風のBLOG

東京演劇集団風の時事通信!
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レパートリーシアターKAZE 5月公演 『窓辺の馬』

2024-04-01 11:29:51 | レパートリーシアターKAZE

 


レパートリーシアターKAZEは「跳躍! 不可能なものの可能性へ ——」と題し、
マテイ・ヴィスニユック3作品連続公演2024を企画しました。
第1作目は『窓辺の馬』を上演します。
2017年の初演から7年、よりアクチュアリティをもって私たちに響いてくるこの作品に
全力で向き合っていきたいと考えています。ぜひ、お立会いください。

 

 

 

窓辺の馬 Les Chevaux à la fenêtre

家族の日常と〈別れ〉をユーモラスかつダイナミックに描いた、戦争の寓意劇

 

作:マテイ・ヴィスニユックMatéi Visniec 翻訳:川口覚子
演出:ペトル・ヴトカレウPetru Vutcărău
〈モルドバ共和国/国立ウジェーヌ・イヨネスコ劇場 芸術監督〉

開演: 5月4日(土祝)~6日(月) 14時
出演:中村滋
   石岡和総/白石圭司/緒方一則
   柴崎美納/亀澤美未/倉八ほなみ


舞台美術:ペトル・ヴトカレウ/ボリス・ゴレアBoris Golea
     〈モルドバ共和国/国立ウジェーヌ・イヨネスコ劇場〉
作曲・音楽制作:セルジウ・スクレレアSergiu Screlea
    〈モルドバ共和国/国立ウジェーヌ・イヨネスコ劇場〉

照明:坂野貢也 音響:上田舞子 舞台監督:佐田剛久 

芸術監督 浅野佳成

著作権代理:フランス著作権事務所 
後援:在日ルーマニア大使館/在日モルドバ大使館/中野区

 

繰り返される戦争の歴史、繰り返される“別れ”の物語

使者が戦場からの〈死の報せ〉を持って現われるのは、三つの時代、三人の女たち — 母、娘、妻が待つ部屋。物語るのは、英雄の陰で死んでいった名もない男たちと残された小さな家族が繰り返す、悲しくも奇妙な〈別れ〉。蛇口からは黒い水が流れ続け、窓の向こうでは馬たちが凶暴さを増していく―

 

 

会場:レパートリーシアターKAZE 東京都中野区東中野1-2-4
アクセス:JR「東中野駅」東口より徒歩8分/地下鉄「中野坂上駅」A1出口より徒歩8分

入場料:当日 4000円/前売 3800円/学生 3300円/小中高生 2000円 [全席自由]  
    (中野区内の小中学生は500円割引です)
    * 13:00より受付を開始し、入場整理券をお渡しします。開場は13:45です ( 舞台見学あり)
     13:30より、配慮が必要な方の先行入場があります
    * 車椅子ご利用、補助犬をお連れの方、駅から劇場へのサポート、台本の貸し出し等が必要な
      方は事前にお知らせください  舞台手話通訳、音声ガイド、字幕のサポートはありません


チケットのお申し込み・お問い合わせ:東京演劇集団 風
Tel.03-3363-3261[代](平日10:00~18:00  土日・祝日を除く)Fax.03-3363-3265
E-mail:info@kaze-net.org URLhttp://www.kaze-net.org/ticket
(インターネットでのお申し込みは観劇希望日の3日前まで)


マテイ・ヴィスニユック3作品連続公演2024【8月公演】

8月10日~12日

『なぜ ヘカベ』 
構成・演出:江原早哉香
出演:辻由美子 他 劇団員総出演

途切れることのない母親の叫び
盲目の老人が語る、トロイアの女王ヘカベの物語。演劇のはじまりを問い、現代と切り結ぶ〈風の新しいギリシア悲劇〉として書き下ろされたオリジナル作品。
2023年、第25回テアトロ演劇賞・特別賞受賞(辻由美子)


8月30日~9月1日

バリアフリー演劇『ジャンヌ・ダルク—ジャンヌと炎』
演出:浅野佳成
出演:髙階ひかり、中村滋、白石圭司、佐藤勇太 他

いま、ひとりの少女が声を上げた—
障害のある人もない人も皆で一緒に楽しめるバリアフリー演劇の新作。
旅役者たちが語る、羊飼いの少女ジャンヌの物語。人々の幸福、願いに声を上げた少女の姿を描いた、マテイの書き下ろし作品。「すべての人は、たとえ小さくても心に炎をともしている」


