神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

下板橋宿2

2015-10-01 06:49:23 | 千川用水6

 下板橋宿は中山道が出来た17世紀以降、その最初の宿場町として発展しましたが、板橋の地名自体は中世までさかのぼり、延慶本「平家物語」や「義経記」にも登場、「小田原衆所領役帳」には当地を領する板橋氏の名も見えます。地名由来については、石神井川に架かる板橋から発祥とするのが一般ですが、どこに架かっていたのか、どのような橋だったのかなど、詳細は伝わってはいません。「源平盛衰記」で頼朝が陣を敷いた「滝野川松橋」を、板橋と同一視する見解もありますが、その当否も不明です。なお、江戸時代には中宿と上宿の間にある板橋が有名だったため、「江戸名所図会」は「駅舎の中程を流るる石神川(しゃくじかわ)に架する小橋あり、板橋の名ここに発(おこ)るとぞ」とし、かつ割注で「義経記」や「所領役帳」に触れています。

 

Itabaezu1

    ・ 「江戸名所図会 / 板橋駅」  「早発版橋  暁発版橋駅 / 迨々遠北門 / 山稀著日早 / 草短履霜繁 / 行李臨東道 / 長亭径大原 / 離家還未幾 / 遊子易銷魂  南郭」 

0705a

    ・ 板橋宿本陣跡  代々飯田新左衛門が世襲した本陣は、この右手、現仲宿4-10にありました。参勤交代で通行した加賀前田藩などの大名や幕府の公用の武士、僧や公家などが休憩したところです。

0705b

    ・ 現在の板橋  「新編武蔵風土記稿」当時は「長九間幅三間」の太鼓状の板橋でしたが、自動車の普及に伴い昭和7年(1932年)コンクリート製となり、現在のものは昭和47年(1972年)架け替えられました。

 <板橋宿と千川上水2>  千川上水の水が溢れ出し、川越街道や中山道が水びたしになる事態が、「千川家文書」などに記録されています。文化4年(1807年)8月の「千川家文書」(豊島区立郷土資料館「千川上水関係史料集」)は、同年6月から7月にかけて、「下板橋村内千川用水押出シ畠水押」、「字大山と申処より千川用水堀往還え水押出シ」といった事態が二度、三度と続き、千川家ではその都度分水口の見廻りをしたところ、井草村の新之丞という水車稼の者が、規定を無視して樋口の開閉をしている、ついては取り締まってほしい旨を、井草村の領主である今川家に訴えています。また、「板橋区史 / 通史編上」の引用する嘉永2年(1849年)7月の「千川家文書」は、「千川用水堀当宿裏相流候処大雨之節者当宿往還江水押開候ニ付」で始まり、練馬村在住の千川家では緊急時の対応が出来ないので、板橋宿平尾の中嶋屋七郎兵衛が下板橋から巣鴨にかけて見廻り、応急措置を肩代わりする旨述べています。