屋をうろうろしているだけでも楽しかった。

それから毎朝毎晩、楽しませてもらっている。

だが、外の世界では相変わらず不幸な出来事が起きている。



狭いながらも我が家の庭には多少地面がある。これらの鉢は雨水、水道などの蓋を隠すために置いているものだ。
ところで、その庭を宇宙に見立ててみると、点在する寄せ植え鉢はそこに浮く小さな星で、花々はそこに生きるすべての生物である。
そして、その鉢の一つはこの地球。

太陽の恵みを受けて私たちはこの狭い地球上に生きているが、その地球上には諍いが絶えない。
背の高いもの、低いもの。
赤い花、黄色い花、白い花。
つぼみであったり、花であったり、しぼんでしまっていたり。

私と妻で、勝手に選んだ組み合わせであるが、花たちはこの鉢の中で生きていかなければならない。



土の中ではやがて根が伸び互いに絡み合い、水の取り合いもおきてくるのだろうか。
それは、当事者同士必死であろうが、端から見れば、それはあまり意味が無いように映る。

共存共栄という言葉がある。
我が家の寄せ植え鉢の花達も、この世界も、そうあって欲しい。


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時間とは誰のもの?

2012年09月12日 | 日々思うこと、考えること

あまりの忙しさに、昨日はキレそうになってしまった。

キレるといっても誰かに当たるということではない。

自分自身で、「ああ、もう自分の限界!」と、一人わびしく呻いてしまった。

まあ、それにしても無事家に帰り、夜中の大雨で目を覚まし、また寝て、結局のところ気持ちのいい朝を迎えることができた(あれ?昨日日本代表がイラクに1-0で勝ったから?)。

 

 

それにしても、時間がない。

 

ないといっても、誰の時間がないのだろう?

 

そもそも時間とは一体誰のものなのだろう?

 

「私の時間をとらないで!」などという言い草があるが、昨日などは朝から晩までずっとそんなだった。

物静かな病理医コロ健としては、標本をゆっくり落ち着いた気持ちで眺め、判らない所見があれば、教科書、論文を紐解いて調べ、また顕微鏡を覗いて、病気の成り立ちを考えながら、診断書を書いていきたい。

決して、キーボードに手をかけ、顕微鏡を覗きながら、教科書を膝の上に抱えて、診断書を打つ、などと言う、いったい何をやっているかのようなことはしたくない。さらに、追い打ちをかけるかのように、アポなしでやってくる臨床医、院内PHSで時間を寸断する臨床医などの相手をしていると、あたかも、私の時間が食いつぶされているような気になる。

 

 

だが、そうした時間は、本当に私の時間なのか。

 

私の時間も、私に用があってやってくる人の時間も、共通ではないのか。

 

すなわち、「私の時間」などというものは本質的には存在していない。

 

私たちが認識しているこの世界というものが、この世界に存在している物質の総和として存在しているのであれば、私も、私に用がある人も、等価の存在であり、そこに存在する時間というものも、すべての人のものである。

 

しかしながら、物質というものの観点からいけば、世界征服は可能であるが、時間を支配することはできない。

 

ドラえもんを生んだ未来に生きる人々は時間を行き来するまでは可能にしたが、生きている限り、結局のところある一点の時間にとどまることはできない。

未来であろうが、過去であろうが、そこに存在してひとたび活動すれば、老化、劣化は進行する。

 

時間というものが、所有するとかそういった類いのものではないなどということ、これまで考えたことが無かった。あらためて、なんだかびっくりしてしまう。

 

時間というものは誰のものでもない。

 

 

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あっという間に時間は過ぎて

2012年09月11日 | 日々思うこと、考えること
朝、歩いている時の太陽の光の強さがやや弱まってきたかと思えるようになってきたが、やっぱり相変わらず、暑い。
7月にも8月にもこんなことを書いていたのではないかと、見直してみたら、イケてない男(7月11日)の話と、コロ健の夏休み(8月11日)の話だった。
それぞれ、そういえばあんな事(記事)あったな、と思うが、あれから、もう2ヶ月も経っているのかと思うと驚く。