3人の演出家によるマテイ・ヴィスニユック3作品の上演で、
再びヴィスニユックの世界に深く踏み込んでゆきたいと思います。
ご期待ください。

 

 

 

 


『母が口にした「進歩」 その言葉はひどく噓っぽく響いていた』アンコール放送のお知らせ

2020-09-15 14:21:08 | レパートリーシアターKAZE

この度、2018年レパートリーシアターKAZEで上演し、その後NHKプレミアムステージにて放送されたマテイ・ヴィスニユック 作・江原早哉香 演出『母が口にした「進歩 」その言葉はひどく噓っぽく響いていた』が再放送される事となりました。

 

深夜の放送となりますが、是非ご覧下さい。

 

NHK BSプレミアム プレミアムステージ 

10月4日(日) 23:20〜翌3:36

 

翌1:27〜放送 

『母が口にした「進歩 」その言葉はひどく噓っぽく響いていた』アンコール放送

出演:父親=緒方一則 母親=柴崎美納 息子(ヴィブコ)=佐野準 娘(イダ)=白根有子

   新しい隣人(イルヴァン)/キャロリン/フランツ(ドイツ兵)の声=柳瀬太一

   泣き女/狂った女(ミルカ)=稲葉礼恵 民兵(コーカイ)/従業員=佐藤勇太

   スタンコ/いつも笑ってる男=中村滋 ブラリク(セルビア人)の声/男(ボン引き)=白石圭司

   泣き女=仲村三千代/工藤順子/保角淳子 女主人=辻由美子

 

 

 

 

東京演劇集団風

 


新作『標的の女と10人の愛人』公演延期のお知らせ

2020-07-10 14:13:55 | レパートリーシアターKAZE

今年の夏に予定されておりました、レパートリーシアターKAZE 新作 作:マテイ・ヴィスニユック 演出・構成:江原早哉香『標的の女と10人の愛人』(8月22日〜30日)の公演延期のお知らせです。

 

本公演は、海外のアーティストとの共同制作であり、昨年からレバノン・フランスにおいて舞台美術・衣裳・人形制作の準備に入っており、来日して風のメンバーと稽古を進め、新作として上演する予定でおりました。しかし、新型コロナウイルスによる入国制限などの状況から来日が叶わないこと、また感染症の状況を鑑み、誠に残念ではありますが、延期をさせていただく運びとなりました。来年には必ず上演をいたしますので、その機会には皆さまにお知らせをさせていただきます。

 

また、劇場再開の目処が立ちましたら、皆さまにお知らせいたします。

今後とも、何卒変わらぬご支援のほどよろしく御願い致します。

 

 

 

東京演劇集団風


風が吹く ーレパートリーシアターだより

2020-04-29 12:24:10 | レパートリーシアターKAZE


皆さまいかがお過ごしでしょうか。

緊急事態宣言を受けて現在レパートリーシアターKAZEは休館しておりますが、劇団員は全員元気にしております。

各々が今なにができるのかを考え、本を読むなどそれぞれの演劇を深めています。

その中でこのブログを皆さんの交流の場として再開します。

また皆さまと元気にお会いすることができる日を信じて、今回は演劇ゼロ年を宣言した2012年の年鑑から抜粋文を選びました。

 

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KAZE年鑑 2012 巻頭より一部抜粋

 

自由に呼吸できる空間を求めて    辻 由美子

 

私にとって〈劇場〉とは、単に建築物の名称を指すのではなく、人と人が集まり、“人間に対しての終わりのない願い”があふれる時間と空間を共有するという目には見えないものです。集う人々が個々に「いま、ここ」にあるものを託し合う、そこには今があり、過去があり、そして未来への一歩へと導く願いがある……それが本来の劇場ではないでしょうか。

……

現在、劇団には研究生を含め三十二人の劇団員がいます。劇団創立二十六年目を迎え、浅野は「演劇ゼロ年」と宣言しました。私自身も含め、これまでの劇団活動の真意が問われるのはこれからです。劇団員ひとりひとりが社会、自身、人と真正面に向き合い、己の自由を獲得すること、そこにのみ、人々との新たな出会いや経験、自由に呼吸できる空間〈劇場〉の現出があると信じて、これからも私たちの活動を行っていきたいと思います。劇場に集う人々とともに。

