元治元年(1864年)、現醸造試験所跡地公園に幕府直営の大砲製造所建設が計画され、砲身を穿孔する錐付水車の動力源として千川上水の水が注目されます。たびたびお世話になっている「千川分水口取調絵図」が作成されたのはこの際で、普請方は9月21日から4日間かけて千川上水の調査を行い、分水口の場所、大きさ、利用する村を取調べています。結局、翌慶応元年9月から3カ月ほどかけて、大砲製造所まで引水する水路が開かれますが、工事内容は大きく二分され、一つは滝野川村平尾水車から高枡跡までの在来堀(古堀)の拡張、もう一つは高枡跡から大砲製造所までの新規開削(新堀)でした。
- ・ 「東京近傍図 / 下谷区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で大半は北区(旧滝野川村、王子村など)です。
- ・ 堀割交差点 明治通りと旧中山道の、その名も掘割交差点から、王子分水を大砲製造所跡までたどります。しばらくは明治通りに含まれ、痕跡らしいものはありません。
- ・ 明治通り 堀割交差点の先です。この付近に王子分水を利用している、精米用の榎本水車がありました。「近傍図」にも描かれています。
- ・ 区境の路地 堀割交差点から200mほどのところで、北区と豊島区の境になっている路地が左手にはなれます。王子分水はこの左手を並行していました。