その間に、世間ではロンドンオリンピックがあり、消費税が上がることになり、領土問題が起こったりして、そのうちには民主、自民の代表選、総裁選。

時間というのはあっという間に過ぎていく。

この、恐ろしい速さで過ぎ去っていく時間というのはいったい何をさしているのだろう。

高速で移動している人には時間がゆっくり進む、などというけれど、物理が大苦手の私には、これが理解できない。
”どこでもドア”でどこへ行ったって、やっぱり時間はすべての人に平等に進んでいるとしか理解できない。
私だって、頭だけは高速で回転させている(ちがうか)。

では、私にとっての時間とはなんなのか。

生活を楽しむ為に費やすもの(こんきもの日々の更新はこれに含まれる)。
人間関係に費やすもの。
仕事に費やすもの。
自分の目に入らない何かのために費やすもの。

なんのためでもいい、私たちはとにかく、自分の時間をそれぞれ勝手に費やしながら生きている。

だが、私たちそれぞれが、単なる遺伝子のキャリアだとすると、時間を費やす何らかの行為の一つ一つに、どのような価値があり、意味があるのか。


生きている意義を考える間もないまま、時間は過ぎ去っていく。



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一歩も動けず

2012年09月10日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
先週の症例が今週になってドッと来た。喫水線どころか、ほぼ沈没だ。

おかげで今日は、接着剤でお尻と椅子がくっついたようになって一日中顕微鏡の前から動けなかった。
尻がしびれてしょうがない。
本当は、切り出し、昼食、カンファレンスで移動したので、一歩も動けず、というのには語弊があるのだが、標本の山を前にそんな心持ちになってしまった。

頭がしびれて働かなくなったので、あきらめて切り上げた。
また、明日もこれが続く。

病理医は、そうやって仕事を先延ばしできるからいい、などという臨床医がいるが、仕事の質が違うので、こういう話は最初から噛み合ない。ところで、昨日の話は、職場でも話題になった。なんだか、みんなやりきれない思いを持ったのは、同じだったようだ。



今日も、日勤帯の間に通常業務が終わらなかった。来週の学会の準備に手を付けることができなかった。発表日は刻一刻と迫ってくる。次から次だ。来週の学会は国内開催だが、国際学会。発表形式はポスター。10月初旬の講演の抄録もできていない。いずれにせよ、今度の三連休が勝負だろう。

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日本の臨床医の程度と病理医の地位と病理解剖の意義

2012年09月09日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
 最愛の家族を失ったとき、遺族は悲しみの中で思うことがある。

 「故人と少しでも長く一緒にいたかった。」
 「死ぬ前に少しでも何かしてあげられることはなかったか。」

 そして、

 「なぜ、この人は死んでしまったのか。」

 それは、多くの臨床医にとっても同じ思いだったはずだ。

 「なぜ、この人を救うことができなかったのか。」

 人には寿命がある。それに抗うことはできない、そして多くの人は”少しずつ”死んでいる。人は死へ向かって生きている。
 でも、それだけで死を素通りさせてはいけない。病理解剖を行い、死因を究明する必要がある。そして、そうすることで、臨床医は”長く生きることのできる命を延ばす”勉強、すなわち医学を実地で学ぶ。

そんなことが、まったく無視されることが起きた。
というか、病理解剖という行為自体を冒涜することが報道された。

 今日の朝日新聞の朝刊にこんな報道があった。

 なんでも、作家で、医師でもあった北杜夫氏が昨年10月に国立病院機構東京医療センターで、入院の翌日に急変して亡くなったとき、病理解剖を説明する際にご遺族に恐怖を与えてしまうかもしれないと、結局解剖を行うことなく終わってしまったとのこと。

 氏の娘さんは、なぜ父親が入院翌日にあっけなく死んでしまったのか、知りたいと思い、病理解剖を希望したそうだが、氏の妻が怖くて断ったとのことだった。その理由が、臨床医による病理解剖の説明にあったらしい。

記事にはこうあった。

”長女斎藤由香さん(50)によると、死亡を確認した男性当直医は「死因は腸閉塞による敗血症性ショック」と説明。病理解剖に応じるかどうかの意思を確認する際、「解剖すると(すぐには)自宅に帰れなくなる。(体を)ガッと開けるので見栄えのこともある」などと言ったという。由香さん夫妻は希望したが、妻の喜美子さん(75)は説明に恐怖を覚え、断念した。