 

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レパートリーシアターKAZE

 

 

 


風が吹く ーレパートリーシアターだより

2020-03-20 11:39:36 | レパートリーシアターKAZE

今日は俳優の数名がもうひとつの活動拠点である月夜野のアトリエに出発しました。
なにやら作業をするみたいです。朝から楽しそうに元気に出発していきました。


そんなアトリエに関しての一文を今日はお届けします。

私たちにとってのアトリエ、月夜野とはなにか。

KAZE年鑑 2017より

風のワークショップー演劇の発見と自己開示

 僕が俳優として演劇をスタートしたのが、1997年だ。その年劇団に入って最初に体験した作業がある。みなかみ町の旧月夜野町にある、かつて養蚕場だった古い工場に、劇団の先輩といっしょにコンパネで床板を張り、稽古場を作ることだった。三人で朝から日が暮れるまで作業をして5日もかかった作業だったのでよくおぼえている。当時その工場には、畳み張りの休憩室があって、この部屋で寝泊まりしながら、稽古場をつくった。舞台の経験が全くなかった僕には、自分が作る稽古場でどんな稽古が行われるか、もちろん予想もつくはずもなかった。後にこの場所から、今では風の演劇の重要な試みの一つである「詩劇」や、レパートリーシアターや全国の観客との出会いを深めていくために欠かせない活動の『ワークショップ』が生まれることになる。僕の俳優としての旅も、このみなかみ町での作業から始まり今でも、自分が演劇を思考するために帰る故郷になっている。
 
 みなかみ町に稽古場を作り始めたちょうどこの年から、浅野は風でワークショップを始めている。浅野が1997年当時の思考や作業を、『workshop note』に記録している。その記録によると、浅野が劇団のワークショップで最初に試みを開始し、風の俳優に課せたのは『非対象化的行為による演技』だった。対象化演技とは、戯曲や登場人物に対する知識をつくり、上演意図、演出プラン、テーマなどからモチーフを作り(概念)、芝居全般や登場人物に対するイメージを作り、他者や世界と関わり生産(ドラマをつくる)していくやり方だ。読み稽古→立ち稽古→通し→舞台稽古→本番という順番で芝居を構築していく。それに対し我々が舞台を創造する過程で発見すべき非対象化的行為による演技とは、俳優自身がニュートラルな状態のまま、その場で起きることや相手とのリアクションで舞台上の行動を展開させ、いきなり作品世界と関わっていくことだと、試みを開始したばかりの浅野は語っている。。
 浅野の最初のアプローチは、サルトルの『出口なし』の上演の稽古場だ。『団地の朝』というテーマで徹底的に即興のワークショップを行っていたようだ。それは、俳優から、テキストや作品に対するテーマ、登場人物に対するイメージ(だいたいの場合、偏見が多いのだが)、自分に対する偏ったイメージを一定程度とりのぞき、ある状況だけ与え、その場、その時に即興劇をつくりだし、思考し認識しつつ体験したこと、そこで生み出された動きを基に展開させ、積み上げながら上演していくための作業だったとworkshop noteにある。浅野はさらに書き留めている。
「対象化はものづくりには大切な思考ではあるが、偏見を生む場合が多い。演じるという行為を、対象化(イメージを作るとか概念をつくるなど)のみに頼らず、自己の思考圏から自己を排除し、また思考様式がつくりだす偏見状態から自己を脱出させ、ニュートラルな状態あるいはニュートラルな状態からつくりだされた動きがいきなり状況と関わりを持ち、行動が展開されていくという非対象化的行為による演技に目を向けること。」
この重要性を、風で俳優を始めたばかりの新人の僕にも、他の風のベテランの俳優にも同様に浅野は経験させていった。
 「非対称化的行為による演劇」と聞いても、当時の僕はもちろん全く分からなかった。しかし、「非対称化」を考えるきっかけになったワークショップでの経験がある。それは、『ローマの悲劇』という即興だ。
 戦時中のローマで暴動が起きる。ローマ軍の将軍の妻は、農夫に犯され、相手に身をゆだね、夫を裏切ることで快感をえる。将軍がその場に帰還し妻をみる。妻の心の中にかすかによぎった喜びと、裏切りを感じ取った将軍が退場することで悲劇が現れる。この即興での俳優のセリフは「おはよう」だけだ。この即興は繰り返し試みられたが、多くの場合俳優が「対象化」しようとして失敗したと記録されている。それは、即興を演じる俳優が、「設定を理解しようとしたりとかドラマを描こうとしたり、解釈が入ったりしたからだ」と浅野は指摘している。
 まだ初舞台を経験してなく、稽古で劇団員の前に立つだけでも心臓がドキドキしていた僕も、この即興に参加した。僕が演じたのは、ローマに帰還する将軍付きの兵士の役だった。当時浅野が「見る、聞くことから動きを見つけろ」と頻繁にワークショップで伝えようとしていたことをおぼえている。即興で兵士をやった僕は、夢中でその場にいる他の俳優の動きを見ること、流れてくる音楽や呼吸を聞くことに集中し、ふるえて熱くなってくる自分の身体と感覚が自然に「舞台上での動き」を発見することに、身をゆだねた。即興のあと浅野が僕に言った。
『今のお前が演じた兵士の動きはよかった。それが演劇だ。今演じた感覚をよく記憶しておけ。』
それまで芝居でもワークショップでも何も出来なかった僕が、風に来て始めて演技について良かったと言われた瞬間だった。その時は興奮していてよく考えられていなかったが、後から考えると、舞台上にいた自分は、相手とその状況に対していきなり関係をつくることをつうじて、身体の動きを発見していたのではないか、それが「非対象化的行為による演劇」に関係しているのではないかと思う。このように、俳優が自らの身体に少しずつ動きを浸透させていくのが、風のワークショップだった。当時の僕は、このようなワークショップが好きになっていった。
 
