みすじ通りと一ツ木通りの間の町屋が赤坂新町でした。五丁目までありましたが、通りの間に挟まれていたのは一丁目から三丁目までで、寛永17、8年(1640、41年)頃、武家方に給付され、一丁目は延宝元年(1673年)、二、三丁目は元禄9年(1696年)に町奉行支配となりました。赤坂田町などより後の成立であることが、その名の由来と思われます。以下はそのうちの新町二丁目の下水に関する、「御府内備考」の記述です。「下水 幅三尺五寸 右町内西之方一ツ木町浄土寺境より東之方田町御堀端明地内大下水え流レ落申候」
- ・ 一ツ木通り 赤坂見附方向のショットで、右手が江戸時代の赤坂新町二丁目、左手前が浄土寺門前、奥が一ツ木町です。浅いながら谷筋が横切っているのが分かります。
- ・ 浄土寺門前 「平河山(へいかさん)浄土寺 昔は御城内平河口の辺にありしを、元亀3年(1572年)今の地に移されしと云。」(「江戸名所図会」)
- ・ 浄土寺境内 本堂前には享保4年(1719年)作成の地蔵菩薩坐像が祀られています。例の「江戸六地蔵」と同じく、地蔵坊正元の勧進、鋳物師は太田正義ですが、六地蔵には数えられていません。
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