…(中略)…病院は今年1月に症例検討会を開き、「診断や治療は適切だった」とした上で「窒息死の可能性も否定できない」と結論づけた。一方、当直医は「恐怖感を与えたのは申し訳ない」と話したという。

 松本純夫院長は取材に、「病理解剖をしていれば真実に近づけた。ご遺族が解剖を断る結果になったのは不適切だった。」と答えた。
由香さんは「入院時に『嘔吐する心配があるので注意してください』と伝えていたのに、痛恨の極み。解剖をしないように誘導されたと感じている」と話している。”

 病理解剖の意義については、これまでも何度かこのブログの記事に書いているのでここでは割愛する。

 病理医でもある作家の海堂尊氏の、憂慮する”死因不明社会”の話はつとに有名である。

でも今日の、コロ健の落ち込みはそんなことではない。

 病理解剖は時間がかかるもの。
 解剖をするとガッと体を開けるので見栄えが悪くなる。

というのを、死亡診断書を作成するような医者が口にするということは、臨床医自身がそう考えているということだ。

 東京医療センターといえば、医学部を卒業してすぐの初期研修の希望者が多いことでも有名な、日本でもトップクラスの名門病院だ。
 病理解剖への取り組みも熱心で、解剖数も多い病院だったはずだ。

それが、その病院の医師が、かくのごときことを言う。

 病理解剖は時間がかかるもの・・・当たり前である。
 ガッと体を開ける・・・そんな音などするわけない。私たち病理医は、解剖の前にご遺体に手を合わせ、われわれ医学徒がご遺体から学ばせていただくことに対して感謝の念をもって始める。
 見栄えが悪くなる・・・人の体にメスを入れれば傷はつく。外科手術でもそれは同じだ。病理解剖のあと、切開部は丁寧に縫合し、ご遺体には服を着せておかえしするので、基本的には切開部をご遺族が見ることはまずない。そもそも、お顔を切ることは特殊な症例を除けばあり得ないし、私は服を着せた上から傷が見える病理解剖などしたことがない。ご希望があれば、切開したところに絆創膏を貼って隠すこともする。

 東京医療センターのような、病理解剖に熱心に取り組んでいる病院の医師がこれでは、そうでもないような病院の臨床医の程度がどんなものかなど推して知るべしである。

 さらには、日本の多くの臨床医がこのような感覚であるから、病理解剖の意義はますます薄れ、臨床医のレベルは下がるし、病理医は「ご遺体をガッと切り開く医者」としか扱われず、病理医を志す者もますます減ってしまう。
そして、検証なき医療行為が当たり前となり、日本の医療レベルはますます下がっていく。

 実を言えば、私の周りでも同じようなことが以前あった。そのとき、私は解剖を面倒臭がって逃げていた臨床医に何も言えなかった。”解剖の施設がない”、”解剖するなら大学まで行かなくてはいけない”云々。そんな逃げ口上など無視して、私が近隣の施設を探して、自分でさっさとやってしまえばよかった。でもその手立てもなかった。そして、今、とても後悔している。
北氏の娘さんも、さぞ無念であろう。


 いったい、日本の病理医はなぜ、これほど軽んじられなくてはいけないのだろう。

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あっちこっちを訪ねてみれば

2012年09月08日 | 日々思うこと、考えること

会社員で出張の多い人などは、毎週でも行くのだろうが、私にもそれなりに出張がある。最近、ちょっとだけ、人様に呼んでいただくこともあるが、主には学会出張だ。週日に発表があると、病院からお休みをいただくことになるので、学会開催地を前泊してゆっくりめぐるなどという時間を取ることは難しい。
それでも、せっかく遠路訪れた会場の地、少し早めに乗り込んで、多少なりとも町の空気を吸ってみる。

学会が始まる前なら、駅から学会会場までの間、学会が終わったら会場から駅まで帰りながら町を見てみる。どうしても見ておきたい観光名所をちょっとだけ訪れる。

福岡とか大阪みたいな大都市になってくると、観光名所も新幹線の駅から離れていている。
今日の大阪なども、穴場を知らないだけなのだろうが、少し郊外に出ないと是非訪れてみたいと思えるようなところはない。