 なぜ、演劇の経験が全くなかった僕が風のワークショップを好きになっていったのか。それは、ワークショップとは、どのような演劇を行うかという方法論の模索でもなければ、俳優教育のプログラムでもない。ワークショップは「演劇とは何か」という我々の「演劇へのアプローチ」に対する思考だったからではないだろうか。演劇がもっている本質的、根源的な諸要素を瞬間に、そして断片的に体験し、経験することによって、演劇の本質に向かって自己開示していこうという集団的な試みだと感じたからだと思う。つまり、「自己の中にあるものが、自己の可能性を見つけ出しているか」ということであり、そのことが「自分の中にあるものが、どんな可能性をつくりだしているか」ということをとおして、演劇を思考する作業場だったからだろう。浅野はワークショップのなかで、俳優の(動きの質)に特に気をつけているように思う。その俳優の動きが身体そのものから出ているか、類似のイメージ―かつて描かれた美しい景色を再び描こうとしてはいないか、また象徴の動き―色彩を外側から描こうとしているのではないか、を観察している。俳優の行動の源が「記憶された知覚」か「知覚された記憶」なのかどうか。余分な動きを削り、脇道にそれないように指摘されると、俳優はだんだん身体の奥の、ほんものの色彩に接近していく。自身に芽生える芸術の真の核心にだ。浅野が我々俳優と行っている作業は、俳優に動きが脇にそれたと分からせること。しかも正解を教えることではない。疑いの余地を残し、浅野自身は承知していても、俳優自身に発見させることを重視していると感じる。そしてワークショップを通じて、俳優とは「世界に関するなぜを観客といかに共有できるか」に集中すること。演劇がたえず世界への問いかけをひきおこすということを俳優の身体に刻み込ませようとした。「俳優の身体は常に問題を惹起すること」のうちに集中しながら、最後にはとりわけて開かれた問いを再発見する場がワークショップであり舞台に立つことだと。

