神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

溜池2

2014-10-02 07:18:38 | 城西の堀川2

 外堀通りを南下して六本木通りとの溜池交差点まで来ました。ここから現特許庁前に設けられた堰(通称赤坂のどんどん)までが、溜池のもっとも幅広な個所で、幕末の切絵図などで左岸にふくれヘチマのように描かれているところです。もっとも、こうなったのは18世紀に入ってからで、当初は→ 「段彩陰影図」にも書き込んだように、左右共にふくれた瓢箪型でした。その経緯は項を改めて詳細します。なお、下掲「1/5000実測図」当時は、溜池の水を落として造成する工事に着手しているため、元の形がよく分からなくなっています。そこで、江戸末の切絵図などを参考に、薄いブルーでその形を重ねてみました。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量及び同17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南西部及び南部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 溜池交差点  外堀通りと六本木通りの交差点で、高架は六本木方面に向かう都心環状線です。手前の三角コーナーにあるのは、平成9年に設けられた「溜池発祥の碑」です。

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    ・ 特許庁前  外堀通り特許庁前交差点から永田町方面です。切絵図で溜池がふくらんで描かれているところで、今でもはっきり分かる低地が左岸に食い込んでいます。

 <溜池の歴史1>  「池の堤に榎の古木二三株あり、是を印の榎と名(なづ)く。昔浅野左京太夫幸長、欽命を奉して此所の水を築止めらる、其臣矢島長雲是を司り、堤成就の後、其功を後世に伝んため印にとて栽けるとなり。」(「江戸名所図会」) 慶長11年(1606年)の天下普請に際してのことで、旧領の甲州の人夫を動員、武田家伝来の土木技術を活用しました。完成後家康は幸長を従えて、赤坂門までの堀をめぐり、その功をねぎらったと伝えられています。
 当初は軍事的な役割と共に、上水機能を有していましたが、玉川上水の開削がなされ、後者の意味がなくなった承応以降、埋立てが始まります。特に大規模なものは18世紀前半の宝永から享保にかけてで、赤坂側のふくらみのところが削られました。当初は水田や畑、のちには(弓の練習用の)大的稽古場や馬場が設けられ、一部紺屋などが製品を干す干場として貸し出されたりします。この埋め立ての際、細長い瓜状に埋め残されたところは、「大溜」と称されますが、これは赤坂川(大下水)の溜池への落ち口でした。