それでも、昨日のように、見知らぬ駅で降りて、その町を歩いてみると、なんとなく、町の背景とか文化、住む人の気質をうかがい知ることができておもしろい。偶然だが、昨日降りた駅というのはアーケードで有名な町だったそうで、実は危うく迷子になりかけていた。
町に対する感想などというもの、所詮は私の主観的なものだけど、それはそれで仕方ない。思い出というのは、そういうものだ。

いずれにしても、あちこちいろんな町を訪ねてみるのは楽しい。昨日など、どちら行きの電車に乗ればいいのかわからず、ホームを数人で歩いていた女子高生に尋ねたら、ずいぶん丁寧に教えてくれた。
「ありがとう」と、お礼を言ったら、「サイナラ」と、送ってくれた。
たまにはこういう気持ちのいいこともある。
これからも、いい仕事をして、あちこちいろんな町に行けるようにしたい。
学会も終わってみれば、気楽なものである。

それにしても今回の学会はきつかった。
演題数がおおくて休み時間はほとんど無し(こんなだったら、無理してエントリーしなけりゃよかった)。今日なんて、8時30分に会場に入って、新幹線に間に合うギリギリの18時30分まで。学会の事務をやっているので、昼休みも無し。
散歩は朝のホテルから会場までだけだった。新しくなった大阪駅、みたかったのに、乗り換えの時にチラッと見ただけで終わってしまいとても残念だった。



ガラガラを引っ張って

2012年09月07日 | 日々思うこと、考えること
学会出張ではいつも、このガラガラを引っ張っていく。
せいぜい二泊で、荷物のかさは大したものではないのだが、パソコン(およびそのコード)、原稿、携帯(および充電器)などなど重いものの数が思いの外多く、手提げの旅行バッグはあきらめて、これに全部詰め込んでいる。

大変重宝しているのだが、一つだけ困ったことがある。
それはこのガラガラいう音。

鎌倉の裏通りあたりは道路がガタガタで結構な音がする。
若宮大路まで出てくると、路面がなだらかで音はあまり気にならない。

なんとかかんとか、鎌倉駅までガラガラ言わせてたどり着き、新横浜から一路大阪へ。

新幹線に乗れば、いろいろ入れていたものが出てくる。
ただ、窓際の席を取ったのにコンセントのない車両だったのは誤算・・・
まあ、そうはいっても無事終点、新大阪に着いた。
ここには九州新幹線が来ていて、なるほど、ここは西日本の起点なんだと改めて納得。


新大阪から環状線に乗って、会場の近くへ。商店街をガラガラ言わせてうろうろしていたら、注目を浴びてしまった。


これ以上あまり、歩きすぎてもどうかと思い、ホテルに預けて会場へ。
身軽になったところで、改めてうろうろしていたら、美味しそうなラーメン屋があった。
期待していた以上に美味。

そんなこんなではあったけど、無事、一日目の発表は終わりました。
次は明日。
気合入れて、頑張っていきます。(って、あとは寝るだけですが…。)

(ちょっと、懇親会で飲み過ぎました。最初、ガラガラのことを書こうと思ったときは、いい記事だと思ったのですが・・・)
でも、このカバン、いつも一緒にいてくれる、頼もしいやつです。

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もう、次が来た!

2012年09月06日 | 日々思うこと、考えること
うーん、この間山形に行ったと思ったら、明日はもう次の研究会だ。マイナーな分野なので、その分野の病理医が折角集まるので、研究会が2つある。
あろうことか、その2つの研究会にそれぞれエントリーしてしまっている。


今回の研究会、山形での講義&チューターのため、先週末の土日を準備に使うことができないまま、今週に突入している。今週は目の回るような忙しさで、カンファレンス、知人のお見舞いときて、昨晩は23時に例の科の迅速が出てくる、という状況である。もちろん、ベースラインとしての通常検体はある。

これではまるで、台風である。
そんな言い方をすると、先般の台風(14、15号)で被害を受けた地方の方に申し訳ないが、私にとっては台風並みのつらさである。
来るぞ、来るぞとわかっていたのだが、結局、無防備なまま学会を迎えてしまうことになった。


