千川用水最後の分水が巣鴨村分水ですが、そのあり様は上水利用の有無など流末の全体構造とかかわっており、まずそこから話を始めます。「小川家文書」中の上水復興時の護岸工事用の→ 「絵図」に見る千川上水の最下流は、水門、分水枡、巣鴨村分水、そしてかけ流しの流末となっています。このうち最初の水門は増水時の吐水門のことで、享保7年(1722年)の上水廃止以前の様子とされる「江戸配水図」にもあり、同年代の「千川上水給水区域」が、「板橋御林之内二而吐申候、并巣鴨村二而吐申候」としているものです。次の上水枡は当然のことながら、上水使用時期限定で設けられるもので、「江戸配水図」ではこちらが「水門」となっています。また、「小川家文書」中の上水復興時の「樋枡仕様書」に、「滝野川大枡 六尺四方深サ八尺」とあるのがこれでしょう。一方、こうした上水利用時の流末に対し、その停止時はいたってシンプルで、次にUPするのは 天明6年(1786年)に上水利用が再停止されたあとの様子です。
- ・ 「一橋家小石川屋敷分水絵図」 豊島区郷土資料館「千川上水関係史料集Ⅰ」に収録された絵図を元に、その一部をイラスト化したものです。なお、図中、庚申塚手前の「下水吐」については、→ 「谷端川・小石川3 / 字新田2」で扱っています。
寛政元年(1789年)から2年にかけて、一橋家小石川屋敷への千川上水引水が企画されました。結局実現しませんでしたが、上掲絵図はその設計図のうち裏通り経由のもので、もう一枚は枡で分水して中山道を経由しています。注目は滝野川村境に接した流末の傍らに、「巣鴨村田用水」と書き込まれていることで、流末の余水をかけ流し、巣鴨村分水としていたのだと推測できます。「此所有来用水落口へ水門仕付吐水口ニ仕ル様」は、巣鴨村分水口に水門を取り付け、吐水口に再転用しようということでしょう。なお、この図面から切れるところに、別個吐水門や巣鴨村分水口があったかどうかは不明ですが、上水未使用時に吐水門は不要ですし、後者もなかったことが推測されます。寛政6年の「星野家文書」には、巣鴨村分水について「巣鴨村流落し候也」と、やはり流末の転用を思わせる記述があります。
- ・ 千川上水跡 巣鴨村境の現明治通りまであとワンブロック、100m弱です。なお、「千川素堀筋普請所積見分」は、最後の分水口、土橋から巣鴨村境まで記述がなく、吐水門以下の位置を計算することができません。