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千川上水年表

2015-10-30 07:20:46 | 千川用水6

 「千川用水」シリーズの最後、「千川用水6」です。長崎、上下板橋の境がある大谷口五差路から、開渠の終点のあった巣鴨掘割までで、板橋、滝野川村が主な範囲ですが、幕末に開削された王子分水も扱います。また、年表や参考文献もUPの予定です。

*  *  *  *  *  *

 1654 承応2  玉川上水開削。
 1696 元禄9  千川上水開削。小石川御殿、上野寛永寺、浅草浅草寺、湯島聖堂及び本郷、湯島、外神田、下谷、浅草に給水する。
 1707 宝永4  田用水として利用開始。
 1714 正徳4  小石川御殿閉鎖。
   (この頃)   「千川上水給水区域」(「千川家文書」)成立。田用水利用の17ヶ村7分水のリストアップ。
 1722 享保7  江戸給水中止、田用水としての使用は継続。
 1780 安永9  上水再興のための改修工事。 「千川素堀筋普請所積見分」(「小川家文書」)成立。
 1781 天明元  千川上水再興。
 1786 天明6  江戸給水中止。
 1794 寛政6  「千川養水路之件書類」(「星野家文書」)成立。田用水利用の20ヶ村16分水のリストアップ。
 1864 元冶元  滝野川大砲製造所プロジェクトのための調査。「千川分水口取調絵図」(「芦川家文書」)成立。
 1865 慶応元  滝野川大砲製造所への新堀(王子分水)開削。
 1870 明治3  玉川上水からの直分水廃止。
 1871 明治4  新水口から直分水復活。
 1872 明治5  鹿島紡績所、王子分水(66坪8合)を使用して、撚糸器を回すため水車稼働。余水は下用水組合の補助用水。
 1875 明治8  紙幣寮抄紙局と下用水組合(実際は抄紙会社、のちの王子製紙)、王子分水を半々で使用することに合意。
 1877 明治10 「千川用水組合村樋口伏替願」(「星野家文書」)成立。
 1878 明治11 (紙幣寮抄紙局改め)印刷局抄紙部、50坪を別樋で獲得。
 1880 明治13 千川水道株式会社設立、150坪を割り当てられる。
 1882 明治15 「千川上水分配堰碑」が建てられる。
   (この頃)    「千川上水路図」作成。
 1884 明治17 下板橋宿付近の流路の変更。
 1905 明治38 板橋火薬製作所の取水口新設。
   (この頃)    「千川上水使用権利詳細平面図」(紙の博物館所蔵)成立。 
 1908 明治41 千川水道株式会社解散。六義園のみに給水。
 1914 大正3  両岸に桜、楓の植樹。
 1928 昭和3  滝野川、板橋の暗渠化工事開始。翌年までに五兵衛橋まで完成。
 1930 昭和5  五兵衛橋から大山橋までの暗渠化工事開始。同7年までに完成。順次上流へと移行し現川越街道を越えるも、第二次大戦で中断。
 1940 昭和10年 工業用水補助のため、豊島園下流からの石神井川揚水開始。
 1941 昭和16 武蔵高等学校報国団民族文化部門編「千川上水」成立。
 1951 昭和26 (王子製紙王子工場を承継していた)十条製紙が水利権を放棄。
 1952 昭和27 暗渠化工事の再開。
 1957 昭和32 善福寺池への給水開始。
 1966 昭和41 玉川上水からの新取水口開設。
 1968 昭和43 六義園への給水停止。
 1970 昭和45 都水道局板橋浄水場、(陸軍造兵廠から引き継いでいた)千川上水からの取水停止。この頃までに現行の開渠部分を除いて、暗渠化工事完了。
 1971 昭和46 大蔵省印刷局王子工場が工業用水道に切り替え。
 1989 平成元  「清流復活」プロジェクトにより、玉川上水の取水口から取水再開。