板橋郵便局裏の千川上水跡の道路に戻ります。花月橋の架かっていたところから3ブロック、200mほどで幅広の通りを横切りますが、こちらは戦後の新設なので、橋が架かけられたことはありません。その通りを越えた左手に、板橋一丁目児童遊園があります。「ねりまの文化財(千川上水特集号)」によると、このあたりに板橋火薬製造所への分水口がありました。明治38年(1906年)に開設されたものです。武蔵高等学校報国団民族文化部門編「千川上水」は、「板橋驛の手前では一工場への用水を分ち」と書いており、昭和15年(1940年)という時節柄、陸軍施設である(火薬製造所改め)造兵廠を一工場とあいまいにしたのでしょう。
- ・ 千川上水跡 下板橋通りを横切ります。左手に折れると、ほんの50mで旧中山道、右手に向かうと300m弱で下板橋駅前ですが、そこには谷端川が流れ、谷端橋や田楽橋が架かっていました。
- ・ 板橋一丁目児童遊園 上掲写真のすぐ先の左手です。なお、分水口の場所に言及しているのは、「ねりまの文化財(千川上水特集号)」のみなので、目下一次史料を探しているところです。
<板橋火薬製造所> 明治に入り加賀藩下屋敷跡は南北に二分され、農地、牧草地と火薬製造所に分けられましたが、両者の境は東板橋体育館前から金沢橋に至る王子新道にありました。うち、明治6年(1873年)に火薬製造所が建設されたのは、爆発事故の衝撃を緩衝する広大なスペースと、水車の動力源及び輸送路としての石神井川が、最適な立地条件を提供したためと思われます。ところで、農地にしろ火薬製造所にしろ、直近にある千川上水の水は魅力だったようで、明治14年には田用水の分水願いが、同21年には工場用水のそれが提出されます。火薬製造所の場合は、石神井川沿いに設置された工業用水車と競合し、安定した水量を確保することが難しくなったためですが、この時はいずれも千川上水の水量不足を理由に却下されています。
- ・ 圧磨機圧輪記念碑 東板橋体育館の敷地奥にあります。明治9年(1876年)から30年間、黒色火薬製造に用いたものです。石神井川の水を動力源に、ベルギー製の鉄製縦軸水車で回転し、硫黄、木炭、硝石を砕いて混合しました。