そなえよつねに


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AKB48が社会現象とはどういう意味か

2012年09月05日 | 日々思うこと、考えること
先日前田敦子さんが抜けてしまったのでAKB48の現役メンバーで、顔と名前が一致する人は残念ながらいない。ファン投票で、大島優子さんという人が、真ん中に立つことになったらしいが、以前彼女たちが歌っているのをテレビで見たとき、動きが早過ぎてどこが真ん中で、誰が誰だか判らなかった。

CDをたくさん買うとメンバーとたくさん握手ができるとか、旅行カバンのCMに出ている子が、ひょんなことからメンバーになったとかいう、オタクに根ざしたマーケティングをしていることなどは、知っている(彼女が篠田真理子さんという人だということも、ググって知った)。
彼女達が、東日本大震災の被災地にたびたび慰問に訪れているということだって知っている。

だが、これらのこと、本当のところは、゛知っている゛のではなくて、゛知らされている゛のに過ぎない。紅白歌合戦ならともかく、朝のNHKニュースおはよう日本でファン投票である゛総選挙゛の結果を流されては知らないではいられない。NHKもずいぶんAKB好きだと思うが、民放のフィーバーぶりもあって、彼女達のことは毎日必ず耳目に入ってくる。
AKB48に”ハマった”という四人のおっさんが、゛AKB48白熱論争゛なる新書を出したというのを、仕事先のホテルでたまたま手にした読売新聞の書評欄に書かれているのを読むと、なるほどマスコミが゛ハマって゛いるのもよくわかる。

でも、いくらマスコミが騒いだところで、私は彼女らにさほどの関心を持つことはできないし、それがもう゛社会現象だ゛などとは到底思えない。

では、なにが社会現象かといわれると難しい。所詮、マスコミがつくったものであるので、非マスコミ的なもの、こそが真の社会現象であるということもできようか。
そう言う意味では、ある時期、ネットによるブームというものが、社会現象として存在し得たことがあったように思えるが、それはごく一瞬の出来事で、いつの間にかネットもマスコミに取り込まれてきてしまっている。というか、マスコミがネットからネタを吸収し、放出している。

マスコミの悪いところは、ネットで広がっていることのつまみ食いしかしていないというところで、所詮は御用放送、御用新聞に過ぎないところである。

なんだか、話がややこしくなってきたが、とにかくAKB48は、社会現象というにはおこがましい、ただ単にマスコミが生み出した現象に過ぎず、私たちはこういったことを少し離れたところから客観的にみている必要がある。
少なくとも、AKB48商法のターゲットになっている年齢層の若者とは、一線を画していなくてはいけない。
そうはいっても、子供たちがみているテレビドラマ(学園モノなど)で可愛いくみえる子が出ていて、「この子AKB?」と、当てずっぽうに聞いて、「そう」と返答されることがあったりする。
そう言う意味では、私も(ハマらないように)気をつけないといけない。


AKB48白熱論争 (幻冬舎新書)
小林 よしのり,中森 明夫,宇野 常寛,濱野 智史
幻冬舎


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近頃、しゃべるのが億劫に感じられる

2012年09月04日 | 日々思うこと、考えること
近頃、しゃべるのが億劫というか、面倒に感じることが多い。
仕事で話をせざるを得ない時、すなわち相手に話ことを要求されれば話をするが、自分から話をすることは減っている。

誰かに何かを話すという行為は、自分の考えていることを伝えるということであり、それが億劫に感じられるということは、どういうことだろう。

人に伝えるべきメッセージが無くなってしまったということか。
それとも、ほかに原因があるのか。
こんきもに自分の気持ち、考えを出していられる間はいいけど、それも駄目になったら、どうしよう。

漠然とした感覚だが、これって、ちょっとまずい、と思っている。


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自分には当たり前のことでも、ほかの人からは興味を持たれたりする。