 かつて、養蚕を行っていた工場を20年かけて演劇の実験であるワークショップの作業場であり、風のもう一つの劇場に作り続けてきた。床板をはり、壁を青く塗り、寝室を快適にし、演劇の旅のスタートであり、戻ってこられる場所をつくった。それは、我々の演劇の壁に色彩を描き、役者が演劇に出会うためしっかり立つことができる床をつくり、僕たちが演劇とはなにかを思考する部屋を見つけるワークショップと同じ活動だった。みなかみのアトリエと風のメンバーみんなが一緒に育ってきた。全国の学校公演やレパートリーシアターで演劇を創造し続けている我々にとって最も重要なことは、この「演劇とは何か」という演劇へのアプローチがワークショップのはじまりであったという点だという気がする。つまり、僕にとってワークショップは、俳優であるために根を生えさせ、肥やしをやり、地面を耕すことだった。
 
アトリエの改装を始めたとき、力をかして頂いた大工さんがいた。大工の桜井さんとは、一緒にそばを食べたり、年越しのワークショップを共に楽しんだり、みなかみ町の時間を共有する友人だった。桜井さんは残念ながらお亡くなりになったが、今では大工の跡を継がれた息子さんに、アトリエの改装にご尽力いただいている。さらにうれしいことに、みなかみ町の学校の体育館で始めて実現した『星の王子さま』の公演では、桜井さんのお孫さんがクラスにいる六年生と風の俳優とが共演できた。このようにみなかみ町での活動は、着実に根をはり、町の人々との関係も確実に繋がってきている。このみなかみのアトリエとワークショップがあるおかげで、これまで全国の地域や島、みなかみ町や月夜野でかけがえのない人たちとの出会いもあった。この出会いを俳優として生きる自分の宝にし、これからも演劇へのアプローチを力強く行う場を、みなかみのアトリエで育んでいきたい。

 

 


風が吹く ーレパートリーシアターKAZEだより

2020-03-18 10:58:47 | レパートリーシアターKAZE

先日のブログの通り、今までのKAZE年鑑より誌面を抜粋し皆様にお届けしようと思います。

KAZE年鑑には俳優たち、 風に関わってくださる皆様からの声が載っています。

普段は見ることのできない役者の一面も垣間見えたり・・・

そんなKAZE年鑑から今回はこの一文をお届けします。

 

 

KAZA年鑑 2016(2017/4 発行)

見出される時ー二〇一六年、出会った “ことば” より

 

 

小さなノート    稲葉礼恵(俳優)

 

昨年の春に引っ越しのための準備をしていた時のこと。本当に大切なものを大切にできるように、要らないものは思いきって捨てようと苦手な作業に取り掛かった。

机の引き出しの奥から小さなノートが出てきた。どうやら五年ほど前に書いた日記・・・というより、心の内をどうしても吐き出したい時に書いていたもの。こういうものは時間が経って読み返すと大抵恥ずかしい内容で捨てたくなることが多いのだが、今の自分に語りかけてくるものがあり捨てられず、持って行く荷物の箱に入れた。

そのノートには本からの引用もあり、私はこんなことを書き出していた。

「このごろは、誰も心に願いを持つなんてことはなくなってしまいました。けれども、マルテ、おまえは心に願いを持つことを忘れてはいけませんよ。願いごとは、ぜひ持たねばなりません。それは、願いのかなうことはないかもわからないわ。けれども、本当の願いごとは、いつまでも、一生涯、持っていなければならぬものよ。かなえられるかどうかなぞ、忘れてしまうくらい、長く長く持っていなければならぬものですよ」

詩人リルケの自伝的小説『マルテの手記』の中で、少年時代のマルテに母が語った言葉です。

“願うこと” よりも “如何に叶うか”ということだけが大事にされ、叶わぬ願いは意味がないから捨てろと言われるのは今の時代だけではない。

だからこそ、どの時代のどこの国の詩人や芸術家も、自分を押し流していきそうな波に抗い、本当に美しい言葉を心に秘めていたのだろう。

今、劇場は人が心に隠し持っている本当の想いや言葉をさらけ出せる希少な場なのではないかと思います。私たちは毎年、全国の巡回公演、東京のレパートリーシアター、そしてもうひとつの活動拠点であるみなかみ町でたくさんの人たちと出会い、対話する機会にも恵まれています。

人が持っている願いを聞き取り、あらゆる方向から押し寄せる流れの中で自分らしく立っていられるための本当の言葉を、一人ひとりに穏やかに語りかけられる心を持ちたいと願っています。

小さなノートはまたいつか読み返したり新しい言葉を書き加えたくなるまで、本棚の中に並んでいる。