下板橋宿は中山道が出来た17世紀以降、その最初の宿場町として発展しましたが、板橋の地名自体は中世までさかのぼり、延慶本「平家物語」や「義経記」にも登場、「小田原衆所領役帳」には当地を領する板橋氏の名も見えます。地名由来については、石神井川に架かる板橋から発祥とするのが一般ですが、どこに架かっていたのか、どのような橋だったのかなど、詳細は伝わってはいません。「源平盛衰記」で頼朝が陣を敷いた「滝野川松橋」を、板橋と同一視する見解もありますが、その当否も不明です。なお、江戸時代には中宿と上宿の間にある板橋が有名だったため、「江戸名所図会」は「駅舎の中程を流るる石神川(しゃくじかわ)に架する小橋あり、板橋の名ここに発(おこ)るとぞ」とし、かつ割注で「義経記」や「所領役帳」に触れています。
- ・ 「江戸名所図会 / 板橋駅」 「早発版橋 暁発版橋駅 / 迨々遠北門 / 山稀著日早 / 草短履霜繁 / 行李臨東道 / 長亭径大原 / 離家還未幾 / 遊子易銷魂 南郭」
- ・ 板橋宿本陣跡 代々飯田新左衛門が世襲した本陣は、この右手、現仲宿4-10にありました。参勤交代で通行した加賀前田藩などの大名や幕府の公用の武士、僧や公家などが休憩したところです。
- ・ 現在の板橋 「新編武蔵風土記稿」当時は「長九間幅三間」の太鼓状の板橋でしたが、自動車の普及に伴い昭和7年(1932年)コンクリート製となり、現在のものは昭和47年(1972年)架け替えられました。
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