2012年09月03日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

一昨日の私の話、結構好評だったようだ。素直に嬉しい。

自分では、日々診断に苦慮している毎日で、話した内容も日々の仕事の延長に過ぎない。

私にとっては当たり前の話で、むしろもっと深ーく、追求しなくてはならないことで、プレッシャーを感じているような問題である。

それでも、結局は自分がいつもやっていることを話すしか無く、実際そうやってみた。

いざやってみたら、ほかの人は私ほどはその領域のことに詳しくはなく、興味深く話を聞いてくれた。

医学は実践を伴った学問であり、いかに豊富な知識を備えていても、実際その疾患を経験していなくてはたかが知れている。今回の勉強会のように、その領域のことを知ってはいてもほとんど経験がなければ、興味深く話を聞いてくれるということになる。

いつの間にやら私なりに経験が蓄積されていたのだと実感した。

自信だのそう言ったものではないが、ちりも積もれば山となる、とはこのことだろうか。

今回の講義を通じて、微々たるものであっても、コロ健がこれまで経験してきたことを若い人に伝えていく必要を感じた。伝え方はとても難しいし、さらに勉強しなくてはならないが、なんとかやっていきたいと思う次第である。

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女性のきもちはわからない・・・2012年8月の読書記録

2012年09月02日 | 読書、映画、音楽、美術

今回の芥川賞、直木賞、いずれも女性作家が受賞した。

作品はぞれぞれ女性のもつ複雑な心理を描いていて秀逸。これまで、女性の心理をこれまで詳細に描いた作品はあったろうか。女性による女性のための女性の小説。そんな感じがした。時代が変わってきたともいえよう。

まあ、読んであらためて思い知らされたが、女性というものがこれほど難しい存在であるとは。結果わかったことは、コロ健が女性の心理を理解するのは生きているうちは無理そうであるということ。

女性にモテないのにもおおいに納得した。それとも、女性と接するときに妙に考えすぎなのだろうか。

 

8月の読書メーター
読んだ本の数:2冊
読んだページ数:387ページ
ナイス数:37ナイス

鍵のない夢を見る鍵のない夢を見る
犯罪は社会が決めた規範に違反することで、犯罪を犯す者の基準ではない。人によってはその行為は正当なことで、悪いことではない。犯罪者との境界はとても薄いヴェールのようなものしかなく、それは非犯罪者でも透かしてみることができる。だが、そのヴェールはとても高いハードルで、普通の人では、容易に越えることはできない。登場する犯罪者の誰もが、”越えやすい”タイプの人間であることが残念。どの作品も女性の視点から描かれており、男の私には理解しずらい女性の持つ”どうしようもなさ”というのが、少しだけ伝わってきた。
読了日:08月14日 著者:辻村 深月
冥土めぐり冥土めぐり
単行本の最後のページをめくったところにある四行にこの作品のゴールがあった。顔の無い”家族”という怪物に心を支配されて生き続けてきた奈津子と、精神的に自由に生き続けていく太一。読み終わった直後は一体、なんなのかよくわからなかったのだが、何度か読み返し、そして、何度目かの最後のページをめくった時に、明快なメッセージを理解することができた。大変爽快な読後感となった。「99の~」はここまで、女性の心象風景を知りたいとは思わない、男の私にはちょっときつい作品です。
読了日:08月11日 著者:鹿島田 真希

2012年8月の読書メーターまとめ詳細
読書メーター


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無事終了(ただし一日目、まだ明日がある)

2012年09月01日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

今朝の鎌倉、とっても美味しそうな入道雲。

今日は、某研究会主催の勉強会。コロ健も1コマ講師を仰せつかっている。

東京駅で乗り換えて、新幹線で一路山形へ。

講演原稿をチェックしていたらあっという間についてしまった。

新幹線の中で一緒だった仲間の先生と一緒に会場に向かう。

以前、親友の一人が米沢で結婚式を挙げたときに来て以来、山形は2度目、なのに、このまま会場入りして、終わってそのまま帰ってくるのでは山形がどんな場所なのかがわからないままだなあ、などと思いながら会が始まった。

  

会場となった大学はとてもきれいで、会場のまわりには雄大な山々。

入道雲はどこでも見てもいいものだ。

午後1時から8時前まで、びっしり。生徒さんは100名以上と大盛況。

コロ健も、無事講義を終えた。

あとで聞いたら、幸い、講義内容も好評だったようだ(といってくれている)。

とはいっても、今日は講義の日。

明日は実習。早めに休んで、明日に備えることにしよう。

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